小さい天使と獣人探偵
第3話 小さい天使と獣人探偵 〈1〉
第二話 小さい天使と獣人探偵
夕刻。
ススキノ界隈は行き交う人々と人ならざる怪獣、亜人どもでごった返していた。
この街もいまや三歩歩けば異種族とすれ違う立派な異次元世界の怪獣都市である。
岩石で全身が構成された怪獣がずしんずしんと車道を進んでいく様を蘇芳は何と無しに見送った。
しかしながら奇岩人に引けを取らず、雑踏を悠然と歩く蘇芳とトロイメライの姿もなかなかに迫力があった。
蘇芳は人狼故に上背がある。聳えるような長身の男を見れば大抵の者は物怖じして避けるように歩きだす。それに妙な眼力をもつトロイメライの存在が加われば自然と人々からは遠巻きにされる。おかげで歩きやすくもあるのだが、トロイメライの邪眼は蘇芳には些か無粋なように思われた。別に女を誰かれ構わず魅了したいなどという気はまったくない。むしろすすんで関わりたくもない。それなのにトロイメライと一緒にいると、ほぼ必ずといっていいほど女絡みのトラブルに巻き込まれる。そして嫌な顔をしつつも対処する蘇芳を当のトロイメライが面白おかしく眺めるという唾棄すべき構図が出来上がって久しかった。
そして、この日も同様にトラブルの火蓋が切って落とされようとしていた。
唯一今までと異なる点は、それが彼らの命運を大きく変えてしまう出来事だったことだ。
「蘇芳チャンよォ、実験とやらは無事に終わったのん?」
ネオンカラーの長髪を靡かせて蘇芳の隣を歩くトロイメライが訊いた。街の灯りで梳けて見える髪はきらきらと煌めき艶やかで、街行く人々からすれば魂消るような美女を連れ歩いているようにすら見えるに違いない。しかし相手はトロイメライである。腐れに腐った縁で結ばれた忌むべき相棒だ。蘇芳は仏頂面のまま返した。
「昨日触媒を与えて寝かせたばかりだ。早くても一週間しないと結果はわからん」
「まったく蘇芳キュンも物好きだねェ。都市怪獣化のメカニズムを解明しようだなンて今日日狂科学者みたいな連中の門下によくもまあ下ったもんだよなァ?」
「魔導化学研究室と言え」
「まァおれにはどっちでも同じに見えるけどねェ。で、楽しい? 院生生活って奴ァ」
「……まあな」
蘇芳が大学院に進学したのは一昨年の九月だった。仲間たちに祝・入院生活とプリントされた手製のド派手なTシャツを着せられ、夏の終わり、函館海游怪獣市に季節はずれの温泉旅行へ連れていかれたことはまだ鮮明に覚えている。
院生生活とはすなわち人生において棺桶に片足を突っ込んだも同然、ついでに博士後期課程ともなれば全身全霊棺桶に寝そべった危篤状態というのは歴代先輩諸氏の談であるが、幸いにして蘇芳の研究生活は順調でそれなりに楽しいものだった。時に苦労もするが、根が真面目な蘇芳にとってはそのようなことは何も苦ではなかった。
「そうか、楽しいか。おまえが言うのならそうなんだろうなァ」
何を感じ取ったのかは知れないが、トロイメライは蘇芳が自身の生活を肯定するのを見聞きするにつけ毎度同じように満足そうな顔をして頷くのだった。
「アー、これだから人間って奴ァ飽きないねェ。おれはオマエら四人それぞれが愛しいが、蘇芳チャンのことは一目置いているンだよ」
「置くな。死ね」
「そういうストイックでつんつんしたところが好きィ」
「俺はお前が割と本気で気に食わない」
そういうやりとりをしながら歩いていると、巨大なニッカウヰスキーのホログラム看板が燦然と輝くススキノ交差点まで辿りついていた。
宵闇に浮かび上がるひげ面のおじさんの肖像は通りの人々を見下ろすでもなくただ優しげな微笑みを浮かべて前を向いている。
「アー、メッセ入った。やっぱり今夜は要もルエも忙しいとさ。まァ要のは断りの方便だろうがねェ」
「……由岐は」
「定期試験が近いって慌ててたなァ。今頃は一夜漬けの最中だわな。てなわけでェ蘇芳チャンは今夜は晴れておれと二人飲みってことなのさァ」
元々今夜は実験明けで久しぶりに飯でも食おうと蘇芳が他の四人に声を掛けたのだが、こうして現れたのはよりにもよってトロイメライのみだった。
「よし解散だ。お前は道端で犬の糞でも食っていろ」
「ひどい! 肉食獣の血が流れてるンなら軽く焼肉くらい奢ってよ!」
「お前ら悪魔の趣味は人間BBQとかだろ」
「偏見だ! おれたち悪魔はもっとロマンティックなスウィート嗜好なの!」
