第2話 狩猟塵肉屋・斑目兄弟 〈2〉


 

 §


 ススキノ無番地〈黒錆くろさび〉――。

 大歓楽街ススキノの端に位置するバラック群、有体にいえばスラム街だ。道を外れた者どもが最後に行き着く場所がこの〈黒錆〉。人外も人間もそれは同じだ。

 崩れかけた家屋が互いを支え合うように積み重なっている。

 昼夜問わず陰気で昏くて錆臭く、住民の多くは衆目から身を隠しながら暮らしているが、そうでない命知らずも少なからずいる。

 この日は塵肉屋台の灯りの下で、数人の獣人幇くずれの男どもが酒をちびちび飲み交わしていた。夕刻から酒杯を空け続け、今では全員がいい塩梅に出来上がっていた。その中で誰ともなく口に出した名前は曰く付きのもので、こうも酔っぱらっていなければ到底口にはだせぬ名だった。

「……おいアンタ。斑目兄弟の噂って知ってっかぁ?」

「塵肉屋くずれの成り上がりだってはなしだろ?」

「ああ、その通りさぁ。だがねぇ、竜宮魚肉に海人族の肝、悪魔の角に龍族の逆鱗。桃人女の幼肉から樹老人の涙まで、奴らどんな人外の肉も削いで売っ払うんで、裏じゃ物好きのセレブから政界のお偉方にまで重宝されてるって話だぜ」

「不老長寿に美容に滋養、万病の特効薬に精力増強。果てはどんな幻覚剤より高くトべるってんで、今じゃあちこちから買い付けに来る客でいっぱいで年単位の予約すら難しいとか」

「はァ、あやかりてえもんだなァ……」

 酒杯を傾け玩びながら、獣人の男が溜息を吐いた。

「おまえ、喰い専のくせしてどの口が言うんだよ」

「……で、斑目兄弟ってどんな奴らだ? 誰か面を拝んだ奴はいねえのか?」

「なんでも年の離れた兄弟で、兄の方がやってる食肉解体をまだちっこい弟が囮役やら何やらやって手伝ってやがるんだと。そんで、その人族の弟の方は頭から食っちまいたくなるくらいに白くて華奢で雌ガキみてぇななんだと。……ん、酒が空になっちまったな。おい、店主! 酒、酒。人族の塵肉香味塩漬けアイスバインもな」

 暖簾の向こう側にいる店主に向かって身振り手振りを交えて男の一人が注文をつけた。

「――へいお待ち。ところで、旦那ぁ……さっきの斑目兄弟のお話ですがねぇ……兄貴のほうは宵闇色の髪に赤みがかった鳶色の眼をして、一度見たら忘れられないような大きさの肉切り包丁を持っているんですってよ。ちょうどほら、こんな具合に!」

「へっへっ、なんだおめえ。そんなバカでけえ包丁をど、ぶじでぇっ!?」

 豚獣人の首が飛び、熱い鮮血が吹き上がる。

 巨大肉切り包丁を構えた青年は欲望と狂喜が渦巻く鳶色の眼を光らせ、獣のような声で名乗りを上げた。

「それはなァ、このおれ様が噂の斑目輝まだらめてるだからさ!」

 転瞬――剣光がたばしる。

 屋台の上にはあっという間に四つの首が並んでいた。

狩猟肉ジビエ屋斑目、ここに開店!」

 青年は巨大肉切り包丁を器用に回転させ、背中のホルスターにしまい込む。凶星のごとき瞳がきらりと光った。

「兄ちゃん。開店か閉店か、いつも微妙にわかりにくいよぉ……」

 物陰に隠れていた白く小さな人影がぷるぷると震えながら屋台へと這い寄る。か細い手足もその顔も新雪のように白くたおやかだ。おまけに髪の毛までが真っ白で、およそこの〈黒錆〉には不釣り合いな容貌だった。

