第65話 少年と、少年
「へぇ。ですので、“薬師如来様”のおかげで病もすっかり癒えまして。わざわざ大坂からお越しくださって恐縮ですが、もはや加持祈祷の必要はないのです」
十ヶ郷の中でもひときわ大きな家。その家の中で郷長は深く頭を下げた。目の前にいるのは加持祈祷のためにやって来た大坂本願寺の僧侶たちだ。
どこか不敵な顔をする郷長と、困惑する坊主たち。
その様子を別室に隠れて見守っているのは郷長の息子、市助だ。
郷長は下げていた頭を上げ、つづけて金子の包まれた布を差し出した。
「こちら、ここまでの船賃と迷惑料と思ってお納めくだされ」
郷長の言葉に坊主たちは困ったように顔を見合わせた。
この近辺に布教するため派遣された坊主の報告から、ここの郷長が『御仏の加護』を演出するのに都合のいい病気であることは掴んでいた。寺というのは貧民の病気を診ることも多いので、『放っておいても治る病気』に関する知識の蓄積があったのだ。
加持祈祷で郷長の病気を治したように見せかけ、それをきっかけとしてこの地に布教をしようとしていたのだが……“薬師如来の化身”とやらが郷長の病気を治してしまい、さらにはこの郷の人間の信仰心を鷲づかみにされてしまったようであり……。
予定が狂ってしまった腹いせか。坊主の一人が嘲るように鼻を鳴らした。
「はんっ、しかし、薬師如来の化身とは不遜きわまりない。どうせ何らかの
――瞬間。
室内に轟音が響き渡った。乾いた音、と表現するにはあまりにも大きく、天を切り裂かんばかりの爆音であった。
それが火縄銃の発砲音と、気づいた者はいかほどか。
床板が鳴る。
坊主たちが音のした方を見やると、そこには火縄銃を腰だめに構えた市助が立っていた。
「――ねぇねを侮辱するのは、許さない」
憎悪もない、嫌悪もない。どこまでも平坦な声。だからこそ一種の狂気すら感じ取れる声であった。
火縄銃を向けられた坊主たちは慌てふためくが、唯一、同行していた少年だけは落ち着き払っていた。
そう、小舟の上で、帰蝶に声を掛けたあの少年だ。
少年は立ち上がり、向けられた銃口に怯むことなく市助の前に立った。まだ10にも満たないであろう子供とは思えぬ胆力だ。
「
だからこそ銃口を向けても脅しにはならない。少年はそう言外に臭わすが、指摘された市助に動揺はない。
「別の銃を使えばいいだけ」
弾切れはしておらず、引き金を引けば弾が飛んでくるかもしれない。その可能性を示された少年は一筋の汗を流した。
もちろん、火皿に火薬があるかどうかを見れば発射可能か確認することはできるし、よく見れば銃口から煙が立っているので発砲後だということも分かる。が、傭兵でもない少年にはそこまでの知識はなかった。
冷や汗を隠すように少年が温和な笑みを浮かべる。
「
「知らない。どうでもいい。ねぇねは、ねぇね。――何も知らない人間が、とやかく言うな」
「これはしかり。『姉』を侮辱されて怒らぬ道理はなし。さらには父君の病を治してくださった御方となれば、なおのこと。……しかし、いきなり発砲するのはやり過ぎなのでは? これは
「…………」
「…………」
睨み合う少年と市助。二人を止めるように郷長が大きく手を叩いた。
「
「……っ、……なんと! 仏の教えを広めるべき僧侶が如何様をするなどと! こちらとしても罰を与えなければなりませぬな!」
心当たりがあるのか、如何様の詳細については深く問わない少年であった。
胡散臭い物言いに郷長の目が細められるが、あえて気づかないふりをした少年が一つ提案をする。
「どうやらお互いに弱みがある様子。いかがでしょう? ここはお互いに相殺し合い、なかったことにするというのは」
加持祈祷に来た僧侶に銃を向けた市助。
火起請において如何様をした本願寺の僧侶。
どちらにしても表沙汰になったら面倒くさいことになるのは必至。だからこそ双方納得の上での『なかったこと』にする提案。
まだ10にも満たないだろうに、まるで人生経験を積んだ狸親父のような発言に郷長はいっそ感心してしまう。
「えぇ、そういたしましょう。……如何様をした坊主たちはいかがいたしましょう?」
「お手を煩わせるわけにはいきませぬし、こちらで引き取りましょう」
「そうしていただけると助かります」
少年と郷長が互いに頭を下げ合い、そういうことで、話はまとまった。
◇
「……あいつ、嫌い」
率直すぎる物言いに市助の父は苦笑してしまう。市助は表情を作るのが苦手なせいで感情が薄いと誤解されがちだが、意外と人の好き嫌いが激しいのだ。
「市助、敵でもない人間に銃を向けてはいかん。しかも相手は大坂本願寺の……」
「
「…………」
そうなのだ。
市助が銃を持ち出したとき、父親としては叱るべきだったし郷長としても止めるべきだった。にもかかわらず最後まで仲介しなかったのは――彼にしても、大恩ある帰蝶の偉業を『如何様』扱いされたことに怒りを抱いていたのだろう。
「……市助。数日後には帰蝶様も再びこの地を訪れるだろう。準備は済ませておけ」
「ん、わかった」
市助は大事そうに帰蝶からもらった火縄銃を抱きしめたのだった。
◇
信長たちに捕らえられた男たち――火起請で如何様をした生臭坊主たちは上半身を縛られたまま本願寺側に引き渡された。
十ヶ郷や中郷としては自分たちでケリを付けたい思いもあったのだが……本願寺側が『お手を煩わせるわけにもいきませぬ』と発言した以上、任せておけばすべて解決するだろう。
「お、お許しを!」
「途中までうまくいっていたのです!」
「それをあの女が邪魔をして!」
「あやつこそ仏敵法敵の類いに違いありませぬ!」
生臭坊主共は必死に言い逃れをしようとするが、本願寺の僧たちは耳も貸さずに乗ってきた船に押し込んだ。郷の者に懇切丁寧な挨拶をしてから船を出す。
船が沖から離れ、大坂へと戻る道中。
「―― 一向専念 無量寿仏」
そう唱えた僧侶が生臭坊主の一人を船から海に突き落とした。……上半身を縄で縛ったまま。
「な、何をなさいます!?」
驚愕の声を上げる残りの生臭坊主たちも次々に海へと落とされる。何とか藻掻き息をしようとするが、上半身が縛られていてはどんなに泳ぎが達者な者でも沈むしかない。
「……おぬしらの罪を阿弥陀仏がお許しになるのならば、また
そんなことはありえないと知りながら。僧は素知らぬ顔で念仏を唱えていた。
「…………」
生き残ろうと必死に藻掻く坊主共を、件の少年は感情のこもっていない目で見つめていた。
程なくして男たちは海の底へと沈んでいき。興味をなくしたように少年は海から目を逸らす。
視線の先にあるのは先ほど離れた港だ。
「……はてさて。あの南蛮人は単なる幻術師か、あるいは真なる御仏の使いであるか……」
おかしそうに。楽しそうに。少年は誰に言うともなくつぶやいた。
この少年、幼名を茶々という。
のちに。12歳の時に父である証如を師として得度。その後は『本願寺顕如』と呼ばれることになる男である。
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