第四話
少し時間を巻き戻して、俺が六原のおじさんと会って日詰さんに性転換薬を飲まされた日の翌日。
日詰さんの仕事は早く、家にトリシュ女学院の入学案内書や女体化した俺にぴったりのサイズの服が送られてきた。
「これがトリシュ女学院の制服か……」
手に取って掲げてみる。襟に白いラインが二本入っている上品そうな雰囲気を持つ紺のセーラー服だ。スカートは月夜の物よりも少し長い。
女学校の制服を俺が持っている事がどうしてもイケないことのような気がして、唾を飲む音が大きく聞こえてしまう。姿見の前で合わせてみたが、当然サイズは合っていなかった。灯璃の体に合わせて作られているからだ。
「ぴったりに作られてるらしいけれど、一応サイズは確認しないとだよな」
誰も聞いていないのに言い訳がましい独り言を呟いてしまう。
部屋を出て家の中を軽く見る。両親は仕事で不在だ。月夜の方はどうやら部屋に籠っているらしい。
「月夜―?」
声を掛けてみるが、返事は無い。俺の事を無視するのはいつもの事だが、それでもドンと大きな壁を叩きつける音が返ってくる。それも無いということは音楽を聞いているか、俺の声が聞こえなくなるほど何かに熱中しているか。
どちらにせよこの様子であれば女体化しても問題なさそうだ。俺は自室に戻って性転換薬を飲んだ。
一瞬で体が熱くなり、姿見には美少女が写っていた。やっぱり、自分が女性になるなんていまだに信じられない。
性転換の余波で少し体が火照っている。今後も自分は何度も慣れるまでこの性転換を繰り返すのだろと思うと、この熱も少しだけ愛おしく感じられる。
「やっぱ俺、滅茶苦茶可愛いよな」
姿見に手を置くと、鏡の向こうの少女も同じように手を合わせた。俺が少女を見ると、同じように少女も俺を見つめた。女の子に見つめられるのが恥ずかしくて目を逸らす。
「何自分に照れてるんだよ……」
今度は目を逸らさないようにじっと鏡に写った少女を眺める。
まつ毛はとても長く、少し先がカールしている。爪楊枝だって乗せてしまえそうだ。
目は若干釣り目で、気が強そうに見える。顔は少し面長で、唇は薄く、色素も薄いが反ってそれが上品な印象を与えてくれる。
腰まで伸びた黒髪は、少し邪魔で暑苦しい。切ってしまいたいが、女体化するたびこの長さまで伸びてしまうと日詰さんに言われた。仕方ないから近くにあった輪ゴムで雑に留める。
全体の印象としては美人だ。しかし、整いすぎていて話しかけたくはない。性別が違うだけでこんなにも変わってしまう物なのかと思う。
「女として生まれてきた方が良かったのかな……」
目の前の美少女がそんなことを呟く。けれど美女には美女なりの苦悩がありそうだ。
「しかし、話しかけにくいというのは問題だな」
俺はこれから女学院に潜入し、詩亜と交流を持ち、守りながら不登校の原因を探らなくてはならない。それには多くの人との交流が必要になってくるだろう。
「もっと馬鹿っぽい明るい見た目なら良かったのにな」
言っても鏡の少女の見た目が変わるわけではない。ひとまず俺は口角を指で釣り上げ、無理やり笑顔を作ってみた。
「ううん……。笑えないことを気にして笑顔の練習をするクーデレヒロインみたいになってしまった」
誰かにこっそり見せれば好感度は上がりそうだけど、俺が求めているのはこれじゃない。
「もっとあざとい感じにすればいいのか? ――きゃるぴーん! 女体化星からやってきた瀬峰灯璃十八歳ですっ。あかりんって呼んでね! ……なんか違うな」
声をかなり高くして、鏡の前でポーズも取ってみたけれど取っつきやすさは全くない。鏡に写っているのは頭のイカれた電波女だ。
「と、いうか声が結構低いんだよな。元々男だからか?」
あーあー、と何度か声を出す。女体化した直後は高い声だと思っていたが、女性の物としては低い部類だ。勿論男の声ではなく、灯夜の時の物とは明らかに違う。女性の声なのだが。
「可愛い系じゃなくてカッコいい系の方が良いだろうな」
取っつきやすくてカッコいい女性はどんなものだろうか。特に思いつかなかったから今後の課題ということにして本題へ取り掛かる。
「うわ、下着までちゃんとある」
制服以外にも女性用下着や私服も入っていた。やけに段ボールの個数が多いと思ったらそういうことだったのかよ。
「これも、着なきゃだめだよな。サイズとか合ってないと困るし。うん」
誰も聞いてないのに、また言い訳を呟いてしまう。
