第7話 ときにはつまらぬ話を 〈3〉
「なっ……」
最初のワンフレーズを聴き終えないうちにトロイメライが明らかに狼狽したように呻いた。
他の悪魔たちもにわかに動揺しているのが見て取れる。一瞬だけざわついた礼拝堂はしかし次の瞬間には静まり返り、皆が要の演奏に聴き入った。
要の演奏は最初の一音から弱弱しく頼りなさげな、しかし確かな経験に裏打ちされた強かさをもつ、老ピアニストの所業そのものだった。
ピアニシモの箇所などは耳を澄まさなくてはそのすべてを聞き取れず、しかし滑らかに曲は組み上げられていく。
「……え、なに。これどういうこと?」
「なんだ、この演奏?」
「いいから。今は要の演奏に集中しよう」
周囲の様子を訝しむ由岐と蘇芳をルエが諭して前を向かせる。
曲が進むにつれ、すすり泣く声があちこちから上がり始めた。トロイメライなどはもう涙を隠す気もないらしい、子供のように泣いている。
「じいちゃん……っ。メナヘムじいちゃんっ……くそ、あいつやりがった。くそぅ……」
トロイメライが泣きながら奇妙な名を口にした。
「メナヘム? あいつ今そう言ったのか?」
ようやく合点がいったという風に蘇芳が顔を上げる。由岐はまだわからないままらしく、困ったようにルエと蘇芳、そしてトロイメライを見比べている。
要の演奏がどうして悪魔を泣かせるに至ったのか。ルエは由岐の腕を引っ張るとそっと耳打ちをした。
「要はね、一か八かの勝負に出たんだヨ。でもそれはピアノの真っ向勝負って意味じゃない。正面から悪魔に挑んでも絶対に負ける。それはキミもわかっているよネ」
「……うん。奴らはおよそなんでもやってのける。そういうふうにできているって前に兄ちゃんが言ってたよね」
「だから要はデータベースから当たりをつけたんだ。侯爵級悪魔であるトロイメライはああ見えて結構な働き者だ。特に芸術分野に秀でているために多くの芸術家や作家と契約して魂を奪ってきた。だから過去に悪魔と取引をしたという噂やいわくのあるピアニストをあらかじめ洗い出し、その中でもトロイメライに近い特徴をもった悪魔の逸話を探した。そしたらいくつかヒットした人物がいたんだ。その一人がメナヘム・ヴェルレヘム。一九〇〇年代初頭のドイツ生まれで、第二次世界大戦の際にナチスから逃れてイスラエルに移住した音楽家さ。ピアノ三重奏団を結成し、世界屈指の室内アンサンブルとして高い功績を残したのち、老年期にはソロのピアニストとして活動していた。彼のそのあまりに優れた技巧は悪魔と契約を交わして与えられた能力であると言われていた。にもかからわらずどうしてか魂を奪われることなく最晩年まで活動を続けていた。一説にはあまりに美しく優れた音楽を奏でたため、魂の期限を悪魔が先延ばしにしていたという……。要が今弾いているのはただの〈月の光〉じゃない。彼、ヴェルレヘムの演奏した〈月の光〉を完全にコピーした曲なのさ」
「そんなこと……確かに要は耳コピの達人だけど、あらかじめ聞いておく時間なんかなかったじゃない」
由岐の指摘にルエは口角を釣り上げて微笑みを形作った。
「要はね、さっき……トロイメライが弾き終わる寸前までヴェルレヘムの〈月の光〉を聴いていたのさ」
「え……?」
「要は最初からブルートゥースのイヤホンを髪の下に隠して嵌めていた。そして演奏対決が始まる寸前にボクは要にウェアラブルの再生機器を渡した」
「……手を握ったあの時か!」
「それでトロイメライの演奏に集中しているふりをしながら、実はこっそりヴェルレヘムの〈月の光〉を再生して聴いていたってわけだヨ。いやはや、すごい度胸だよネ」
「そんな……そんなこと、本当にできるの?」
「もちろん。でも、要にしかできなかった」
そう言われて由岐は終盤に差し掛かった演奏に耳を傾け、要をまっすぐに見つめた。
