怪獣都市のマーダラーズ

津島修嗣

怪獣都市のマーダラーズ

狩猟塵肉屋・斑目兄弟

第1話 狩猟塵肉屋・斑目兄弟 〈1〉



 重低音と観客たちの群舞がフロアを揺らす。

 マイクを通して増幅された鋼の咆哮が箱に充満した熱気をさらに煽りたてる。

 六弦が奏でる旋律がそれらのうねりを纏め上げ、夜を彼らの色に染めてゆく。

 音楽好きな海人族の男が雄たけびを上げ、小妖精エルフたちが光の魔法でフロアを照らす。獣人の女性客などはすでにシャツを脱ぎ捨て艶美な肌を晒している。果ては悪魔族までがそれらの光景に歓声を上げて酒を飲み干す。

 第五指定怪獣都市・札幌。

 街がフォールダウンし、数十年がたった今でも夜の街ナイトシティ・ススキノは誘蛾灯のように人々を惹きつけてやまない。

 かくして繁華街のライブハウス〈MOLE〉では今宵も乱痴気騒ぎが繰り広げられていた。

 騒ぎの中心にいるのは大抵いつも同じ五人組――アマチュアロックバンド『ブラッド・サック・マーダラーズ』の面々だ。物騒なグループ名とは裏腹に彼らのサウンドは人間のみならず異種族をも魅了する。彼らの演奏がある夜は人間も異種族も関係なく綯交ぜになってライブを楽しむ。

 ボーカル、佐渡島蘇芳さどしますおう

 ギターボーカル、斑目由岐まだらめゆき

 ベース、トロイメライ・トロイダル。

 ドラムス、斑目ルエ。

 キーボード、機多要きたかなめ

 鋼のごとく空気を軋らせ咆える蘇芳の歌声。それに負けじと由岐が変幻自在の雷音を奏でる。ベースのトロイメライが六弦を鳴らしながらも場をかき混ぜれば、そしらぬ素振りで要が騒ぎに華を添える。そして由岐の兄であるルエがなんともなしに彼らの個性を束ね上げる。

 彼らが渦中のバンドメンバーであり、数奇な絆で結ばれた青年たちだ。



 二〇二〇年早春――フォールダウン。

〈奈落禍〉とも呼ばれるこの大惨禍は、人々の生活のみならず、それまでの世界の在り様をことごとく変えてしまった。そして世界にはそれに適応して存続するほかの道が残されていなかった。世界は否応なしに進化する道を迫られたのである。

奈落禍フォールダウン〉。すなわち、世界各国の主要都市及び日本列島が突如開いた次元の裂け目に飲み込まれるという世界同時多発的大怪奇現象を示す名称だ。

 日本が異界の裂け目に飲み込まれた後。瘴気がこの世に溢れ、陰と陽の逆転現象により、世界は異形と化していった。あの世がこの世に雪崩れ込んできたのだ。

 これにより、各主要都市は超大型異形都市――通称〈怪獣都市〉と成り果て、大都市を中心に異界の者どもが流入した。小妖精に矮人ドワーフ、吸血種、悪魔族、天魔、獣人族、海人族といった異形の存在が。

 彼らの大半はまるで約束事でもあるかのように異界と現世の狭間に産み落とされた怪獣都市で人と共存し隣る道を選び、人間相手――国家レベルのやりとりも含む――に様々な商売を始めた。その最も大きな影響は、これまで科学エネルギーによって支えられてきたインフラストラクチャーが魔導や呪術といった未知のエネルギーを駆使する概念構造にその依代を預け始めたという点だ。

