第522話 第13章 エピローグ 大威徳呪・1


 天狗調伏のための大威徳呪。


 そのヨリマシ(依り代)に選ばれた少年虎寿は、行水によって身体を清めてから、元法主・証如の待つお堂へと戻った。


 お堂の中心にはすでに護摩壇が立てられていた。

 木製方形。壇中央に鉄製の護摩炉が置かれ、四隅には四けつと呼ばれる支柱のようなものが立てられている。


 四けつには壇線という五色の縄が張り巡らされ、これによって壇上に結界を張っているという。


「くっ」


 充満する伽羅の香りに、虎寿の頭がぐわんぐわん・・・・・・と揺れる。


 虎寿に密教の術に関する知識はないが、これから大威徳呪というものが執り行われるという。


 五大明王が一尊、大威徳明王。


 その由来は以下の通りだ。

 かつて悟りを開く直前にまで至った修行僧がいたが、彼は盗賊たちに襲われ、共にいた水牛と一緒に首を刎ねられてしまう。


 悟りへの道を閉ざされた修行僧の怒りは凄まじく、近くに落ちていた水牛の頭を自らの胴体に繋げ、盗賊たちを皆殺しにしてしまったという。


 しかしそれでも彼の怒りは収まらず、ついには関係のない人々を襲う悪鬼となってしまう。


 人々から助けを求められた阿弥陀如来(あるいは文殊菩薩)は、自分自身も悪鬼と同じ牛面の姿となり、ついに悪鬼を打ち倒した。


 その時の姿が大威徳明王(ヤマーンタカ)なのだという。


 その権能は驚異的であり、古くより戦勝祈願や悪魔降伏、さらには国家鎮護の利益があるとして信仰を集め……時には呪殺にも用いられたという。


「――来たか」


 と、お堂の中で虎寿を出迎えたのは現在の法主・顕如。


 元はといえば、虎寿は茶々――顕如の側近となるべく育てられてきた少年だ。

 しかしそんな彼が今、ヨリマシとして使い潰され・・・・・ようとしている。


 もちろん、ヨリマシとなったからといって必ず死ぬというものではない。

 だが、死ぬ可能性は確かにある。

 そんな危険なヨリマシに、将来顕如の側近となるべき虎寿を使う……。蓮淳が顕如のことを重視していない証左であるし、それに異を唱えられぬ顕如の立場の弱さも浮き彫りになっていた。


 今。お堂の中にいるのは証如と虎寿、あとは顕如と見張りの僧兵数人のみ。当然のように蓮淳はやって来なかったし、むしろ顕如がやって来たことが驚きだ。


 顕如の立場からすれば、この場に立ち会うことすらも蓮淳の許可が必要だっただろう。つまり、それだけ父である証如のことを気に掛けているということになる。


 だが、それがどうしたというのだ。

 本願寺を守るという建前で実の父を軟禁し、今まで一度も会いに来なかったような男が。今さらこの場に来て何になるというのだろうか。


 虎寿の胸中にどす黒いものが湧き上がる。


「…………」


 一度頭を下げただけで、一言も発さずに顕如から離れ、証如の元へと向かう虎寿。それは顕如に対する心の断絶を如実に現していた。


 虎寿とて無駄死にしたいというわけではない。

 本願寺が天狗に狙われるのも、今までの行いからすれば当然と考えていた。


 だというのに逃げ出さず、天狗調伏のこの場に戻ってきたのは――ひとえに、証如という人物を信頼しているからこそ。証如様が調伏をするというのならするべきであるし、証如様ならば必ずや天狗を調伏してくださると信じているがゆえ。


 もはや本願寺に何の期待も抱けない虎寿であるが、それでも証如から離れるという選択肢など存在しなかった。


「……虎寿。よいのか?」


 どこか不安げに証如が問いかける。今の彼であれば、たとえ虎寿が逃げ出したとしても責めたりはしないだろう。


「はっ、拙僧が証如様のお役に立てるのでしたら」


 迷いなく頭を下げる虎寿に対して、証如は潜めた声を掛ける。


「……虎寿。本願寺は道を誤った。仏門にありながら俗世の権力争いに荷担し、多くの信者を、多くの人々を殺めてきた」


「それは……」


「そして本願寺の罪は、とうとう天狗道に堕ちた者まで生み出してしまった。……その罪は、法主であった拙僧が向き合わねばならぬ」


「証如様……?」


「……では、これより大威徳呪を執り行う」


 虎寿少年をすぐ後ろに侍らせた証如は、大威徳明王の真言を唱え始めた。



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