女性用の衣服を着るのは当然初めての事だったけれど、日詰さんが着方のメモを入れてくれたおかげで案外すんなりと着ることが出来た。
「ただブラだけは違和感があるな……」
強く締め付けられている感じだ。一応、今度日詰さんにこれで正しいのか確認しておこう。
「うーん、大人っぽく見えすぎてるか?」
トリシュ女学院の制服を着て姿見の前に立ってみる。女学院には詩亜と同じ学年。つまり高校一年生として入学することになっている。高校一年生は十五、六歳。俺は十八歳。二歳しか違わないが、この時期の二歳の差は大きい。
「ま、いいか」
考えすぎても仕方ない。なんならお姉様キャラなら全く問題は無いはずだ。
「お前達、跪きなさい。……これも違うな」
お姉様キャラじゃなくて、女王様キャラになってしまった。
何かのキャラを演じるのは性に合っていないのかもしれない。ひとまずキャラ作りから離れよう。
「サイズは……大丈夫だよな?」
その場で飛んで、跳ねてみても全く問題は無い。むしろ、服を着る前よりも動きやすいくらいだ。何か特別な素材で作られているのだろうか。
鏡の前でくるりと回ってみる。スカートが翻ってふわりと揺れる。
もう一度鏡の中に写る自分の姿を眺めてみる。鏡の中の少女は俺が笑えば笑い、眉を吊り上げれば同じように眉を吊り上げる。そんなことが面白くて、ついつい鏡の前でいろいろな表情を試してしまった。その結果わかったことは、美人はどんな顔をしても美人だということだ。
俺も整った顔で生まれたかったな……。あ、これ俺の顔だったわ。
ここまでしても自分の体が女になっているだなんて信じられない。鏡はただのガラスで、この中に女の子が入っているんじゃないかって錯覚すらしてしまう。
「でも、本当に可愛いよな」
詩亜が居なければ本当に好きになっていたかもしれない。
日詰さんに言われた通り、本当にアイドルとしてデビューしてしまおうか。勿論、グラビアではなく、普通の歌って踊るアイドル。歌えないし、踊れないけど。でも顔だけで稼げてしまえそうだ。
「ううん……」
俺が唸れば鏡の少女も唸る。俺と全く同じ動きを、鏡の少女はする。
それを見て、少しだけ、ほんの少しだけ邪な考えが頭をよぎる。
「いや、しかしそれは――」
部屋から頭だけを出してきょろきょろと周りの様子を確認した。家の中は静かだ。
月夜の部屋からは少しだけ物音がした。部屋に籠って何かしているのだろう。けれど部屋から出てくる気配は無い。
真っ昼間で天気もいいが、俺はカーテンを閉めた。どんな人工衛星だって俺の姿を見ることは出来ないし、誰にも咎められることは無い。
念のため、俺は男性に戻る薬を口内に含んでおく。この薬は唾液で溶けることは無いそうだ。だからこうやって口内に隠しておくことが出来る。
俺は緊張で溜まった唾をごくりと飲み込んで、自分の乳房を鷲掴みにした。
「お、おおおぉぉぉ……」
思わずそんな声が出てしまった。
服の上からの事であるし、ブラ越しで思ったほど柔らかくは無かった。と、いうかブラのせいで揉むたびに少し痛い。けれど未知の感覚で、何より女性の胸を触れることなんて無いから痛いほど強く揉みしごいてしまう。
「直接触ったらどうなるんだろう」
裾の隙間から手を入れ、直接自身の胸を触ることにする。
「柔らかい。けど別に声が出たりとかはしないな」
未知の感覚ではあったけれど――少しだけ期待外れだった。
俺がいつも読んでいるエロ漫画だと胸を揉まれただけで女の人は喘いでいたというのに、幾ら揉んでもそんな気はさらさら起こらない。
俺の技術力が無いのか、それとも灯璃ちゃんが不感症のマグロ女だったのかと悩みながら両手でもみもみと揉んでいたら、その柔らかい中に固い何かがあるのに気が付いた。
乳首だ。鏡に写してみると、ぴんと上向きに尖がっていた。生意気さんだ。男の時は少し黒ずんでいたはずだけれど、女体化の影響か綺麗なピンク色だった。
「――んんっ」
好奇心から少しだけ摘まんでみたら、男性の時とは違った快感に襲われる。
勿論、男の時に乳首くらい触ったことはあるが、ここまでの刺激では無かった。
「男女でここまで違いがあるものなのか?」
自然と視線が舌を向いてしまう。乳房より下、スカートに覆われた自身の股間付近。
――乳首でこれならば、いったいそこにはどれだけの刺激が待っているんだろうか。
一度そう思ってしまえば、もう人は止められない。好奇心にただしたがって行動してしまう。俺は、スカートの内側に手を伸ばして――
