第6話 ときにはつまらぬ話を 〈2〉

 


 円山裏参道の高級住宅街。

 医者や公務員をはじめとする高給取りの暮らす町だったこの辺一帯も怪獣化によって居住層が入れ替わり、今では悪魔や闇小妖精ダークエルフの棲む街となっている。

 果たして、目抜き通りを入って少し入り組んだ場所にジャズバー〈アサイラム・ピース〉は確かに存在していた。和洋折衷建築の館を改装した戸建ての店だ。

 午後九時半。

 ブラッド・サック・マーダラーズの四人はこのバーの前で待ち合わせた。

「マスターによると件のトロイメライって子はだいたい深夜にはここにいるらしいヨ」

「ンだよ。悪魔のわりには随分いい趣味してンじゃねえか」

「す、蘇芳は悪魔に対して偏見持ちすぎなんじゃない、かな……?」

「むしろ蘇芳のほうがデビルマンって感じの見た目なのにね」

「ネー」

「おまえら人のことを永井豪作画っぽく言うンじゃねえ!」

「ほら、デビルイヤーは地獄耳っていうじゃんか」

「それもっぺんいってみやがれよ、由岐」

「ちょ、ちょっとみんな……一応ここ住宅街だから……静かに、ね……?」

 やっとのことで要が絞りだした一言で、すっと全員が大人しくなる。

 羊頭マスターによればベーシスト候補の侯爵級悪魔はトロイメライ・トロイダルという名で、夜はこの円山や西28丁目界隈で遊びまわっているのだそうだ。中でも根城だと言われているのが今夜四人が訪れた〈アサイラム・ピース〉で、運が良ければ実際に演奏している姿も見られるという。

 一見さんお断りのこのバーであるが、ルエとマスターの人脈を介して入館の手筈は整っている。あとはどうにかしてトロイメライを口説き落とすのみだった。

「さて、行くヨ」

 ルエの合図に頷くと、一同は館の扉を開けた。

 瞬間――心地よいピアノの音が溢れた。ほどよくぬくめられた夜の空気は芳しく、ひどく懐かしい夏の終わりの匂いがした。

 急に込み上げた郷愁に思わず涙が零れそうになるのを堪えて前を向くと――そこに広がっていたのは異質すぎる光景だった。

 扉は名も知らぬ月下の礼拝堂へと繋がっていた。ただし、そこは外から見るよりもはるかに広大な空間で……というか構造上無理が生じているのが誰の眼にも明らかであり、他の三人も一瞬呆けたような唖然とした表情を浮かべているのが見て取れた。

「いったいどういうことだよ、これ……」

「これは参ったナ。ボクら、まんまと罠に嵌められた」

 斑目兄弟が小声で会話している。

「この空間自体が体よく拵えられた異形だというわけサ。トロイメライくんの方からボクたちを招待してくれたんだ。多分どこかで悪魔たちのネットワークにボクらが彼を探していることが漏れたんだネ」

 その間もピアノの演奏は続いている。最高の皮肉か、曲は聖歌だ。しかし自然と音が体の底まで落ちてくる。

 そうだ。あそこで礼拝堂のピアノを演奏している青年こそトロイメライ・トロイダルその人だ。要も他の皆もそう確信したらしい。

 弾き手はぞっとするくらいに美しい男だった。あらかじめ聞いていたからそうだと判るだけで、知らなければ女だといわれても信じたかもしれない。それぐらい華憐でグロテスクな美貌の持ち主だ。ネオンカラーの髪に黄昏色の瞳。燃えるような紅色と黄金、そして暮れなずむ藍が同居した不可思議な色。

 特に双眸が印象的だった。どこかをみているようでどこも見ていない、誰とも目があうことのない彫眼を思わせる目をしていた。そいつが細くて長い指でひとり鍵盤を叩いている。

 崩れかけた教会、そのチャペルチェアの其処此処には観客が座っていて、銘々が音楽を楽しんでいるように見えた。これも魔術による幻覚なのか、それとも本物なのかは定かでなかったが。