 また、異形化した都市はそれ自体が呪われた巨大生命体〈怪獣〉となり、超巨大異形生物として認識を改められることになった。

 都市は移動もするし、呼吸し、新陳代謝する。日々その構造が変化し、新領域が誕生し、旧領域が腐り朽ちていく。

 時には都市より大きな異種族が都市を喰らい、膨れ上がった怪獣都市が異種族を喰らうことさえある。

 ひとつ確実に言えることは停滞を余儀なくされていた人も都市も変化せざるを得なくなったということだろう。

 たゆまぬ変化。その先にあるのは進化だ。

 そして人々はその流れの果てに何があるのか知らぬまま泳ぎ続けている。

 ……これはそんな時代のなんてことない物語だ。



 第一話 狩猟塵肉ジビエ屋・斑目兄弟



 今夜も出番は無事に終わった。

 楽屋に戻って着替えをし、楽器を片付けながら、斑目由岐は今宵のブラッド・サック・マーダラーズの演奏について思い返していた。

 十五歳の由岐は変声期真っ只中だ。最初こそ声が出にくかったものの、それはリードボーカルの蘇芳がしっかりとカバーしてくれた。そこから徐々に調子を取り戻し、ベースのトロイメライお気に入りの曲でフロアは最高潮、キーボードの要のアドリブから流れるように最後のワンフレーズへ。そこでぴったりと音楽が鳴りやみ、頭の中で何度もリフレインすることもない。こういう夜は何故だか上手くできたという実感がある。

 それでも、由岐はどうしても確かめざるをえない。

 兄のルエがちょうど会場スタッフである半獣人の青年と話し終えたところを見計らい、声を掛けようとしたときだった。見事としかいいようのないタイミングで由岐とルエの間に割って入る者があった。

「兄ちゃぁん、おれの演奏はどうだったァ?」

 視界の外から割り込んできたトロイメライがこちらを見てニタニタと半笑いを浮かべながらルエに絡みついている。

「おれチャンてば最の高にイケてて色っぽくてェ今日も今日とて女も男も超絶でろっでろの絶頂に蕩かしちゃった自覚はあるけど、兄チャンの感想を聞かないともう夜しか眠れなくってェ!」

「ボクはキミの兄ちゃんじゃないし、うしろで由岐が困っている。でもキミの演奏も十分によかったヨ? トロイ」

「アー、うれしいねェ。くくっ、それでこそヤりがいがあるってものだよォ」

 由岐の方にむかってこれみよがしに毒々しい笑みを浮かべるその貌はしかしひどく美しかった。男とも女ともとれぬ猥雑な美貌。ネオンカラーの長髪に煽情的な黄昏色の瞳。血も凍るような雪肌に、婀娜な腰つき。悪魔族に特有だと謳われる美貌も、このトロイメライの場合はどこか歪んでいる。だが、それがかえってこの男の容貌を魅力的なものにしているので始末に負えないのだ。

「なァ、由岐チャン?」

「……うるさいよ、トロイ」

 トロイメライはそれ以上何も言わずに目を窄めてみせた。男の自分でさえ魅了されてしまいかねない危うい眼差しだった。

 悪魔というのはことによっては誰の心も蕩かす姿に化けられるのかもしれない。

「で、兄ちゃん。オレの演奏はどう」

「……ルエの感想なら俺も聴きたい」

 背後からぬっと姿を現したのはボーカルで幼馴染の佐渡島蘇芳だ。人狼と人間とのハーフであるが故の恵まれた体躯は二メートルを超えている。浅黒い肌に鬣を思わせる黒髪を持つ野性的な青年だ。女じみた容貌のトロイメライとはちょうど好対照な姿である。

 今は大きな身を少し屈めて、ルエの瞳をじっと見つめている。外見の割には丁寧でどこまでも誠実な男だ。由岐も怒るに怒れず、一緒に蘇芳の歌唱の感想を聞くことになった。

「蘇芳は……声は出ていたよ。みんなキミの歌が好きなのは知っているよネ。前半は仲間のことを気にしすぎだったけど、後半は調子が戻っていた。みんなにキミが合わせるんじゃなくて、キミにみんなが合わせるくらいじゃないとダメだ。リーダーはキミだ。だから、そういう強い気持ちがあっても大丈夫だヨ」

「……わかった。なんだ、その……ありがてえ」

 ブラッド・サック・マーダラーズは斑目兄弟が中心になって立ち上げたバンドだ。でも、だからといってすべてを仕切りたいわけではない。いちばんしっくりする形があるのなら、そこに収まることを目指して動く。それが由岐たちの信条だった。