彼は長くしなやかな指で老ピアニストにしか出せない無二であるはずの音を奏でていた。そこには機多要ではなくメナヘム・ヴェルレヘムが座しているように見えた。
月の瞬きが流れるように曲が終わると、一拍の間をおいて歓声と拍手が上がった。
それは先ほどのトロイメライの演奏に対するものに引けを取らない大音量の喝采だった。
「……くそぅっ、もういい。今回はおれの負けだァ。おれはこいつのバンド、ブラッド・サック・マーダラーズにベーシストとして加入するっ!」
ぽろぽろと涙をこぼしながらトロイメライがそう宣言すると、礼拝堂に散らばっていた悪魔たちはまた歓声を上げた。結局、彼らは愉快なことさえあればそれでいいのだろう。
「機多要。どういうハッタリか予想はつくが、あのクソじじい……いや、メナヘムじいちゃんの演奏がまた生で聴けるとはなァ」
トロイメライは高級そうなシャツの袖でぐしぐしと涙を拭う。
「あ、あの……これ使って」
おろおろした要がポケットから取り出したハンカチを差し出すとそれで盛大に鼻をかんだ。
目元の紅潮した美貌はみている要達の理性を揺さぶるほどに色っぽかったが、一同はそれをぐっと堪えて話の行く末を見守った。
「あのじじいの魂を奪ったのは確かにこのおれだ。ただ、あんなに心を揺さぶる音楽を奏でる弾き手には出会ったことがなかった。それでついズルをしてねェ……奴から対価を受け取るのをちょっとばかり先延ばしにしたんだよ。結果、最高齢のピアニストとしての名声をもまんまと奴は勝ち取った」
「……そうだったん、ですね……」
「機多要」
「あ、か、要でいいよ、どうせもうバンド仲間なんだし……」
「そうか。じゃ、今日は飲もうぜ兄弟どもォ! 今夜はすべておれの奢りだ」
「えっ、ええと……」
夜の礼拝堂が消え失せたかと思うと、そこは何の変哲もないジャズバーに変わっていた。どんな魔術を使ったのか、一同はもう乾杯用のグラスまで握らされていた。
「オマエらがおれにどんな夢をみせてくれるのか、せいぜい楽しみにしていてやんよォ! それじゃ乾杯だァ!」
「乾杯!」
悪魔たちの歓声があがり、要たちもグラスを高く掲げて打ちあわせた。
§
「……それで、どう? 原稿は」
「今回のはなんとかなった……かな?」
午後六時半。ブラックシープバー。
そのカウンター席に座って、要は原稿のチェックを行っていた。開店直後のためにまだ客は要しかいない。さすがにアルコールを頼むのは差し障るのでノンアルコールカクテルをルエに作ってもらって、それをちびちびやりながらの作業であった。
マスターは店を開けて外出している。だから店内にはルエと要の二人だけだった。
「いつもギリギリのときにいさせてもらっちゃって、ごめんね?」
「カタいことは言いっこなしサ。この店って不思議と作業が捗るでしょう。ボクも要が書いているところを見られてうれしい。だからいいヨ」
「……ありがとう」
この店の居心地がよいのは本当だ。完全な安全圏で仲間たちの行きつけでもあるし、要個人でもよく利用する。むしろ他の店を利用することの方が稀だ。
それに最近はまとまった収入――一生涯で使い切れないような額を手に入れたから、破格に高くて美味い酒のボトルもキープしてある。
ルエやマスターはその理由を一切問いただすことはなく、ただプロのバーテンダーとして接してくるだけだった。そういうわけで、カウンターの左隅の席は要の定位置なのだった。
原稿チェックといえど、要の場合は大きく手を入れることもある。今夜も原稿データを前に云々唸りながら赤を入れている際中だ。そういうとき、大抵ルエは黙ってみていてグラスが空になるのを見計らって注ぎ足すか、別の飲み物やつまみを提供してくれる。今日もそれは変わらなかったが、珍しくルエの方から話を振ってきた。あるいは作業に行き詰まった要の緊張をほぐすためだったのかもしれない。