「ちっ、次元封印魔術ってわけかよ。気に入らねえ」

 ぐるる、と喉を鳴らして蘇芳が毒づく。

 ここはもう相手の領域だ。向こうが何らかの形で納得するまで外には出られないということだから無理もない。

「でも余計な手間が省けたとも言えるヨ。彼には交渉に応じる気のある可能性が高いってことなんだから。それにほら……曲が終わるヨ」

 しっとりと、それでいて激しく。惜しみなく与え、奪うように。

 トロイメライの演奏は要の心までも深く揺り動かして最高潮に達した。どうか終わらせないでくれ。もっとこの音を聴いていたい。深く深く溺れていたい……。そういう要の願いを知っていて手ひどく打ち捨てるように、そして完璧な演奏でもってその曲は終わった。

 静寂。

 一拍の間をおいて、散らばっていた観客たちが一斉に拍手を送る。

「……すごい」

 横に立つ由岐がそう漏らすのが聞こえた。

「あいつ相当上手いよ、兄ちゃん」

「そうだネ。彼ならベースだってなんだって難なく弾きこなすだろうサ」

「オレたちを此処へ通したってことはバンドに入る気があるってことなのかな」

「わからない。けれど、多分そう簡単にはいかないんじゃナイかな」

 ルエが困ったように笑って答える。その語尾に「ご清聴ありがとう」とよく通る声が重なった。近くに座っていた客に「ありがとう」と一人ずつ言って回ると、初めてトロイメライがこちらを見た。

「ところで、紳士淑女の諸君。今晩は内緒で秘密のゲストを迎えてる。新進気鋭のロックバンド、ブラッド・サック・マーダラーズ!」

 仕掛けもないのに急に灯ったサスペンションライトが四人の姿を夜闇に浮かび上がらせた。

 わあ、という歓声と共に軽い拍手が上がる。

「ど、どうしよう。歓迎……されてる?」

「もう分かんねえなコレ」

 蘇芳と共に囁きあっていると、トロイメライが「ほら、こっち。どうか前に出てきてくれよ! おれに恥を掻かせないでくれ」と面白おかしく言ってみせる。

 四人はどうにか教会の中央に進み出て、最前列の前に並んだ。

 あちこちに座った客たちが興味深げにこちらを見つめて何事かを囁き合っている。

「ようこそ。こんばんは、皆さま」

 うやうやしくトロイメライが礼をして、手を差し出してくる。一応はリーダーということになっている蘇芳がそれに応じて握手を交わす。

「どうなってる。何の真似だ? これは……」

「佐渡島蘇芳クン、だよねェ? おれはトロイメライ・トロイダル。これでも一応悪魔のはしくれだよ」

「……侯爵級がはしくれとはネ。地上にはどうして?」

「単純に休暇で。おれは働き者だから、少しばかり長い休みを貰ってねェ。だからサイトシーイングってわけなのさァ。お前は斑目ルエ、吸血鬼の兄さんだな。やっぱ見た目からしてエロいねえ、吸血鬼ってやつァ」

「ふん、さすが。ボクらのことは全部調べがついているってワケか」

「ちょっと面白かったんでねェ。悪魔のおれをわざわざバンド……それもお子ちゃまばかりのアマチュアバンドに迎えたいって奴らがいるって聞いたんで、こうして先手を打たせてもらったんだよ。面倒くさい段取りは全部抜きにして、お互い直接吟味しようぜェってことで。ねェ?」

