第523話 第13章 エピローグ 大威徳呪・2


 室内とは思えないほどの勢いで炎が焚かれる。

 神仏の降臨を願い、真言を唱えながら護摩木を護摩炉の中の火に投じるのが護摩行となる。


 しかし、今の炎は、本願寺のこれまでの煩悩、これまでの罪、これまで積み重ねた恨みを燃料にするかのように激しく燃えさかっていた。


 あまりの炎の勢いに、護摩壇の前に座る証如の肌が焼ける。だが、彼は構うことなく真言を唱え続けた。


「オン・シュチリ――」


 証如のすぐ側で手を合わせる虎寿には真言の意味など分からない。分からないが、何とも言えぬ『力』を感じることはできた。


 虎寿。

 と、証如が小さな声で語りかけてくる。


「これよりヨリマシに天狗を降ろし、大威徳呪を執り行う。さすれば、いかな天狗とて調伏されるであろう」


「はっ、覚悟はできております」


 本願寺のためではない。

 ただ、証如のことを信じているがゆえに虎寿は即答する。

 そんな少年の覚悟を嘲笑うように――



『――はははっ! 面白い! 薬師如来の化身たる帰蝶様より『力』を授かった拙僧を調伏してみせるとな!?』



 この世のすべてを嘲るかのような声が室内に響き渡る。


「ひ!?」

「な、なんじゃ!?」

「て、天狗じゃ!?」


 顕如や見張りの僧兵たちが腰を抜かす。その視線の先にいるのは――異形の者。


 人の顔に、烏のような嘴。背中からは、これまた烏のような黒々とした翼が一対。


 これが天狗か。

 何という恐ろしさであろうか。

 霊的な才能がない虎寿ですら、天狗から発せられる圧倒的な『気』を感じ取れる。あれこそは、まさしく人外。人のことわりを外れた者。人を越えた力を振るう存在……。


 だか、虎寿は逃げなかった。

 どんな恐ろしい天狗であろうと、証如様であれば――正しき仏道を征く者であれば必ずや調伏してくださると信じているからこそ。


「虎寿」


「はっ! 天狗が現れたのなら好都合! 拙僧にかの天狗めを降ろしてくだされ!」


「――拙僧はもう、長くはない」


「……は?」


「かねてより病身ではあったのだが……。自分の身体のことは、自分がよく分かる。もはや拙僧には『時』が残されておらぬし、本願寺の改革など夢のまた夢よ」


「しょ、証如様?」


「だからこそ、そなたに託す」


「な、なにを……」


「本願寺はもはや手遅れ。腐った大樹は、根元から切り倒さねばならぬ。――外からまさかりを振るってでも」


 証如がにわかに立ち上がり、護摩壇に背を向け、天狗と対峙する。


「だが、切り倒すのに天狗の力を借りたとあっては末代までの恥よ。――人の犯した過ちは、人の手で正さねばならぬ。たとえ遠回りになろうとも、それが道義であるが故に」


「しょ、証如様……」



「オン・シュチリ・キャラロハ――」



 証如が真言を唱える。絶大な『力』を有する大威徳明王の真言を。


 だが、天狗に慌てた様子はない。帰蝶と、その師である異世界の神から直接『力』を授かった天狗が、多少術を使える程度の人間が唱える真言でどうにかなるものか。


 だが証如は諦めることなく真言を唱え続け、その様子にウンザリした天狗が首でも飛ばしてやろうかと一歩踏み出したところで――


「――すまぬな、祐珍」


 証如が、その名を口にした。


 本願寺の法主であった男が。木っ端坊主でしかなかった、かつて天狗が人間であったときの名前を。



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