「……由岐がネ、最近すこし元気がなくってサ」
「あ……そう、だね……由岐くん、ちょっと調子が悪そう、だよね……」
思わず顔を上げた要に「ごめんネ、作業して」といいながら、ルエは後を続けた。
「原因は多分……薄々わかってはいるんだけどネ」
「そう、なの?」
「……うん」
「そうなんだ。僕はその、てっきり……いや、いいよ。なんでもない」
思い当たる節ならある。だがそれを口に出して無粋にも本人につきつけるだなんて自分にはできない。トロイメライあたりならやりかねないが。
要が押し黙ると、ルエがグラスを交換しながら小さく「要なら笑わないで聞いてくれるかナ」と言った。絶対に笑わない。そんなことできっこない。そう答えるのも憚られるような感じがして、要はただこくりと頷いた。
「ボクはね、みんなのことが好きなんだよ。蘇芳も、要も、トロイのことだって好きサ」
「……由岐のことは」
「好きだよ」
ルエは大切そうに言って淡く微笑んでみせた。そのまま泣き出してしまうのではないかと心配になるほどに儚い笑顔だった。
だから、どう好きなのかを問う必要はなかった。
「でもね、ボクはこんなだ。キミらがどんどん成長して、そして遠ざかるのを見ているだけ。見た目だけならもうじきキミたちはボクに追いつくよネ。だけどボクはずっとこのまま……そして死ぬこともできない」
「……ルエは死にたいの」
グラスの中の氷がからん、と音を立てた。
「死にたくないヨ。死ぬのはこわい。笑っちゃうよネ、死ぬことすらできないのになんで」
「おかしくないよ。僕も、最近は死ぬのがこわい」
だから本当は少しだけ後悔している。
あの時、トロイメライと契約を交わしたことを。
「……ボクら昔から似た者同士だネ」
「ぼ、僕がルエと……?」
「臆病なところとかサ」
「……さすがに今のはちょっと傷ついた、かな……」
「臆病な子が一番しぶとく生き残るんだ。それが人間というものだヨ」
それじゃあ自分はもうその埒外の存在に成り下がってしまったのかもしれない。この街と同じ、怪獣に。要はそれを言わずにおいた。
「ルエ、僕のボトルちょうだい。一緒に飲もうよ」
要は持ち歩き用のパソコンを閉じると、アルコールを出すようにルエに頼んだ。
「原稿は?」
「……今夜くらい休んだってどうせ同じ……だから」
「わかった。飲もう」
ルエは要がキープしていた異次元の銘酒レニヒッツ一八九九を取り出してくると、二人分のグラスをカウンターに並べた。
「臆病者の僕たちに」
適当な音頭を取って乾杯し、グラスを傾ける。何者にも喩えがたい味の酒が喉を焼いた。
ふたりして「かはーっ」と息を吐くと不意に笑いが込み上げてきて、要とルエは互いに「くふふふ」と抑えた笑い声を漏らした。
「要は本当に大きくなったネ」
やがて笑いの収まったルエがふとそんなこと言うので、要は少しだけまごつきながらも返答した。
「……そうかな。僕は夢ばっか見て、そればかりが大きくなるだけで。けれどそれももう手に負えなくなってきたところだよ」
ジャケットからアシュトンのシガリロを取り出すと、魔法じみた手つきでルエが火を点けてくれる。
ただ人前で恰好つけたくて煙草を吸い始めたら、いつの間にかやめられなくなっていた。
それでも少し咳き込みながらふかして、口元を手で拭う。ルエには見られないようにその手をハンカチで拭き取った。こげ茶のチェック模様に赤黒い染みが広がる。
「……要、キミ」
「僕もいいかげん大人にならなくちゃ……ね。ルエみたいなかっこいい大人にさ」
「それは買い被りすぎだ。それに、そんなにひとっとびに大人になられたらボクが寂しいヨ」