「お子ちゃまって何だよ。その言い方」

「斑目由岐。オマエちゃんが一番年下のお子ちゃまだね。ふうん、興味深い性癖を抱えてやがるなァ。あんまり業が深いとおれの手にも負えないぜ?」

「なッ……おまえ!」

 どうしてか慎重派の由岐がかっとなって飛び出そうとしたのを要は慌てて抑えに入る。ルエも後ろから由岐を掴んで止めに入った。

「由岐くん、落ち着こう……こ、ここは冷静に、ならなきゃ……」

「でェ、オマエが機多要かい。…………うん、はい」

「ちょっ、いくら何でも、き、傷つくよ、その反応」

「いや、その……言っちゃあ悪いがこのザ・最強メンバーって感じのメンツでオマエだけしょぼいもんだからつい。ほら……あの、ごめんなァ?」

「いまので余計に傷ついたし!?」

「ともかく、だ。おれはぶっちゃけオマエらのブラッドなんたらってバンドに入ってもいいと思ってる」

「えっ」

 さすがの急展開に全員が声を漏らした。

「だがねェ。ただで入ったんじゃ面白くもなんともない。わかるだろォ?」

「万年暇つぶしのお前ら悪魔族のことなんざわかりたくもねえよ」

「そうカタいこというなって。お集まりの皆さん! おれは今夜こいつらに勝負を挑む。それに負けたら彼らのお子ちゃまアマチュアバンド、ブラッド・サック・マーダラーズに加入する。彼らはベーシスト不在で困っているっていうんだ。せっかく地上に受肉した身、慈善事業を営むのも悪くない」

 トロイメライがそう呼び掛けると、聴衆は「いいぞ!」だの「とっとと勝負しろ!」だの「面白い!」「負けないで、トロイ!」だのと騒ぎ立てた。どうやら今夜の客は本物で、しかもトロイメライの身内らしい。すなわち今自分たちは悪魔どもに囲まれているというわけだった。 

 ぞっとしない状況に全身から冷や汗が吹き出すのを感じ、要はぶるぶると震え始めた。

「んなっ、勝負って勝手に決めるなよ!」

 由岐が突っ込みをいれるが、その後ろではルエが「でもこれはチャンスかも?」と首を傾げている。

「勝負だと? 方法はなんだ」

 蛮族か何かの気概を発揮した蘇芳が素直に勝負方法について訊ねた。

 最悪の展開だ、と要は内心で叫んでいた。

「おれチャンやさしーからなァ。ここでオマエらにハンデをくれてやるよ。おれが無理やり呼びつけたんだ。方法はオマエたちに任せる。オセロだろうがチェスだろうが、殴り合いでもなんでもいい。せめてそれだけは決めさせてやるよォ」

 トロイメライはバンドに入る気があるのかないのか、意味不明なことをふっかけてきた。地上での娯楽を第一とする悪魔故の性格が出ているのかもしれない。

 一部の女性客からトロイメライコールが湧き上がる中、四人は額を突き合せた。

「……どうする? 方法は任せるっていってるけど」

「誰がいく? 何か勝てそうなこと、ある?」

「ル、ルエが舞台に出て曲に合わせて一枚ずつ服を脱いでいくとかなら女性票は確実なんじゃ……」

「兄ちゃん!?」

「ノー。ボクの心が死ぬ。それはできナイ」

「じゃあ俺が脱ぐ」

「それは……なんか男の人たちが別の何かに目覚めそうでいけない。というか裸は禁止! 禁止デス!」

「なら殴る。もう殴ってモノにすりゃいいだろうがよ」

 嫌がるルエに無理強いはできまい。蘇芳が今にでも喧嘩上等と言い出しかねない殺気を放ち始めているのも気にかかる。流血沙汰はさすがにアウトな気がするが、これは自分の気が小さいだけなのだろうか。

 それにせめて音楽のことならば音楽で解決したい。トロイメライ相手に欲張りな思考だろうか。でもあんなベーシストをみすみす逃すわけにはいかないだろう。万年人材不足のパートなのだ。ここらで悪運とは手を切りたい。

 それにベースが悪魔族だなんて、モンスターバンドを目指している自分たちには誂え向きなんじゃないか。これは皆が思っていることだろう。

 第一、悪魔相手にはしっかりきっちり契約をとりつけるのが一番合理的な方法だ。

「ぼっ、ぼぼっ、僕がっ!」

「え? どうしたの、要……」

 思いついたと実感したときには勢い余ってもう声に出していた。やばい、と思った。でも乗りかかった舟だ。たとえ泥船であっても沈むのは自分一人だ。それどころかもうとっくに底まで沈んでいるではないか。それならばやってしまえ。