「なぁ、ニート。この漫画の続き知らない?」
「月夜!?」
こんこんこんと大きめのノックの音と共に月夜の声が扉越しに聞こえてくる。
不味い。女性の体で、女性の声で反応してしまった。俺は急いで口内に含んでいた男性に戻る薬を飲む。
「は、女の声? どういうことだよくそニート。親のすねかじりの身で部屋に女連れ込んでるわけ?」
がしゃりと、扉を開ける音がする。どうして俺は鍵を閉めてなかったんだろうか。
「……なにしてるの?」
「違うんだ、月夜ちゃん。誤解なんだ」
「この光景を見せられて、いったい何が誤解なの」
薬を飲んだだけで、俺は着替えることも出来ていない。
十八歳男性が女性用下着と妹の通う女学院の制服を着こみ、片手は自分の胸に、もう片方の手をスカートの中に入れながら姿見の前で立つ姿が月夜の瞳には写っているだろう。
「何が誤解なんだろうね?」
「知るか! 変態ニート!」
月夜は持っていた漫画をそのまま俺に投げてきた。
そうして俺は心に強く決める。例え自分の体だったとしても女性の体に気軽に触るのは辞めようと。トイレの時だったとしても、決して自分では触れないようにしようと。
「ふむ。それで、ボクはその話を聞かされてどういう反応をすればいいんだ。残念だったねとキミを優しく慰めればいいのか? 残念ながら女装自慰の趣味を妹に見られたことに対する慰めの言葉をボクは知らない」
ここは六原地下の研究室。俺は毎週日曜日にここで身体検査をすることになっている。理由は勿論女体化による影響を調べるためだ。
「違います。日詰さんが、詩亜の事を月夜に聞けばいいんじゃないかって聞いてきたからじゃないですか」
俺と詩亜は幼馴染だ。だから当然、月夜と詩亜も幼馴染同士ということになる。月夜も中学に上がる時にトリシュ女学院に進学しているから、詩亜の不登校の原因を知っているのではないかということだ。
「そういえばそんな話だったね。と、いうかキミがボクにトイレの後始末をさせようとしたのはそんな事が原因だったのか」
「この事件以降、妹には避けられているんです」
あれから一度も灯夜の姿で会話を交わしていない。言い訳する機会さえ貰えない。灯璃の時はお姉様お姉様と慕ってくれているのに。
「当然だろう。私にも兄がいるから月夜君の気持ちはよくわかる。なんなら、まだマシな方じゃないのか」
「ですよね……」
家族会議にもなっていない。月夜の心の中でそっとしまっていてくれている。
「そもそも、月夜は詩亜と別に仲良が良いわけじゃないですよ」
確かに二人も幼馴染の関係性なのだが、月夜と詩亜が一緒に遊んでいたことはあまりない。詩亜はずっと俺と遊んでいて、幼かった月夜は俺たちについてこれずに別の子と遊んでいた。
「だとしても月夜君は重要な情報源だろう。これは会社からの命令だ。仕事だと思え。キミは月夜君からお嬢様の事を聞きだせ!」
扱いとして日詰さんは俺の上司に当たるらしい。会社の上司にそんなことを言われれば「はい。わかりました」以外の返事が出来ないのが会社員の辛い所だ。
「と、言われてもな……」
灯璃の姿で外をぶらぶらと散歩する。検査が終わるまで暇だったからだ。
研究室内で待っていても良かったが、日詰さんのいいから早く妹から聞きだせという圧に耐えられなかった。灯璃の姿の理由は、すぐにまた検査があるからだ。何度も男女の姓を入れ替えるのは面倒臭い。
「素直に聞いても答えてくれなさそうなんだよなぁ」
六原のビル近くの公園の中を散歩しながら日詰さんから出された課題の解決策を考える。
月夜に聞いても大方無視されて終わるだろう。だからといって誤解を解くことも出来ない。そもそも俺がトリシュ女学院の制服を着て姿見を見ていたのは誤解でも何でもない。ただ、そこに性別の容姿の違いがあるだけで。
「あれ、お姉様じゃないですか!?」
そんな声と共に抱き着かれる。月夜だ。背中から抱き着かれている。月夜の手が俺の胸に当たっているのはたまたまだろう。
「月夜さん? 偶然ですね」
「はい! 休日偶然お姉様と会うなんて月夜は幸せ者です!」
「ですが、こうやっていきなり抱き着くのはいけませんよ。めっ!」
月夜は、学園で会うと今のように抱き着いてくる。そのせいで学院内では瀬峰姉妹として俺たち二人の組み合わせは有名だ。
「はい、わかりました……」
月夜はしょぼんとしながら渋々といった様子で俺から離れる。俺から離れるとき、さりげなく手で尻を撫でられたような気がするけど、偶然かな?
