第4話 小さい天使と獣人探偵 〈2〉
極彩色のネオンが今は真っ黒に沈んだ川面に反射し、鈍くちらちらと輝いている。
立ち上る冷えた水の匂いだけが心地よく澄んでいて、襲い掛かった急展開によって混乱した思考を少しだけ醒ましてくれた。
蘇芳は少年を背負い、豊平川沿いの自宅までの道のりを歩いていた。夜明け前のこの時間帯はもっとも暗い。闇の底ではこの街を飲み込んだ異形どもが蠢いている気がする。喧噪を遠巻きに臨む区域ではあるが油断がならない気がして、蘇芳の足取りは速かった。
そういえば遠い昔、いつかもこんなことをしていた記憶がある。ただし、あのときは仲間たちが一緒で、みんな随分と幼かったが。
そんなことを思い出す頃にはもう自宅マンションであるシャトー豊平弐番館が目と鼻の先に見えていた。
咒封印オートロック式の賃貸マンション、六階角部屋。そこが蘇芳の部屋だ。当たり前だが、外から見上げても電気はついていない。眠ったままの少年を背負い、自室である六〇四号室まで辿り着くと、蘇芳は部屋の鍵を開けた。
何の変哲もないワンルーム――強いて言えば学生向けというには少しばかり広めの一室は昼間出た時と同じで変わった様子はなにひとつなかった。玄関に仕込んである魔除け兼防犯用の魔呪符も破られたり弄られた形跡はない。
ひとまず靴を脱いでパーティションの向こう側のベッドまで歩き、抱えた少年を横たえる。
このまま自分も眠ってしまいたい気分だったが、そうもいかない。深く溜息をつくと、蘇芳は眼前に横たわる少年をなんとなしに観察した。
ぶつかったときにはフードを被っていて分からなかったが、髪も肌もおそろしく白い。髪は自ずと光を放っているかのようなプラチナブロンド。肌も負けじと白くて艶やかな……ちょうどルエかトロイメライと同じ具合の上質な肌感だ。瞳の色は今は閉じられていてわからないが、出会ったとき妙な既視感を覚えた。フードの奥で爛爛と輝いていたあの怪しい眼。あれはいったい何だったのだろう。まさかこの少年もまた怪しき存在だとでもいうのだろうか。
悪い予感が胸をよぎった。どこかでトロイメライがせせら笑う声が聞こえた気がした。
あいつは自分にとってより面白い方向、つまり蘇芳が苦労を背負いこむように首尾よく立ち回ったのではないか。奴があんな風に素直に逃亡劇に手を貸した理由もそう考えれば合点がいく。怒りがふつふつと腹の底から湧き上がった。
「あいつめ……次会ったら一発殴る」
「……ううん」
その時だった。どこか艶めかしい呻き声を漏らし、少年が身を捩った。どうやら蘇芳の独り言が煩かったようだ。夜が明けるまではまだしばらくある。今夜はこのまま休ませてやるのがいいだろう。
体位交換や着替えなら多少の心得はあった。蘇芳は少年からレインコートだけを引き剥がすと、そのままベッドに寝かせてやった。
今夜の悪運を洗い流すような気持ちでシャワーを浴びると、蘇芳はリビングスペースに置いたソファに横になった。
浅い眠りの中で見たのは、昔の記憶――少年の頃の夢だった。
§
「約束してくれる? 兄ちゃんにはぜったいに内緒だって」
年下の幼馴染である由岐がひどく真剣な様子で念を押すものだから、最初は異種族かなにかの死体でも見せられるのかと思って内心少しどきどきしていた。半分は興味本位、もう半分は恐怖で。
しかし、由岐の抱えた秘密はもっと本質的に怪なるものだった。
「はじめまして、だネ。ボクはルエ。吸血鬼なんだ」
異形の美貌を持つ年嵩の青年はそう言って挨拶をした。とても尊い微笑みを浮かべて。
吸血鬼であるルエの存在を打ち明けられたとき――そしてその姿を実際に目にしたとき、恐怖はきれいさっぱり消え去って、自分はこの誓いをどうしたって守らなければならないと直感していた。それもおそらくずっと先まで。
「ルエが元気になるまでどこか安全な場所で匿いたい」というようなことを由岐が申し出て、ルエが「ごめんね」と謝っていたことを思い出す。
実際、子供である自分たちが大人と思しき姿のルエを凶暴な大人たちからどう庇えばよいのか知恵を出し合う必要があった。
ただ、スラムに暮らす子供マフィアのネットワークは偉大だった。