「細かいことは言いッこなしだよ、由岐ィ。よしよし、怪我は無かったようだねぇ」

「……ん。兄ちゃんは?」

「由岐のためならば、お兄ちゃんはいつだってなんだって平気なのさ」

「……ほんとう?」

「本当だとも! さあ、それじゃあ由岐。おまえの出番だ。首尾よくやれれば由岐には一番いい部位をたらふく食わせてあげるよ。約束だ」

 幼い由岐を安心させるよう、兄は優しくそう言って頭を撫でてくれた。

 由岐はそれに応えてこっくりと頷き、まだ温い血の匂いが立ち込める屋台の前へと進み出た。

 餓えた犬のようにくんくんと鼻をひくつかせ、由岐は慎重を期して獲物を吟味した。いつもは何かと由岐をせっつく兄もこの時ばかりは辛抱強く待ってくれる。

 やがてこれと決めると、もがれた頭部のうちの一つを抱え、小さな唇をおずおずと開く。由岐は猪獣人の頬肉に犬歯を立ててがぶりと齧りついた。

「お、由岐。その肉か。そいつの味が気に入ったんだな?」

「……うん。ほかのは駄肉だよ、兄ちゃん」

「わかったわかった」

 兄は満足そうに頷くと残りの首を路面にうっちゃって、由岐が示した猪男の体を軽々と背負ってみせた。その頼もしい姿に由岐も満足した。

「おれは早いとこ戻って解体するから、おまえはこのあたりにまだ目ぼしいもんが残ってないか見て回ってきてくれよ。なぁ? 由岐」

「うん」

「よし。いい返事だ。明日は美味いぼたん鍋に決まりだなぁ、由岐」

「たのしみにしてる!」

 兄は鼻歌交じりに歩きだし、由岐はそれとは反対方向のバラック群へ向かって元気よく走りだした。

 明日はおいしい肉がたらふく食べられる。

 うれしくて廃墟のなかをぐるぐる駆け回りながら進んでいく。

 灰色一色、瓦礫だらけの視界の中に動くものはない。自然に朽ちて壊れたり、侵入者によって打ち壊された家々のドアはまるで元から一続きだったみたいに複雑に繋がり合っている。そこを由岐は勝手知ったる我が家のごとく縦横無尽に探索して回る。

 幼い由岐の仕事は獲物の選別に囮役、それから新しい獲物を探して見繕うことだった。コツと筋がいると兄がいう解体の仕事はまださせてもらえない。お前がもう少し大きくなったら教えてやると兄は言っていたが、いくつになったらやらせてもらえるのだろう。楽しみというには少し怖い気もする。それでも、まだ幼い由岐にはあんなに素晴らしい食肉を正確に削ぎ取ることができるのはすごいことだと思えた。

 自分も早く兄ちゃんみたいに大きくて立派な男になりたい、それには好き嫌いせずにもっといっぱい食べないとだめだろう、そう考えながら歩いているとだいぶ奥のほうへ足を踏み入れていた。

 普段の探索ならここまで踏み込むことはない。どうせ獲物もみつからない。そろそろ戻ってもよい頃合いだろう。そう判断した由岐は踵を返そうとしたはずみに小石を蹴っていた。

 なんとなくそれが転がっていく先に目をやると、そこには先客がいた。

 先客。違う。探していた「獲物」と呼ぶべきものだ。でも、由岐には咄嗟にそう捉えることができなかった。

 なぜなら、そこに居たものがとてもきれいだったからだ。

「おにいちゃん、誰? そこでなにをしているの?」

 本当なら獲物に話しかけたりはしない。それなのに、どうしてか由岐のほうから自然に口をきいていた。

 半分崩れた壁に身を預けて寝ているように見えたは、目を開くのも億劫だというようにきわめて緩慢に瞼を開いた。

 由岐の心臓がどくん、と一際大きく高鳴った。

 この獲物は生きている。まだ息をしている。そして、ぼくを見ている。

 それに……やっぱりきれいだ。とても。

「キミは善い子? ……それとも悪い子?」

 胸の奥にしん、と染み入る声だった。まるで異国の楽器の音色のような。

 それにしても案外難しい問いを突き付けられたものだ。由岐は子供ながらに当惑した。

 自分はよい子なのだろうか。それとも悪い子か。後者はいやだなと素直に思う。悪い子は奈落の底の底まで落ちて異界から二度と戻ってこれないのだと要から聞かされたことがある。