 ルエの言葉に由岐も思わず頷いていると、また邪魔が入った。

「な、なら、僕も……聞きたい、かな?」

 それならばと要が一連の流れに乗っかる形で割り込んできた。

 これももう最近のお決まりの流れだ。由岐は肩を竦める。

「要は今夜は調子がよかったみたいだね。キミがアドリブまでするなんて珍しい。トロイもお客さんも大喜びだったじゃないか。何かいいことでもあったのかい?」

「ふ……えへ、まあ、ね」

「それはよかった。それじゃあ、これからもこの調子で頼んだヨ」

「うん。ありがとう、ルエ……」

 キーボード兼ミキサーの機多要はメンバー中唯一同じ人族で、蘇芳と同じく幼馴染だ。

 トロイメライを除く四人は幼少期からの友人関係にある。要はその中で一番大人しく、一見して気弱なタイプだ。口の悪いトロイなどは「根暗でオタク」とみんなのオブラートを一刀両断にして要の人格を定義づける。正直に言えば、由岐にも否定はできない。由岐の個人的な見解だが、きっと自分たちが誘わなければ要はこのようなバンド活動に参加するようなことはなかっただろう。

 それでも最近はトレードマークだった瓶底眼鏡もしなくなったし、なんだか以前より明るくなった気がする。おまけに駅直結の高級タワーマンションにいきなり引っ越すくらいに羽振りまでよくなって、なにがあったのか由岐も気になっていた――が、それはさておき。

「はいはい、今度こそオレの番! 兄ちゃん、オレの演奏はっ」

 言いかけたところで今度は派手なシャウトが聞こえ、次のバンドの演奏が始まった。

 喋りながらもとっくに身支度を整えていたルエが全員に呼び掛けた。

「楽屋も詰まってるし、早いところ場所を移動しないとネ」

「……賛成だ」

「ルエはこの後仕事があるんだろォ? なら、ブラックシープでいいよなァ」

 ブラックシープバーとはススキノと大通の境目の角地に立つカフェバーで、ルエの仕事先でもある。夜、ルエはそこでバーテンダーとして働いている。

「ごめんね、由岐。キミの感想はまた後で」

「……いいよ。どうせこの流れだろうと思っていたし」

 まだ熱気の篭った体のまま外に出れば、冬の夜気が心地よかった。

 怪獣化以来、四季の違いが薄くなったと言われていても札幌の夜はやはり冷えるのだ。

 ネオンの代わりに乱立する呪術ホログラム看板の美女が艶美に身をくねらせ微笑みかけてくる。

 オモチャ、ビデオ、バーチャル、桃色遊戯、仁義、歓迎光臨。

 言葉の意味内容などまるで関係なしに多種多様なロゴや言語がホログラム広告として夜闇に浮かびあがり、ひと昔前までのネオンサインの代わりとなっていた。

 とりわけ巨大なホログラム看板には午前零時のニュースが飛び交い、他人事のように頭上を流れて行く。


 〈本日は旧南区定山渓腐敗進行により〇三六~〇五五区画が封鎖中〉

 〈市内浄化率 三十% 四日未明に完了予定〉

 〈本日の天気予報 曇りのち重酸性雨〉

 〈西区で熊人出没 獣害注意されたし〉

 〈瘴気予報 人体への有害度 △△△〉


 以下同じようなニュースが各種族特有の文字情報あるいは呪術音声でリピートされる。

 地下に巣食う怪獣どもの吐き出す煙が通風孔から時折吹き抜け、たまに怪獣都市それ自体がごうごうと風の音に似た鳴き声を轟かせる。

 窓から夜警の犬獣人――なじみの顔だ――が挨拶をするのに由岐も会釈してみせ、観客だったらしき蟲人族の男女がギィィと羽を擦り合わせて蘇芳に歓声を送っている。蘇芳の狼型の耳がぴんと立っているのをみると、彼もまんざらではないのだろう。

「いい夜だネ、由岐」

「……うん」

 ごごご、という鳴動と共に夜空を巨大な飛行船ほどもある体躯の時空鯨が通過していく。その下にはコバンザメのごとくに龍魚の群れがくっついている。あれらももちろん怪獣の一種である。時空を行き来するとかなんとかいうが、細かい生態まではわからない。ただ、やつらは大抵の場合雨をつれてくるから厄介だ。怪獣都市に降る雨はほぼ酸性雨。人体はおろか別種族にとっても有害だ。