抱き着くたびにどこか触られているような気がするけれど、まさか痴漢に合っていた月夜が同じことを俺にするわけが無いだろう。うん。きっとそうだ。
「月夜さんはお出かけですか?」
俺が出社するよりも早くに月夜は出かけていた。出社と言っても、定期健診だから昼頃の話だけれど。
「はい。少し家には居づらくて……。お姉様はスーツですけれど、どうされたのですか?」
定期健診だけだから灯璃用の服なんて持ってきてはいない。当然、今着ている服は出社するときに着ていた男物のスーツだ。こんな姿を月夜に見られて不味いと思ったが――
「あぁぁぁ……、学院でのお姉様も可憐で素敵ですけれど、男装のお姉様も優雅で素敵です!」
問題なさそうだった。また抱きしめるように飛びついてきたから叩き落とす。
「少し事情があって、着られる服がこれしかなかったんです」
「なら、月夜と服を買いに行きましょう。お金は月夜が出します。寧ろ出させてください、貢がせてください!」
ぎゅーと腕を月夜に引っ張られる。
「ごめんなさい。知り合いと待ち合わせをしていて、あんまりこの辺りから離れられないんです」
検査が終われば日詰さんが俺を迎えに来ることになっている。
「ええっ、そんなぁ……。月夜、お姉様と一緒にお出かけしたかったです」
月夜は落ち込んだように大きく肩を下ろす。
そんな姿を見て、家とのギャップの差で苦笑してしまう。月夜はその苦笑を何と捉えたのかわからないが「笑わないでくださいようっ」と俺の体を揺らす。
今までは全く知らなかったことだが、月夜は家の外ではぶりっ子ぶっている。
そんなことで学院では虐められるのではないか、少なくとも疎ましく思われているだろうと考えていたがどうやらそれは杞憂のようで、結構上手くやっているらしい。
そもそもトリシュ女学院の中に男性は一人もいない。だからぶりっ子ぶっていても疎ましく思われる理由が無いのだ。他の女子と取り合いをする男なんてどこにもいないのだから。見ていて面白い可愛いやつ、それが月夜の学院内での評価だ。
さて、ではどうして月夜はぶりっ子ぶっているのだろうか。可愛く見せる男なんて女学院の中にはどこにもいないのに。それは兄として考えないようにしようと決めている。俺の体を揺らしながら、さりげなく胸や臀部に触れてくる事と一緒に黙っておこう。
「最近、お姉様と触れ合う機会が少ないので寂しいです」
「そうですか? 寧ろ、増えているような気がしているのですけれど」
六原の圧力によって速やかに配備された送迎バスの中で、人が多いことを理由に月夜はずっと俺に抱き着いている。今はまだいいが、これから暑くなってきてもこのままだと少し困る。
「だってお姉様、お姉様を作ったじゃないですか」
少し拗ねたように月夜は言う。
お姉様お姉様と言われ、頭がこんがらがったが、冷静に考えてみればなんて事は無い。ひよこと結んだ姉妹の誓いの事を言っているのだろう。
「中等部にまでも噂が広がっているのですね」
さすが雀宮財閥のご令嬢だ。姉妹の誓いがあの女学院でどれだけ重要な物かは知らないが、妹が出来たという情報は学院中に広がっているようだ。
「それだけじゃありませんよ。お姉様が教師と出来ているだとか、下級生に手を出しただとか、そんな根も葉もない噂も聞いています」
うわ、そんな噂まで広がっているのかよ。流石女学院。噂の広がる速度が半端じゃない。
「その噂の片方は月夜さんに原因があるのですけれどね?」
「私は噂じゃなくて、真実にしてもいいんですよ」
実妹に手を出したなんて噂が広がっているだけで屈辱なのに、真実に出来るわけが無いだろ。
「最近、お姉様はいつも学院で雀宮様と一緒にいて、私が入る隙間なんてありません……」
落ち込んだ様子で月夜は言っているが嘘だ。俺が学院内でひよこと共に歩いていても、月夜は平気で抱き着いてくる。その姿を見てひよこが苦笑を漏らしながら「背後から急に抱き着くのは危ないからいけませんよ」と月夜を窘めるまでがワンセットだ。
そのせいで最近月夜は正面から抱きついてくることが多くなったし、ひよこと俺と月夜の三人を纏めて瀬峰三姉妹なんて呼び方が学院内で定着してしまった。
俺と月夜は良いが、雀宮の姓を持つひよこはとんだとばっちりだろうとひよこに言ってみたら「なら、私を瀬峰姓にしてくれてもいいのですよ?」と強烈なカウンターを受けてしまった。俺は何も言い返せず、後で散々日詰さんにからかわれたことは言うまでもない。