「スイーツ脳はいい加減もう古いだろうが」
「ああん、けちんぼ~!」
そんなふざけたやり取りをしていたからだろう、常日頃注意を怠らない蘇芳だが、交差点の前方から走ってきた人物と正面から衝突してしまった。
どん、という鈍い衝撃が腰のあたりに響く。相手の背が低かったらしい。すぐに見やれば横断歩道の真ん中に尻餅をつく恰好で少年と思しき人物が倒れていた。黄色いレインコートのフードを目深に被っているために相手の顔は確認できなかった。
「悪い。立てるか?」
蘇芳はすぐに手を差し伸べた。相手も走ってきたとはいえ、落ち度はこちら側にある。
「……あ、あ」
「どうした?」
少年は蘇芳の手を取ろうとはせず、まるで何かに怯えるように上ずった声で喘ぎながら後退った。まだ子供だと、蘇芳は直観した。
「まァた、蘇芳が怖い顔するからァ」
「む。これは元からだ」
言い返しながら跪き、相手を助け起こそうとしたときだった。
「いたぞ! あそこだ!」
「捕まえろ、逃がすなよ!」
大きな声が聞こえたかと思うと人混みを掻き分け、数人の男どもが駆けてくるのが見えた。
「ひっ、あっ……」
眼前の少年はそれに気づくと震えあがり、それでもよろめくようにして立ち上がる。
助け起こそうとした蘇芳の腕を半ば弾くようにして走り出す――のをトロイメライがいとも簡単に捕らえて羽交い絞めにした。
「ハロー。そんなに急いでどこ行くのん?」
「う、あっ、に、逃げなきゃ……はなして!」
「逃げるって誰からァ? おれチャンたち? それともあっちのオトモダチからァ?」
「りょ、両方だよ! もっと遠くに逃げなくちゃ……そうでないと」
そうこうしているうちにそれなりに屈強で柄の悪い男どもが追い付いてきた。揃いもそろって明らかにカタギの人間ではない風体をしている。
蘇芳は男どもを睥睨した。その眼光の鋭さに男どもの方がたじろいだ。
「へっへっ、兄ちゃんがた。うちの若えのが迷惑かけたねぇ。さ、早いとこそいつを渡してくれねえか」
「おらっ帰るぞ、テトラ」
柄シャツの男がトロイメライの捕まえていた少年に手を伸ばす。
少年が「いやっ」と小さな声を上げて仰け反った。蘇芳は即座に男の手を掴み、ぐるりと捻り上げた。
「ぐ……ッてえなっ、なにすンじゃコラァ!」
「嫌がってンだろうが。それにそのガキがお前らの仲間だとは思えない」
蘇芳は至極真っ当な言葉を返した。決して他人に媚びず、脅しには屈しない――真面目で一本気な性格であるが故だ。だからこそ味方も大勢いたが敵もいた。そして今宵はその性質が敵を作った。
「な……んだと、てめえコラもういっぺん言ってみやがれ!」
「そいつをお前らに返すわけにはいかないと言ったんだ」
何事も面白いのが肝心だと思っているトロイメライだけが早くも事態のキナ臭さをキャッチしたらしく「うひょひょ」と笑っている。
「ちいっ」
男の一人がついに蘇芳に殴りかかった。もはや言葉は無用だと判断したらしい。だが蘇芳はひょいと首を傾け間一髪というには余裕のありすぎるタイミングで一撃を躱す。
信号が赤に変わり、クラクションが鳴らされた。巨獣が問答無用で車道を進み始める。
男どもが一瞬気を取られた隙を縫って蘇芳は瞬時に踵を返した。
「逃げるぞ」
「合点だァ」
言うまでもなくトロイメライは応じていた。細い外見には似合わず器用に少年の身体を担ぎ上げ、難なく疾走し始める。下手をすれば蘇芳を追い抜いてしまいそうな速度だ。
「追えぇ! 逃がすんじゃねえぞ!」
一拍をおいて男どもも走り出す。「はなして、はなして!」とトロイメライに抱えられた少年が暴れたが、どんな術を使ったのか少年は途端に眠ったように動かなくなった。
「おい、ヤバい魔術は使うなよ」
「わかってますってェ」
二人はそのまま交差点の向かい側へ走り、目先の通りではなく小路を選んで飛び込んだ。
客引きの蟲人族がきぃぃと抗議の羽音をあげ、道行く矮人が「蘇芳にトロイ、今日もかい」とねぎらいの声をかけ、寄り添う男女が「やれまたか」という顔をするのを後目に駆け抜けて、次の小路へと逃げ込む。
騒々しい足音が追ってくる気配がしばらくは続いたが、ススキノ怪獣マンション跡を奥へ奥へと進むにつれ足音はひとつ、またひとつと消えていった。やがて完全に追っ手を撒いた頃にはさすがの蘇芳も息が上がっていた。トロイメライはけろっとしていたが。