「かくれんぼとか家出の要領でやればいいんじゃない、かな……?」という要の一言も功を奏した。要は小さな頃から怖がりで引っ込み思案だったが、どこか物事を俯瞰して見ているところがあり、みんなが重要な判断を下さなければならない岐路に立ったときには決まって妙案を出した。だから多少意気地がなくても仲間内で一定の立場を保っていた。
ともかく要の発案に従い、子供たちだけが知っている隠れ家や地下の比較的安全な怪獣街を転々と移り変わる形でルエという存在を秘匿し、守る日々が始まった。
「ルエは本当に吸血鬼なのか?」
ふたりきりになったとき、ふとそもそもの疑問をぶつけたことがある。
蘇芳は孤児で、ずっと前からスラムに一人で暮らしていた。獣人のためか、腕っぷしは人間の大人をすでに上回るほどだ。だからさほど生活に苦労はしていなかった。
時間なら有り余っている上に腕もたつので、ルエの護衛役として夜番を任されることも多かった。
ルエと毎晩のように話し込み、絆が深まれば深まるほど、その気安さや人の心を開かせる柔軟さに「果たしてこんなひとが本当に鬼とよばれる存在なのだろうか?」という疑問は膨らんでいった。それがあるときするりと口をついて出たのだ。
「蘇芳はとても頭がいい子だよネ。だから多分そのうち聞かれるんじゃないかって予想はしていたヨ」
「……急に褒めンなよ。調子狂う」
そっぽを向くと、隣でふわりとルエが笑う気配がした。
「だから、キミにならいいヨ。証拠を見せよう」
ルエの白い手が足元に転がっていたガラスの欠片を掴んだ。制止する隙はなかった。ルエは自らの右腕をざっくりと縦に切り裂いていた。
「ルエ、なにやってるんだよ!」
「いいから。見ていて」
そう言ってルエは力なく笑う。見ていても何も変わらない。傷口から血が溢れて滴り、地面を汚すだけだ。そう思ったが、結果は違っていた。
果たして最初のうちはぱっくりと開いた傷口から血が吹き出して次から次へと零れ落ちるのみだった。しかし、異変はすぐに生じた。ごぼりと傷口が泡立つように蠢き、赤黒い小さな蛆のようなものが無数に湧いて出たのだ。それらは傷から覗いた血肉を貪るようにルエの白い肌を這い回り、あっという間に羽虫に変じた。
「ルエ、これって……どういう……」
「気持ち悪いだろう? こいつらはネ、ボクの中に棲みついているんだよ。ボクの死を喰らって生きているらしい」
「らしいって、ルエにも本当のことはわからないのか?」
「そういうことになるかナ。それでも、ボクは彼らのために死ぬことができない。彼らがボクを生かし続けている限りはネ」
ルエはどこか遠くをみるような眼をして淡く微笑んだ。
血を吸い肉を喰らって腹の膨れ上がった蟲々は霞のようにあたりをぶうんと飛び回ると、やがてルエの右腕に開いた傷口――どうしたことか今は塞がりかけている――から体内に吸い込まれるようにして戻っていった。
後には傷などなかったかの如くに滑らかな腕を晒したルエと、唖然としたままの蘇芳だけが取り残されていた。
「吸血鬼と言っていいのかわからないけれど、ボクはこんなふうに命を繋がれ続けている。それに僕自身が人間の血肉を喰らって生きている。ボクはそういう存在なんだヨ。これで納得できた……カナ?」
困ったような顔で笑うルエに対し、蘇芳は少しの間を置いて頷いた。そうせざるを得なかった。それに、もうルエに自分を傷つけさせてまで己の存在について説明させるのは御免だった。
「……聞いて悪かった」
「ボクのほうこそゴメン。気味の悪いものをみせたネ」
「ルエが謝る必要はない。それに何者であってもルエはルエだ。今わかった」
「やっぱり優しいね。蘇芳は」
「……そういうの、やめろって」
どんな顔をしてよいかわからなかった。少なくとも蘇芳には本当に自分が優しいとは思えなかった。俺は弱い。だからあるがままにことを受け入れるしかない。それだけだ。それを優しさと呼ぶのはおこがましいことだとも思っていた。
「蘇芳はさ」
「なに」
「なるべく学校にいったほうがいいヨ。好きなことをうんと勉強して、その道に進んだらいい。ボクはそう思うヨ」
ルエは何を考えているのだろう、唐突な言葉に蘇芳は今度は答えることができなかった。
学校へ行く。そして好きな道を選んで進む。
自分のような野良犬が?