兎に角、最近の俺はひよこや月夜、そしてその周辺の人と交流する機会が多くなってしまっていて、当初の目的であった詩亜の中等部時代を調べることは全然できていない。詩亜との交流も薄くなってしまっている。
「おーい、瀬峰君。検査の結果が終わったぞ」
日詰さんが白衣姿のまま、とてとてと手を振りながらこちらに歩いてくる。
「あれ、日詰先生?」
休日に日詰さんが俺を呼ぶ理由が分からないのだろう。月夜は困惑の表情で日詰さんを見つめる。
「おや、月夜君じゃないか。偶然だな。済まないが、私は瀬峰君に用がある。返してくれ」
「……お姉様は日詰先生の物じゃなくて、私の物です。返してくれって言い方はどうなんですか」
月夜は俺の腕を抱きしめる力を強めながら、敵意を隠そうとしない目で日詰さんを睨みつける。
「と、いうかどうして休日にお姉様と日詰先生が……。はっ!? もしかして、二人は出来ているって噂は本当ってことですか!?」
日詰さんは瞬時に今の状況を把握したようで、面倒そうに眼を細めながら頭をガシガシと掻く。
「……ああ、そうだよ。ボクと瀬峰君は出来ているんだ。つまり、瀬峰君はボクのものだ。早く返してくれ」
面倒そうに、投げやりな調子で言う。
おいおい、面倒だからってなんてことを言うんだよ。ほら、月夜が驚愕の表情をしているよ。
「お姉様、嘘ですよね? あれはあの年増ロリがお姉様を取られたくなくて言った嘘ですよね?」
「誰が年増ロリだ。ほら、いいから行くぞ。早く私を帰らせろ。こっちは休日出勤なんだ」
右の腕を月夜、左の腕を日詰さんに交互に引っ張られる。
女性に取り合いをされるなんて本来羨ましいはずのシチュエーションなのだけれど、嬉しい気持ちは全く湧いてこない。今の俺が女性だからだろうか。それとも、取り合いをしている片方が実妹で、もう片方が小学生のような体躯をしているからだろうか。
「お姉様はこんな年増ロリよりも私を選んでくれますよね!」
「いいや、ぶりっ子系妹なんかよりも私の方が魅力的だろ!」
日詰さんまでむきになって月夜と争っている。もう何なんだよ、この状況。
どちらを選んでも角が立つ。もう面倒だ。二人とも振り切って逃げてしまおうかなんて考えていたその時――
「見てください! 日詰先生と月夜さんが灯璃さんを取り合っていますわ!」
「あの灯璃さんの目、修羅場なんてもう慣れたぜと言わんばかりの達観の目ですわ!」
「やれやれ系主人公気取りですの、俺TUEEEEEとか言っちゃいますのー!?」
いつもの姦し三人組だ。休日にまで会うなんて縁がある。
「はぁ、もういいです」
姦し三人組の登場によって気勢が削がれたのか、ため息と共に月夜は俺の腕を解く。あの三人組に助けられてしまった。感謝――はしないでいいか。日詰さんとの噂は彼女たちのせいだし。
「今日はいいです。お姉様も用事があるみたいですから。その代わり、今度埋め合わせをよろしくお願いしますね」
詩亜はそう言い残して公園を去って行った。
「これの埋め合わせって一体何をさせられるんだろうな? キミの貞操が無事だと良いが」
怖いことを呟かないでくださいよ……
「月夜ちゃん、月夜ちゃん、お兄ちゃんの話を聞いてほしいなー」
月夜の部屋に呼びかけるが返事は帰ってこない。音楽を聞いているわけでは無さそうだ。その理由に、部屋に耳を当ててみると「うっせぇーんだよ、変態が」という呪詛が聞こえてくる。
灯璃の時の対応とは大違いだ。灯璃の時はあんなに可愛く――あ、いや、灯璃の時みたいに抱き着かれても困る。色々なところを触られるし。
俺がこんなことをしている理由は勿論、月夜に詩亜の事を聞くため。
詩亜は中等部に進学して数か月しか行っていない。詩亜の一つ下の月夜が進学した時既に詩亜は不登校だったはずだ。月夜が詩亜の不登校の原因を知っているとは到底思えない。それでも上司に言われたからには社会人としてやらないわけにはいかない。
「月夜―、いるんだろー?」
今度はノックと共に呼びかけるが、月夜からの返事は当然返ってこない。
「どうしようか……」
引きこもりを外に出す方法として、裸踊りをするというのは神話の時代からの日本の伝統だが、月夜は別に引きこもりじゃないし裸踊りなんてしてもまた兄としての株を下げてしまうだけだろう。
これ以上下がる株なのかということはさて置いて。
このまま呼びかかけていても、月夜は返事をしないだろう。声は聞こえているようなので、このまま扉越しに聞くことにする。