「……あーあ。大人になれば書きたいことも増えて、自然にネタが浮かんでくると思ってたのになぁ」
来月締め切りのコラム、どうしよう――。
本当のところ今の要にとってはタウン誌の連載コラムなど然したる問題ではないのだが、さも大げさに溜息をついてみせる。ルエの気を逸らすためのポーズでしかなかったが、意外にもルエは何かを思いついた顔になった。
「ねえ、要。書くことがなくなっちゃったのなら、ボクらのことを書けばいいヨ」
「……急にどうしたの。だいいち、僕らのことを書くだなんて僕たちだけの秘密を世間様に曝け出すようなものじゃないか」
「何が真実かなんてどうせ誰にもわかりっこないサ」
「だけど」
「それに、キミの好きな映画。あれの中に同じ台詞、あったでしょう」
「……覚えてたんだ」
「あたりまえだろう?」
スタンド・バイ・ミー。要にとってのオールタイムベスト。その中に正確には「題材(ネタ)に困ったらおれたちのことさえ書きかねないな」という言葉だったと要は記憶しているが――ともかくよく似た台詞が出てきたことは間違いなかった。
「キミが書く物語は面白い。だからその中でだけはせめてボクらをずっと躍らせてやってほしい。永遠がないならキミが永遠に続く嘘をついてやればいい」
「そんな途方もないこと僕にはできっこないよ」
「そうかな?」
「……そうさ」
要がつれない返事をしてもルエはどこか愉快そうな表情をして杯を傾けている。
本当にルエは狡い。いつもこうだ。
いくら愚痴っぽいことを零しても、最後にはどうしたって書かずにはいられないような気分にさせられるのだ。
「僕たちのこと、か」
今はもうまんざらでもない気分だった。
そのまま要が思考に没頭していくのをルエは黙って見ていてくれた。
§
「僕が君と契約をしていること、ルエは感づいているかもしれない」
まだ酔いが覚めやらぬ中、夜半過ぎに迎えに現れたトロイメライと連れ立って歩きながら要はそう口にした。
「冗談抜かすなよ相棒。……いや、あいつならありうるなァ?」
「でも、多分だけど……だからって何かしようってわけじゃないと思う」
もうだいぶ前から知っていて、それでいてわざと見ないふりをしている。あるいはそんな気がすると打ち明ければ「アー。そういうことかァ」とトロイメライは天を仰いだ。
「まァ、おれはどっちでもいいけどねェ。視力に金、オマエの願いは三つのうち一つを残してすべて叶えた。初っ端からじゃあまず試しに眼鏡をやめてみたいって言われたときにはコイツどうかしてるなと思ったが、やってみりゃあなかなかどうして楽しいお仕事だったよ」
「……それはなによりで」
「あと一つが成約するのももうすぐさ。オマエちゃんは朗報を待つ身で、おれちゃんはその間休暇を満喫するだけ。点数も稼げてお休みも継続できちゃうおれちゃんマジ有能!」
愉快そうに嘯くトロイメライを無視して、要は少しよろめきながらもそのまま雨に濡れた夜道を歩く。少し歩いたところで大きく咳き込むと、血反吐を戻した。
トロイメライが要を支え、その背をさする。
「あーあ。だいぶガタがきてンなァ。ま、時限契約の報いだ。オマエの命を吸い取って最後の願いは成就する。これはその証さ」
「ごほっ……うるさいな。わかってる」
トロイメライの腕を振り払って要は再び歩き出す。
その仕打ちに特段腹を立てることもなく、トロイメライが後からついてくる。その様は主人に追従する道化師のようでもあった。
「……僕自身が魂を代償に願ったことだ。今更目を背けたりはしないよ」
要は口元を袖で拭い、きっ、と前を見据えた。
その瞳の向こう側に映る景色を知るのは悪魔トロイメライと彼に魂を売った人間・機多要だけだった。
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