そんなたいそれたことなどできっこない。そう思って過ぎる日々をその日暮らしで生き抜いてきた。なのに、この吸血鬼はどうしたってそんな残酷な希望を突き付けるのだろう。
「……無理だよ、俺には」
途方に暮れながらなんとか答えると、ルエは否定も肯定もせずに「そうか」とだけ言った。
少しの沈黙が訪れ、夜がいっそう更けてゆくのを感じた。
いっそこのまま目を閉じてしまおうか、そう逡巡しているとルエが何か思いついたように顔を上げた。
「蘇芳、明日からここに来るときは紙とペンをもっておいで」
「……え?」
振り返ってみれば、ルエはにっこりと悪戯な笑みを浮かべていた。
「しばらくの間、ボクがキミの先生になるヨ」
それから、二人だけの秘密のレッスンが始まった。
§
自分だけの赤黒い闇がふっと明るくなったように感じて、蘇芳は自分がいつの間にか眠っていたことに気がついた。
身体がやけに重い。ソファで寝ていたのだから疲れが取れないのも無理はないか。
そうやって徐々に思考を巡らせながら目を開く――と、視界に飛び込んできたのはつやつやと光り輝く白銀の波。驚いた蘇芳は思わず目を瞬かせてそれを見直した。
波……というのは果たして間違っていた。誰かが自分の身体の上にぴったりと寄り添う形で寝そべっており、その髪が視界を覆い隠しているのだった。美しい髪だ、と思うと同時に知らない身体だとも思った。少なくとも数人いる遊び相手のうちの誰かがふざけて忍び込んだのではないことは分かる。そも、そんなことをするような女は相手にしない。それじゃあこれは誰なのか。
身を起こそうとすると伸し掛かった身体は空隙を作るまいと吸い付くように密着してくる。気が付けば、下着すらも身に着けていない全裸の少女が自分を押し倒す形で至近距離から見つめ返していた。
「なんだ……お前」
言いかけてようやく合点がいった。
「お前、昨日の」
「あなたはぼくを助けてくれた。だから、おれい」
「礼、だと?」
愚かしいほどまっすぐな薄紅の瞳が蘇芳の眼を覗き込んでいた。
「そう、おれい。ぼくにはこれしかできないから」
眼前の少女は昨日助けた少年だ。だが、少年というのは蘇芳たちの思い込みだったのだ。否、違う。蘇芳だけの思い込みだった可能性が高い。
トロイメライは逃げようとする少女を羽交い絞めにして捕らえていた。おそらくその時に察しがついていたのだろう。あいつはあろうことか大事なことを伏せたままで自分にこの少女の身柄が渡るように仕向けたのだ。
あの悪魔め。瞬間的に胸中に怒りが滾るが、少女はそんなことお構いなしにするりと後退るように這って、蘇芳の股座に鼻先を埋める。
細く頼りなげな手指が股の間を滑ってゆき、濡れた舌と粘膜が頭をもたげかけた陽物を包み込む。疼くような感覚が背骨を奔った。
「ッ、やめろ! 勝手をするんじゃねえ」
「んく……ぷはっ、でも……いまのでまた少し硬くなった。あなたの、おおきいね。ぼくの口じゃ難しいから……ッん……こっち、使っていい?」
眼の前に小さな果実のようなつるりとした性器が晒しだされた。十分に濡れて、とろとろになった赤い果肉がひく、と蠢くのが見えた。しかし、それと同時に少女の股間には確かに男性器がついているのが見て取れた。
「おまえ……使うな。しまえ」
「……でも。したくないの、ぼくと」
蘇芳と蘇芳のモノとを見比べて少女は不思議そうにしている。
「こ、れは朝だからだ……お前こそ、どういうつもりだ。俺は別にこういうのが目的でお前を助けたわけじゃねえ」
「そうなの」
「そうだ」
「……だったら、ぼくはどうしたらいいかわからない」
少女は途方にくれたような顔をして、蘇芳の腰の上に座り込んでしまった。
「……ちくしょう、意味がわからねえ。とりあえず俺から離れろ、むこうを向け。それからこれを羽織れ」
蘇芳の方からそっぽをむきながら、ソファにかけてあった自分のシャツを手渡す。とりあえずは裸身を隠して欲しいだけだった。少女は大人しく従ったようだ。衣擦れの音が聞こえ、背後でごそごそと着替える気配がした。