 ではよい子かと言われれば、それもぴんとこなかった。

 兄はことあるごとに「由岐はいい子だ」と褒めてくれる。兄の言う「いい子」と目の前のきれいなひとの言う「善い子」は同じなのだろうか。どうもそうではない気がした。

「……わかんない」

 結局それしか答えがみつからなかった由岐は、正直にそう口にした。

 きれいなひとは力なく笑った。

「そうだね。考えてもそんなことわからない。キミの言う通りだヨ」

「そんなら、なぜそんなことをぼくに聞いたの」

 幼い由岐にも理不尽な問いかけであることはわかった。むっとして訊ねると、きれいなひとはどこか途方にくれたような笑みになった。

 由岐よりずっと大人の姿――ちょうど兄と同じくらいの年頃なのに、迷子の子どものような頼りのない有様だった。

「……ごめんヨ、ちょっとわけありでネ。ボクはそのいいひとか悪い人かわからない人たちに追われてるんだ」

「……それで、どうしているの」

「こうしてここに隠れている。だけど、ここはキミたちの縄張りのようだネ。さっきの騒ぎでわかったヨ」

「こんなところから見えていたの?」

 そんなばかな。こんな奥まった廃墟の隠れ家からさっきの一部始終を見ることなんてできるわけがない。

 今までのやりとりといい、このひとは自分のことを馬鹿にして遊んでいるのかもしれない。

「……ぼく、もういくよ」

「待って。ボクは何もキミを馬鹿にしているわけじゃない」

 少し切迫したような声に、既に踵を返していた由岐は思わず振り返る。

 きれいなひとは血や泥で汚れたシャツの襟元をはだけて、由岐のほうに晒していた。細く真っ白な首筋には大きくて出鱈目な傷跡があった。ちょうど兄の持っている肉切り包丁のような獲物で断たれたような跡が。でも、そんなことをされた人間が無事でいられるわけがない。そんな傷を負っていればとっくに死んでいるはずだ。それが、どうしてこんな風に生きて喋っていられるのだろう。

「ボクはネ、吸血鬼なんだ。もっと西の方からここまで逃げてきたの」

「吸血鬼……本当に?」

「ほんとサ。キミも聞いたことくらいあるだろう。吸血鬼は死ねないって噂」

 吸血鬼。西洋に住む鬼で、人や亜人の血肉を喰らって生きるという異形の存在だ。

 友人の要から怖い話として聞いたことがある。

 吸血鬼は日光に弱く、銀の弾丸でないと殺せない、とも――。

「まあ噂の中には嘘もたくさん混じっているんだけどサ。少数異形に対する偏見、みたいな? そういうわけで明日の朝までには出ていくから大人のひと……たとえばキミのお兄さんには黙っていてくれるとありがたいのだけれどネ」

 しーっと人差し指を唇にあてるポーズで、きれいなひとは由岐に懇願した。

 由岐が兄にその存在を知らせればどうなるかはすぐに想像できた。吸血鬼の肉が喰えるなんて最高じゃないか、でかしたぞ由岐。そう言って兄は大喜びするだろう。

 由岐だって兄には褒められたいし、吸血鬼の肉は食べてみたい。心底そうだ。今も目の前のひとが流す血の匂いや仄かな体臭に頭がくらくらする。生白い首筋にかぶりついたらどんなに美味なことだろう。