「月夜ちゃんに聞きたいことがあるんだけど、中等部時代の詩亜の話を――うおっ!」
ドン! と扉を叩いた大きな音がする。初めて見せた月夜の反応だけれど、かなりご立腹のようだ。
月夜から話を聞きだすのは難しそうだ。しかし問題は無い。俺は月夜から話を聞きだし秘策があるからな。ふふふふふっ。
心の笑い声が漏れていたのだろう。また大きな扉を叩く音と共に、「笑い方もきめぇんだよ」と悪態が聞こえてくる。
お兄ちゃんをサンドバックか何かと勘違いして無いか? あんまりキツイ言葉ばかり言われると泣くぞ、お兄ちゃん泣いちゃうぞ?
「流石です、お姉様。何を着ても似合っちゃいます!」
次の休日、俺は月夜の着せ替え人形と化していた。月夜が持ってくる衣服をただひたすら試着して月夜に褒められるだけ。何が楽しいのだろうかと思うが、月夜は目を輝かせているからこのままでも問題は無いだろう。それよりもこの試着した服はどうするのだろうか。買い取らなくてはいけないのだろうか。最悪、経費で買うけどさ。
俺がこのような目に合っているのは以前月夜に言われた埋め合わせの結果だ。デートに行きましょうと言われ、さてどこに連れていかれるのかとどぎまぎしていたが、ただの大型百貨店だった。
「お姉様に一番似合う服を見つけようと思っていたのですが、お姉様は何を着ても似合うので困っちゃいます」
「私ばかりだと申し訳ないので、今度は月夜さんが着てみませんか? 私が選びますよ」
最初の内は、着せ替え人形は楽でいいと思っていたけれど流石に何度も同じことを繰り返していれば飽きてくる。
「いえいえ、月夜のことなんて気にしないでお姉様はずっと試着をしていてください! あぁぁ、お姉様意外と可愛い系も似合うので悩ましいです!」
その後も店を変え、何度も俺は月夜の着せ替え人形となっていた。まぁ、妹が嬉しそうだからいいか……
「お姉様、さっきのカードって黒色でしたよね?」
お昼を少し過ぎた頃、さすがに疲れた俺は休憩を要求し、二人で大型チェーンのコーヒー店に入った。
「ええ。それがどうかしましたか?」
試着した服は申し訳なくて日詰さんから渡されたクレジットカードで全て買ってしまった。持ち運べるわけも無いが、六原本社ビルに送ることも出来ない。全て日詰さんの家に送った。
「六原財閥が発行している最高ランクの物ですよね。六原が存在を公には認めてないって噂の。その……利用額限度って聞いてもいいですか?」
上目遣いで伺うように聞いてくる。俺達の家は普通の一般庶民だから気になるよな。月夜があの学院に入れているのだって、父さんがめちゃくちゃ頑張ってくれているおかげだ。
「残念ですけれど、私も詳しくは知らないんです。好きに使っていいよと渡されているだけですので」
ただ、日詰さんからは本当に何でも買えるようにしてあるとは聞いている。日詰さんがそう言うってことは、本当にこのカードで買えないものは無いんだろう。
「あぁぁ……、お姉様は見た目だけでなく、本当にお嬢様なんですね!」
目を輝かせて、両手を合わせて祈るように俺を見る。
月夜は知らないかもしれないけど、俺たちの親父も一応このブラックカードは持っているんだぞ。六原がクレカを発行しだした直後、一番最初に持つのは親友のお前が良いんだとおじさんが持ってきた。
利用限度額は個別に設定されていて、かなり低いそうだけれど。普通よりも少しだけ特典が豪華なカードだと親父はよく言っている。普通の人である親父がこのカードを使うのは少し恥ずかしい。年会費は無料にしてくれているから手放すことも出来ない。結果、物置で埃を被るだけのものになっている。宝の持ち腐れとはこのことだ。
今思うと、六原のおじさんが親父にクレカを持ってきたのは調査をしやすくするためだったのかな。昔の知り合いは定期的に調べているって言っていたし。
「それに比べて月夜なんて……」
「いえ、月夜さんもすらりとしていて美しいですよ」
女が私なんて……と言っている場合は取り合えず褒めとけと日詰さんが言っていた。
「家は普通の家ですし……」
俺の家と一緒だけどな。
「それに、兄が酷いんです……」
おっと、俺の話までするのかよ。
「大切な家族をそのように言ってはいけませんよ。めっ!」
「本当に酷いんですよ! お姉様、聞いてください!」
がばりと起き上がって詰めよってくる。
おいおい、もしかして女装自慰の件を言いふらすつもりか?