一方で蘇芳はにわかに驚いていた。視線を外す際に一瞬だけ見えたもの――それは少女の背中に片方だけ生えたみすぼらしい翼だったからだ。そしてそれらの羽根は無惨にも毟り取られたあとで、蝋燭の溶け残りのようにわずかしか残っていなかった。
「おまえ、
「……そう呼ぶひとたちもいるよ」
そう答えた声には何の感情も篭っていないように思われた。
人造天使は出自の不明な子ども……多くはスラムの子どもを攫って行われた人体実験の副産物だと言われているが、実際のところは定かではない。今ではヤクザの貴重なシノギになっているということだけがはっきりしている。
見目麗しい少年少女を違法な闇手術によって人工的に怪獣化させることで天使や人魚、ケンタウロスなど神話や民話の半人半獣を造り、愛玩・観賞用に売り出す――そういった商売がいつの頃からか営まれるようになった。
今、蘇芳の眼前にいる少女もそのようにして異形化させられた存在なのだ。その証拠に、先ほど垣間見た両性具有という異形の造形があげられる。
だとすれば、どうして男どもから逃げていたのかも容易に想像がつく。
「……買い手がついたのが気に入らねえのか」
「ぼくの前の子も、その前の子も一か月ともたずに死んじゃったって。天使を嬲るのが好きなひとがたくさんいるのは知ってるよ。今度のお客さんは年を取ったひとらしいけど、とくべつ頭がおかしいんだって兄さんたちが話してるのを聞いちゃった。それで、つい」
「そうか」
少女が逃げ出すのも無理からぬ話だ。だが、逃げたところで追っ手がつくうえに食べていくすべもろくなものがない。いつか遠からず破綻するだけの逃亡生活だ。
生体改造手術に無理な異形化を重ねられ、その上顧客に弄ばれる人造天使たちの寿命はこの社会にあっても極端に短いと聞く。
蘇芳が助けようが助けまいが、この少女の命運が尽きるのも時間の問題だろう。だが――。
「……服は着たか」
「着たよ」
振り返ると、だぼっとした丈の白いシャツを身に着けた少女の姿があった。朝の光に照らされたプラチナブロンドの髪と滑らかな雪肌は服を着ていてもなお艶めかしく映えた。しかし、少女の顔つきは思っていたよりも幼く、表情だけが残酷なほどに大人びているのだった。
「少し待ってろ。飯にするぞ。食うだろ」
「……うん。おなかぺこぺこだもの」
「そうか」
もろもろ身支度を済ませた蘇芳がキッチンに立つと、少女もついてきて手伝うような素振りをみせたので好きなようにさせておいた。どうやら要領はいいようで、蘇芳が特に指示を出さなくともよく働いた。
コーンフレークにミルク、それと冷蔵庫にある食材で二人分のオムレツとトマトサラダを拵えると、リビングスペースのテーブルを挟んで向かい合った。
「いただきます」
「……いただき、ます?」
蘇芳はたとえ一人でいても欠かさず「いただきます」の挨拶をする。理由は自分でもわからないが、なんとくそうしてきた。
少女も真似をしたのか同じようにいただきますと言ってから食事に箸をつけた。最初はもそもそと無表情で卵をつついていたが、そのうちに食べる表情もペースも変わった。
「うまいか」
「うん。とてもおいしい! こんなにおいしいのは初めて」
「……そうか」
厄介なお荷物を背負いこんでしまったと、そればかり考えていた自分を蘇芳は少しだけ恥ずかしく思った。
それに、心に余裕が出来て初めて気が付いたことがあった。ただ、それを口にしてしまえば後戻りができなくなることもわかっていた。それでも、蘇芳は意を決して問いかけた。
「……まだ聞いていなかった。お前、名前は?」
「テトラ。お兄さんは?」
「蘇芳。佐渡島蘇芳」
蘇芳がそう言うと、テトラは大人びた微笑を浮かべて何か大切なことを口にするように応えた。
「それじゃあ短い間になると思うけどよろしくね、蘇芳お兄さん」
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