 でも、それ以上に。彼との約束は尊いものに思えた。

「……ぼく、おとなには言わないよ」

「ありがとう。……ええと、キミは」

「ゆき」

「ユキ、か。ボクの名前はルエだ。それじゃヨロシク、ユキ」

 ルエは再び鳶色の瞳を閉じようとした。もしかすると本当は目を開けているのも億劫なほどつらいのかもしれない。

 この辺は都市腐敗も進んでいて、瘴気が強い。ルエの状態では明日の朝までなんてとても保たないだろう。

「あのね……ルエ。ぼく、あなたを助けたい」

 ルエが目を瞠った。そこには不安と、そして神様からきまぐれに希望の糸を垂らされた罪人のような複雑な感情が渦を巻いて見えた。

 そっと頷くと、由岐はルエに静かに手を差し伸べた。

 こんなこと、兄ちゃんにばれたら叱られるに決まっている。それだけじゃ済まない可能性だってある。

 それでも、こんなにきれいなルエを放っておくわけにはいかなかった。

「……どうやらさっきのボクはちょっと無礼な質問をしてしまったみたいだナ。ユキは悪い子なんかじゃないみたいだ」

 困ったように笑うルエは先ほどよりもっときれいに見えた。

 おずおずと伸べられた大きくてしなやかな手が由岐の手をそっと握った。優しくて冷たい手だと思った。

 壊れないように、壊さないように。

 由岐はルエの手をとった自分の手に力を込めた。


 §


「故人西の方、黄鶴楼を辞し 煙花三月揚州に下る 孤帆の遠影、碧空につき 惟だ見る長江の天際に流るるを……」

 はっとして我に返れば、クラスメイトが教科書の漢詩を読み上げる声が意識に割り込んできた。

 どうやらいつの間にか思惟にふけっていたようだ。由岐は何でもないふりをしながら国語の教科書に目を落とした。

 次に指名された女子生徒が訳文を読み上げる。

「昔からの友人である孟浩然が、黄鶴楼に別れを告げようとしている。霞だって花が咲いているこの三月に揚州へと下っていくのだ。船の帆がだんだんと青空に吸い込まれるように小さくなっていく。そのうちただ長江が天際に向かって流れているのを見ているだけになってしまった」

 李白に杜甫に白居易。孟浩然。教科書のそのページにはいくらか抜粋された漢詩が掲載されていた。

 フォールダウンし、異形化を遂げた世界でわざわざ大昔の中国の詩を勉強する意味がどこにあるのかもはや教師自身ですら分からないのではないかと思われるが、それでも学校という場所も、勉強や運動はたまた部活動という行為も少しずつ形を変えながら続いていた。

 むしろ国家や都市が怪獣化し、魔術や呪術といった他種族によって持ち込まれた技術や文化をも学ばなくてはならなくなり、かえって学習内容が増えたくらいだと担任の教師がこぼすのを聞いたこともある。

 由岐も学校が嫌いなわけではない。アルバイトとバンド活動があるので部活動こそしていないが、出席日数はほぼ皆勤、成績は中の上を保っている。弁当を食ったり他愛のない話をする相手もクラスに数人はいる。要するにごく普通の高校生活を満喫しているといっていい。

 それもこれもルエや仲間たちのおかげだった。彼らが賄う学費によって由岐は高校に通っているのだ。

 高校へは進学しないと由岐が宣言したとき、ルエも仲間たちも全員がきつく反対した。トロイメライは手練手管でもって契約を持ち掛け、最初は控えめに説得を試みた要は最後にはさめざめと泣きだし、蘇芳はとうとうと三時間にわたって進学と高校生活の必要性について自作したプレゼンを語って聞かせた。自分がシフトを増やせば貯蓄と合わせて十分に学費を賄えるから、とルエは毎晩のように繰り返した。

 結局は最後にルエが「由岐が高校にいかないのなら兄弟の縁を切って街から出ていく」と本気の脅しをかけ、由岐が高校行きを承諾するまで実際に家を空けてどこかへ行ってしまったことが決め手となった。ルエは日光に弱く、昼間はほとんど外を歩けない身体だ。そんな彼が怪獣都市の中をどうやって生きるというのだろう。由岐は三日で折れた。

 国語教師の島津――定年間近でいまだに黒板に板書を行っている――が教科書の詩に注釈をつけていくのを書き取りながら由岐はひっそりと育んだ想いに心を傾けた。

 ルエ。斑目ルエ。

 たった一人の、オレの兄ちゃん。

 由岐がケダモノどもの肉を食べなくなってから、もうしばらく経つ。

 あの断ちがたいジビエへの渇望に打ち勝ち、手に入れた平穏は何物にも代えがたい。

 それでも最近の自分はどこかおかしい。

 ……食べたくてたまらないのだ。ルエが。ルエのことが。

 もう全て食べて平らげてしまいたいくらいにルエが好きだ。大好きだ。

 でもこんなこと誰にも言えやしない。仲間にさえも。誰にも。

 読みふけるふりをして視線を落とした教科書にも答えは落ちていなかった。

 代わりに一筋頬を伝った涙がぽたりと落ちて、そこだけを丸くふやけさせた。





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