ススキノ怪獣マンション跡。かつてのすすきのゼロ番地を怪獣が取り込み異形化した構造物。けして治安がいいとは言えない生きた貧民窟の中で、ふたりは立ち止った。肉襞に覆われた壁がぼこぼこと泡立ち、脈打っている。
「んでェ、この後どうすンのォ? 蘇芳チャン」
週末の予定でも訊ねるような気軽さでトロイメライが問う。
それとは裏腹に蘇芳の気分は重く苦々しいものだった。
どうやら自分は厄介事を背負いこんでしまったらしい。トロイメライと歩けば棒に当たる。これはもうジンクスのようなものだ。
「……とりあえず、ブラックシープへ行くぞ」
蘇芳は煤けた探偵なら誰だってそうするように、お決まりの台詞を吐いた。
§
「それで知らない子を助けて此処へ潜り込んだってわけかい。やるネ、蘇芳も」
カウンターに立ったルエがグラスにスペシャル苺ミルクを注ぎ入れる。
ルミナスピンクの液体を呷る蘇芳を見て、ルエは苦笑しつつもどこか楽しんでいるような笑みを浮かべた。羊頭マスターも同様にしている。
追っ手を撒いたふたりは慎重に回り道をしながらカフェバー・ブラックシープへと逃げ込んだ。
あとは店内に立ち込める馥郁たる薫香がふたりをその煙で外界から隠してくれる。このバーは知る人ぞ知る隠れた名店だ。逆に言えば外からは封印呪術によって隔てられ、客層は意図的に限られている。そしてここは蘇芳たちにとっての安全圏だった。
蘇芳が事の次第を話すと、仕事中のルエは興味深そうにした。理知的な鳶色の瞳が眼鏡越しに輝いている。存外好奇心旺盛で人間と関わることに前向きなのがルエの性分だ。バーテンダーという職業柄、客の打ち明ける様々な事情による情報網を預かる立場がルエにはしっくりと合うようだった。
「で。その子何者?」
「知らない。どう見てもヤバい連中から逃げていたから拾っちまっただけだ」
「相手は人間?」
「人間と獣人、それに
「いやそれ絶対ヤクザでしょ。厄介事は勘弁してよ、巻き添えは勘弁だからね、ぼく」
羊頭マスターが面白がりつつもそうのたまう。
蘇芳は「知るかよ」と吐き捨てたが、奥のソファ席で眠る少年の方を一瞥し、溜息を吐いた。
保護した少年に大きな怪我などはなく、今はトロイメライの術で眠っているだけだ。
「なんにせよ、その子自体に悪い気配はないと思うヨ。ただ、ひどく緊張していたみたいだネ。今夜くらいはゆっくり休ませてあげるといい」
ルエはグラスを磨きながら穏やかに告げる。害はない。ルエがそう言うのであればそうなのだろう。彼の吸血鬼としての勘は蘇芳にとっても頼りにできるものだ。
「ほんとさァ、蘇芳チャンってばカッコよかったなァ? キミたちにも見せてやりたいくらいだったよ」
「そういうトロイは何してたのぉ?」
「おれ? おれチャンはもちろんクールな相棒ポジションとしてしっかりちゃっかり活躍しちゃったもんねェ」
「やだぁもうトロイが素直に人助けなんてするわけないじゃーん」
「おまえたちはいっつも失礼だなァ、このこのォ」
「ああん、変なとこつつかないでよォ! もうっ」
トロイメライは双子のサキュバス娼婦ミミとララを両脇に侍らせ、いちゃつきながら答えた。
トロイメライにとっては面白さがすべてだ。何事も面白ければ面白いほどいい、この悪魔はそういう傍迷惑極まりない主義を掲げて生きているものだから始末に負えない。
『飛び切り演奏の上手いベーシストが一人いるよ、悪魔でもいいならだけど』
そういって蘇芳たちにトロイメライを紹介したのはこのブラックシープバーの羊頭店主だった。
確かにトロイメライの腕は今まで組んだ誰よりも優れていたし、ビジュアルだって最高級だ。ただしトロイメライは今まで出会った誰よりも性質が悪く厄介で、どこまでも悪魔だった。だが何が気に入ったのか、蘇芳ら四人に対してだけは大して悪事を働かず、このバンドに居ついたのだった。
「それでキミたち、これからどうするの?」
そんな全員の様子を見渡して、ルエが言った。
「どうするもこうするも……どうするンだよォ?」
「俺を見て言うな」
「や、拾ったのあなたでしょ」
「マスターまで!?」
もはや孤立無援だった。蘇芳以外の全員が指をさし、声を一つにして言った。
「「「おまえが責任をとれ!」」」
蘇芳は「……ぐう」と短く呻いた。
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