「月夜の兄は三つ上で、高校を卒業した後は知り合いの所で働いているんです」
「その歳で働いているということですか? 立派なお兄様じゃないですか」
少しでも月夜の中で灯夜の株が上がるよう褒めておく。
「そんなことありません。月夜は兄を兄だとは思えません」
「そこまで言うほどの何かがあったのですか?」
言われなくても知っている。女装自慰だ。
と、思っていたけれど月夜の口からは全然想像もしていなかった言葉が出てきた。
「兄は、月夜の事を妹だなんて思っていません。大切だなんてとんでもない。なんとも思っていません」
月夜は力強く断言する。
「えっ――」
そんなことは無い。俺は月夜の事を大切な妹だと思っている。そうでなければ。痴漢から助けたりしない。
「どうして、そう思ったのですか?」
出来るだけ普通に聞きたかったけど少しだけ上擦った声になってしまった。
すぐに月夜からの返事は来なかった。待っている間はそんなに長くなかったはずなのに口の中が渇いて、何度もコーヒーを口に運んでしまう。
「兄には仲の良い幼馴染がいるんです。今も連絡を取っているほどに仲の良い幼馴染です」
詩亜の事だ。詩亜がどうしたのかと思ったけれど、その前に月夜の言い方が引っかかる。
「お兄様の幼馴染ということは、月夜さんにとっても幼馴染なのでは?」
詩亜の事を随分他人行儀な言い方をする。兄には、ではなくて兄と私には、ではないのか。
「別に……月夜とあの人は関係ありませんよ」
随分ひどい言い方だ。確かに、月夜と詩亜が一緒に遊ぶことは少なかったけれど、それでも交流はあったはずだ。
「まぁ、トリシュに進学する前に相談に乗って貰ったりもしましたけれど……」
月夜は声を小さくして呟く。
月夜が進学する前に詩亜と連絡を取っていた? そんなこと初めて聞いた。
勿論、月夜と詩亜の交友関係を全て把握しているわけも無いが、それでもその二人の間で交友があれば小耳に挟むくらいはありそうだ。
「兄は、その子の事が好きなんです。いつもその子の事を気に掛けて、いつも一緒に居て」
当然だ。俺は詩亜を守ると誓っていたから。そうしないと、詩亜はすぐに泣きだしてしまうから。
その点、月夜は幼い頃からしっかりしていた。泣きだすことはほとんど無かったし、一人で大抵の事はこなしていた。手のかからない良い子で、俺には勿体ないほどの立派な妹だと思っている。
「私は、ずっと放っておかれていました。構ってもらえませんでした」
立派な妹だと、そう思っていたのに――
「私はあの人みたいに泣いたりしなかったのに、あの人と違って何でも一人でこなしたのに」
月夜はボロボロと大粒の涙を机の上に落とす。
一人称が月夜ではなく、私になっている。
「あの人は兄をお兄ちゃんと呼んで、兄も自分の事を兄ちゃんと呼称して、私にはそんなこと、一度だってしてくれなかった」
月夜は大人びていて、手のかからない子だと、そう思っていたのに――
「私は兄の事を、そんなふうに呼んだことなんてないのに。だから今も、なんて呼べばいいかわかんないよ……」
「月夜さん……」
そういえば俺は月夜から何と呼ばれていただろうか。最近はニート、変態。お兄ちゃんだとか、兄と付く名前で呼ばれたことは一度も無い。
「兄にとっては、あの人が妹で、家族で、本当に大切な人なんです」
立派な妹だと思っていたのに。
「どれだけ努力しても、頑張っても!」
年齢不相応に見えた月夜の立派な態度は、月夜にとっては兄に認めてもらうための精いっぱいの背伸びで。
「兄に手を引かれているのは、いつもあの人で。私はそれを遠くから見る事しか出来なくて!」
兄に甘えたいけど素直になることが出来ない、遠回しのいじらしいアピールで。
「私は兄にとって、要らない子なんです……」
長年溜まっていた瀬峰灯夜(あに)への不満を、月夜は瀬峰灯璃(あに)に向けて吐き出した。