「僕が……僕があなたに勝負を挑みます。方法は一対一、一人一曲だけのピアノバトルで」

 要は堂々と宣言した。

 しん、と静まり返ると一拍をおいて全員が叫んだ。トロイメライも観客もそこに含まれていた。

「えぇ――――ッ!?」

「よ、よりによっておま……え? え? これドッキリ? いいの? おれ……おれきっと勝っちゃうよォ?」

「男に二言はありません。それと、順番はトロイメライさんからでお願いします。これはキーボード担当の僕からのハンデです」

「なっ……」

 無謀ともいえる行為の上にこの宣言。もはや全員が絶句している。

 しかし、あともう一押し。あと一押しで落ちる。

「僕だって一介のピアノ弾きだ。ピアノにはピアノで。音楽のことならば音楽で勝負するのが筋じゃないですか」

 冷や汗も拭わず、何一つ取り繕うことなくそう口にする要を、トロイメライが初めてまともに一瞥した。

 すうっと目を窄めるような表情になり、一言「なるほどねェ……」と呟くと彼は頷いた。

「いいぜェ、分かった。機多要、オマエとピアノで勝負だ。拍手の多かった方が勝ちで先攻はおれ、これで文句ないなァ?」

「ありません」

 要も深く頷いた。

「要! 大丈夫なのかよ?」

「……ごめん、正直自信はない。でも、五分五分だと思う」

「それどういう意味……」

「由岐、蘇芳。ここは要に任せよう」

 何かを察したルエが――ああ、本当にルエはいつも察しがいい――二人を抑えて要の手指を握ってくれた。そこに忍ばせられた確かな感触に要は眼だけで意思表示した。

「がんばってネ、要。ボクらのバンドの命運、キミに任せるヨ」

「……うん」

 先攻のトロイメライがピアノの前に置かれた椅子に座った。要たちは最前列の椅子に腰かけた。

「曲は自分で選んでいいんだよなァ?」

「ええ、そうしましょう」

「それじゃあ、おれが弾くのはBallet Mecanique」

 宣言を経て夜の礼拝堂が静まり返る。

 最初の一音で「きた」と思った。機械的なリズムが一転して受肉し、有機的な音の翼が与えられ、そして羽ばたいてゆく。アレンジを最小限に抑えた演出も心地いい。

 圧倒的な技巧はもはや魔法と見分けがつかず、一同は文字通り悪魔に魅了されたかのように聞き入っていた。

 約五分間に渡る演奏を、トロイメライは果たして見事にやってのけた。多分、本気を出していたはずだ。悪魔というやつらは遊びにも手を抜かない。

 感極まった客などは立って拍手をする始末だった。

「ちょっと……これはすごい、ネ」

 ルエが思わず感嘆に近い声を漏らすのを背後に、要は立ち上がってピアノのほうへと歩き出した。

「勝てるのかよ、要……」

 そう零す由岐の言葉も今は耳に入らない。

 すれ違い様にトロイメライが挑発的な視線を投げかけてきたが、それも気にならなかった。

 ピアノの前に座ってはじめて要は口を開いた。

「僕はClair de Lune――月の光を演奏します」

「月の光」はドビュッシー作曲のベルガマスク組曲、その中でも最も有名な曲である。

 仲間たちが天を仰ぐのも無理はない。さきほどのトロイメライの曲の躍動感たるや、それに比べてこの選曲はあまりにも「静」の面を強調しすぎている。トロイメライの「動」のピアノを意識して選択が裏目にでたのだと思われても仕方がない。

 だが、要が弾くのはただの「月の光」ではなかった。

 すぅっ、と息を静かに吸い込んで。

 要は最初の一音に指を落とし、「月の光」を奏で始めた。




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