第18話 美濃のマムシ
斎藤道三は私室にて茶を点てていた。用意した茶碗は二つ。薄茶であるので回し飲みなどはしない。
一見すると室内には道三しかいないように思えるが、呼吸を落ち着けてから改めて部屋を見渡すと他に二人の男性がいることに気がつくだろう。存在するのに意識しなければ視認すらできない。そのような非常識を平然とやってのけるからこその饗談(忍者)であった。
「して。帰蝶の様子はどうだ?」
道三からの問いかけに饗談の一人が頭を下げた。身なりは貧乏牢人といった感じだが不自然なほど印象に残らない。
「はっ、帰蝶様は本日自室にて薬を作られていたご様子。それがしもこの目で確認いたしてございます。されど、城下の者からは帰蝶様が茶屋の主人の病を治したとの報告が。帰蝶様の外見では見間違いはあり得ませぬし、一体どういうことなのか――」
「ふむ、まぁ深く考えるな。帰蝶の母親もよく
「は、はぁ……?」
それでいいのだろうかと饗談の男は首をかしげたが、雇い主がいいというのだからいいのだろう。
正直、別の場所に同時に存在できるような『バケモノ』にはあまり関わりたくないのが本音である。彼は修行に修行を重ねて気配を消せるまでに至ったが、だからこそ帰蝶の非常識さには恐ろしさしか感じられない。
「女中からの報告は?」
「はっ、お言葉通り、帰蝶様の背中、右肩の辺りには三つ連なるホクロがあったとのこと」
「そうか」
軽く目を閉じた道三は“帰蝶”と再会した直後のことを思い出していた。あのとき道三は帰蝶の顔を撫で回していたが、同時に前髪も掻き上げていた。それはもちろん突如として現れた帰蝶が夢幻ではないかという確認であったのだが……額の上の『古傷』を確認するためでもあった。
幼い頃の帰蝶は転んで岩に頭をぶつけ、額の上を深く切ったのだ。幸いにして髪に隠れる位置ではあったが、愛娘を心配した道三は何度も見舞いをし、何度も傷の確認をした。
帰蝶の傷痕は道三の記憶にあるものと同じだった。
銀色の髪。
赤い瞳。
母親そっくりの顔。
背中の特徴的なホクロ。
そして、額の上の古傷。
これだけの条件が揃えば疑いようがない。
彼女は間違いなく
とっくの昔に確信を抱いていたというのに、それでも饗談に調べさせてしまう自分の疑り深さに苦笑してしまう道三であった。
「ふむ……」
帰蝶が城下に出ることに関しては問題ない。あれだけの足軽(暗殺者)を瞬時に排除した帰蝶だ、そこらの木っ端男にどうこうされるはずはないだろう。……帰蝶に近づく男を『処分』させようとするのはまた別の問題であるが。
そもそも母親にしても一カ所に留まるような人間ではなかったのだ。娘である帰蝶がおとなしく城に留まっているはずがない。
……勝手に抜け出すだろうとは思っていたが、まさか真っ正面から『マムシ』と掛け合い、やり込めて(午前中だけとはいえ)城下への道を切り開くとは予想しなかったが。
どうやら帰蝶は母親の自由奔放さと父親の腹黒さを受け継いでしまったらしい。道三としては少々の心苦しさがあるが、それを誤魔化すようにもう一人の饗談に声を掛けた。
「ヤツは口を割ったか?」
ヤツとは道三を襲撃し光秀に致命傷を負わせた足軽連中のうちの一人だ。帰蝶のおかげで事なきを得たが、本来であれば光秀は死に、道三とて生き残るのは難しかっただろう。
もはや道三は、愛する妻と帰蝶がいない世界に以前ほど執着していなかったし、それが油断に繋がったことも否定できない。
しかし、未来ある光秀をも巻き込んだことは許せない。
そして今の道三には帰蝶がいるのだ。まだまだ死ぬわけにはいかないし、邪魔者は徹底的に排除するのみ。
美濃のマムシ。
往年の威圧が戻ってきたのを感じ取ったのか饗談は少し震える声で道三からの問いに答えた。
「はっ、すんなりと吐きました。やはり首謀者は土岐頼芸であるとのこと」
土岐頼芸。美濃国の元守護であり、道三の主君であった男。さらに言えば道三がここまで上り詰められたのは頼芸が引き立ててくれたからである。
しかし道三の瞳に憂いはない。
「……愚かな。国外で大人しくしておれば命までは取らぬものを」
「消しますか?」
饗談の提案にしばし黙る道三。もはや頼芸を生かしておく理由はないが、今ここで謎の死を遂げれば道三が怪しまれるだろう。
ただでさえ頼芸の弟をはじめ、不審な死はすべて道三のせいにされてきたのだ。確かに思わぬ状況を利用したことは認めるが……これ以上悪名を広げては子供である帰蝶や義龍に悪影響が及ぶだろう。主人であり守護でもあった男の暗殺というのはそれほどに重いのだ。いくら下克上の世とはいえ……。
暗殺は難しい。
ならば、大義名分を得る必要がある。
それは絶対的な正義でなくともよい。他の人間が『そういうことならしょうがない』と納得できる程度の、いうなれば大義にすら至らぬ小義で十分だ。
「……噂を流せ」
「噂、ですか?」
「うむ。詳細はこの紙に記しておいた」
「……御意に」
「では下がれ」
道三が銭の入った小袋を投げ渡すと饗談二人は音もなく部屋から出て行った。
残されたのは道三と、手の付けられていない茶碗が二つ。
「……さすがに饗談を毒殺したりはしないのだがな」
たとえ雇い主であろうとも心を許しきらない用心深さを道三は気に入っていた。
何が楽しいのかくっくっくっと喉で笑う道三はどこからどう見ても『悪役』でしかなかった。
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