 遊漁の巨大な影が己らの背中を舐めていくのを見上げ、トロイメライがバンドの曲を口笛で吹き始めた。

「トロイ! こっちむいて!」

「写真撮らせてよぅ!」

「ルエも一緒じゃん。超映えるんだけど~」

 出待ちをしていた淫魔の女たちがトロイメライに駆け寄るが、トロイメライは視線だけで制した。女たちが蕩けたような顔になり、切なげな溜息を吐いた。悪魔の瞳には魅了と催淫の効果があるのだ。

「由岐くん、お姉さんたちと楽しいことしようよ~」

「3Pとかどう? ねえったらァ」

 由岐にもいくらか取り巻きはいて、彼女たちがいつものように声を掛けてくる。

「ごめんネ。ウチのユキはそんなことしないヨ」

 ルエの大きな手が伸べられ、由岐の肩が引き寄せられる。ルエの匂いが鼻を掠め、由岐はくらりとした酩酊を覚えた。シャンプーの匂いに煙草の匂い、それに仄かな血の匂い。

 ルエの胸に軽くしなだれるようにして歩く。少しだけ後ろめたい気がしたが、ルエは離してくれなかった。

 ブラッド・サック・マーダラーズ唯一といっていい明確なルール。ファンサはするが女性絡みの厄介事はご法度。たいてい友情やらなにやらが破滅するのは仲間内に女性問題が持ち込まれたとき時と相場が決まっているからだ。

 由岐にとってそんな心配はなかったが、由岐は由岐で別の問題を抱え始めていた。

 それはまだ誰にも話していない。自分だけの秘密だ。

「今夜はァ! 飲むぜぇ! なァ、相棒っ!」

「いつから僕を相棒にしたのさ……」

「おれチャンとオマエは一蓮托生だろォ? なァ!」

「お前ら信号視て渡れよ。巨獣にはねられても知らねえぞ」

 前を歩く三人はいつも通りのやりとりをしている。ならば自分もいつも通りを貫くだけだ。

 それがいい。それでいいに決まっている。

 緑色に輝く月光が怪獣都市を行く由岐たちを照らしていた。


 §


「おや、皆さん。今夜は遅めのご来店だねぇ?」

 羊頭人身の店主がドアを開けた一同を出迎えた。

 入店と同時にルエがカウンターの方へと進み出る。ゆるく束ねた三つ編みをアップにして、袖をまくりながら小厨房の方をさした。

「前のバンドというか開演自体が押しちゃってネ。今タイムカード切っていいかい?」

「いいよ。ちょうどお客も増えてきた頃合いだ。あなたが間に合ってよかったよ」

 ブラックシープバーは元は電気羊エレクトリックシープバーの名を冠したカフェバーだった。それが異形の怪獣に飲み込まれて敢え無く閉店、その跡地に建てられたのがこの店で由岐たちのいきつけだ。

 人外が多い区画に位置するが、人間も多く通ってくる。その多くがルエ目当ての客だから困ったものだ。もちろんそれだけではない。上質な怪獣酒をはじめ数多の種族から仕入れた四方世界の酒と煙草と音楽を好み、足しげく通ってくる客もいる。

 店内には甘く不思議な薫香を纏った薄霧が立ち込め、それが心地よい酩酊感を客たちにもたらしてくれる。ようするに隠れた名店だった。表社会から意図的に隠されている、といった方が正しいのかもしれなかったが。

「さて、ご注文は何にいたしましょうか?」

 カウンターに立ったルエが並んで席に坐した四人に対して向きなおる。段差のせいもあるがルエの長身と相まって妙な迫力があった。

 ルエは長身痩躯で、妖幻な紳士そのものといった風貌をしている。緩く波打つ髪を腰丈まで伸ばし、それを今は束ねて結い上げている。そして、その所作にもどこか紳士的な雰囲気が漂っている。女性の扱いなどはおそらく仲間内では一番スマートだろう。

 だが、なんといっても特徴的なのはその瞳である。自ずと光を放っているかのような妖しげな鳶色の瞳は他者を強く惹きつけた。ルエはそれを度の入っていない丸眼鏡で隠そうとしている。だけど無理だ。弟であるこの自分でさえ、とっくに魅せられているのかもしれない。そう思うくらいに。

「ヴォイニッチ44年。あとおれの葉巻取ってェ」

「……僕は取り置きのボトルを」

「了解。ユキはどうする? 未成年だからどのみちソフトドリンクしか提供できないけどネ」

「わかってるよ。それじゃ、オレンジジュースで」

「オーケー。蘇芳は?」

「ストロベリーミルクシェーキ」

 強面の蘇芳がそう注文する様はある種異様ではあるが、みんなもう慣れたものだ。

「まァたお前は口を開けば苺イチゴいちごって、それしか好物ないのかよォ?」

「悪いか。それに俺はこの後まだ用事がある」

「それじゃ、また研究室に戻るのかい?」

「ああ」

 ルエが訊くと、蘇芳はそっと頷いた。蘇芳の本業は理系の大学院生だ。つまりはまだ半分学生、半分は研究者という身分。日中や深夜は実験や論文の執筆で多忙に過ごしている。応用宇宙怪獣学医学ユニット所属……などと言われても由岐にはいまいちぴんとこないのだが。

「論文の定期報告会が近い。朝までにレジュメをまとめておく必要がある」

「そういうのは……もう少し余裕をもってやるべき、じゃないかな……?」

「ちっ、しけてンなァ。そんなもんおれチャンと契約すりゃあちょちょいのちょいってな具合に完璧な論文のひとつやふたつ仕上げてやるってのにねェ」

「そ、それは代償が大きすぎる、でしょう……」

「ねえ、トロイ。キミ、仲間内での商売はしないって前に誓っただろう?」

 悪魔族であるトロイメライの本業は、契約を締結した相手の願いを叶える代わりに対価を得ることだ。古今東西その対価は魂と謳われているが、どうやら商売相手が差し出せるものに応じて彼らは願いを叶えるらしい。本人の口からきいた範囲の話なので真偽は知れないが。

「ったく。てめえらときたら契約だの代償だの、聞いて呆れる。こういう勉強ってのは自分の力で仕上げることに意味があるんだろうが」

「アー、出たこれ。蘇芳のクソ生真面目理論」

「……相変わらずストイック……だね、蘇芳は」

「蘇芳に限っては契約させられる心配もないものネ」

「あ? 別にこんくらい普通だろうが?」

 普通かどうかはさておいて、高校生である由岐にとっては身につまされる話題だ。

 自分の力でやらなければどんなことだって身につかない。ノートを写すなんて真似をしているだけではだめなのだ。幸い受験に有利な英語や数学は得意科目であるものの、その他はこうしてバンド活動をしている分暗記時間は減る。それでも音楽や仲間を理由にしたくはない。だから何事にも手を抜けなかった。

「……オレも帰ったら宿題片さないと」

 ほとんどの宿題は学校で済ませてきたが、まだ古文・漢文と物理のプリントが残っている。どちらも明日の授業前までには片付けなくてはならない。思わず溜息が出た。

 そこへコースターが差し出され、フルーツと小さなパラソルで可愛らしくデコレーションされたオレンジジュースが載せられた。

「はい、由岐。ジュースお待たせしました」

「ありがと」

「なんだい、ムズカシイ顔して。まずは今夜の出番の成功を祝って乾杯しなくちゃ。ネ?」

 ルエがカウンター越しに微笑んでいる。

 由岐は兄を安心させるように慌てて微笑みを浮かべた。

「……そうだね、兄ちゃん」

「そういえばまだ言ってなかったネ、さっきの感想。今日の演奏よかったヨ。本当さ。今の由岐にしか出せない音と声だった」

「本当?」

「ボクがキミに嘘をついたことある?」

「しょっちゅうじゃん」

「はは。でも、今のは本当。由岐はよくやっているヨ。兄であるボクが保証する。それに宿題が気になるなら蘇芳に見てもらえばいいさ、ネ?」

 ルエがこちらに向けて自分用の杯を掲げて見せる。悪くはない気分だった。

 ……こうして平和に日々が流れていくだけなら、どんなにいいだろう。

「おーい由岐ィ、なんかテケトーに音頭とれよォ」

「由岐くん、お願い、ね……?」

「由岐、頼む」

 淡いピンク色のグラスを前に蘇芳も頷く。

「あー……それじゃ。今夜もお客さんに、スタッフに、そして最低で最高な仲間たちに。乾杯!」

 由岐のいつもの言葉を合図に、五人がグラスを掲げた。




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