「ごめんなさい。月夜、自分語りとかしちゃって。ありがとうございます、聞いてくださって」
少しして月夜が落ち着くと、にこりと微笑んでそう告げてきた。
目尻には涙が残っていて、崩れた化粧とその笑顔のギャップが痛々しい。
「大丈夫ですよ。お兄様は月夜さんの事を大切に思っています。月夜さんがしっかりしているから、一人でも大丈夫だと判断されたのだと思います」
俺は詩亜にしていたように、月夜を優しく抱きしめる、
「お兄様にもその話をしてみたらどうでしょうか。最初は恥ずかしいかもしれませんけれど、月夜さんならお兄様との関係をすぐに修復できます」
長い間、俺達兄妹の絆は糸のほつれのような物で築けていなかった。でも、それは今日までだ。今日から、俺と月夜で兄妹の関係を作り直そう。一般家庭のように、お互いが家族として大切にしあう関係を作り直そう。詩亜と同じくらい、俺は月夜の事も大切にするから――
そう考えていたのだけれど、兄に認められなくて、甘えられなかったことが悔しいという思いを吐き出したはずの月夜は、俺の言葉を聞いて複雑な表情をしている。
ははーん、今更兄にそう言うのが恥ずかしいのか。もう中学三年生だもんな。でも大丈夫、お兄ちゃんは既に話を聞いたから。月夜を受け入れよう。
そう考えていたが、月夜の口から発せられた言葉は俺の予想と全く違っていた。
「最近は普通に兄がキモイなって思っているんです」
え。
「そうです。聞いてください、お姉様! 正直、お姉様にするような話ではないと思うのですけれど、それでも聞いてください!」
月夜はぐわんぐわんと俺の肩を揺らす。
おいおい、まさか、言うつもりか? 全く赤の他人に、家族の恥部を。
「先日、部屋を覗いたら兄がトリシュ女学院の制服を着て、姿見で自分の姿を見ながらオナニーしていたんです!」
言いやがった! せめて音量を落とせよ、何大声で言ってんだ。近くに座ってるお客さんがちらちらとこっち見てるだろ。
「その……そんな事を私に言ってしまっても良かったのですか? 家族の、重大な事件のように思いますけれど」
「いいんです。兄は月夜の事を妹なんて思っていませんから。月夜も兄だと思いません!」
「そうですか……。ですが、その、このような場所でそういうことを言ってはいけませんよ。せめて声を低くするとか」
「えっ? そういうことって、どれの事を言っているんですか?」
月夜はきょとんとした顔を作る。
「ですからその……です」
オナニーの部分は小さく言う。
「え? なんて言っているか聞き取れませんでした」
にやにやとしながら月夜は言う。
セクハラ親父かよ。仕方が無いから俺は立ち上がって月夜の耳元に口を寄せて囁く。
「ですから、オナニーです。オ、ナ、ニ、ィ、わかりました?」
「ああ! それでしたか。すみません。月夜、全然気が付きませんでした」
月夜はわざとらしくとぼける。
よく言うよ。俺は月夜が良いならそれでいいけどさ。
「お兄様の事ですけれど、その、性癖は人それぞれですから気にしないであげるのが良いかと」
一応、灯夜(じぶん)へのフォローも入れておく。
「そうですけれど、兄は今までそんな素振り無かったんです。女装が趣味とか、女性になりたい欲求を秘めているとかそう言った素振りはありませんでした」
今も無いからな。
「ですから、急に女装趣味に目覚めたわけです。それには何か原因があるはずです」
急に趣味が出来たり、変わったりする場合は外的要因に拠る事が多い。女の趣味が変わった時は大体彼氏の影響だと日詰さんが教えてくれた。
「では、兄はどうして女装趣味に目覚めたのでしょうか。その原因を月夜は考えました」
月夜はドラマで見る名探偵のような顔つきで、反対に俺は追い詰められた犯人のように冷や汗をかいてしまう。
――もしかして、女体化の事がバレているのか……?
「多分、あの人が高校生になったからです。だからわざわざ入手困難なうちの学生服を着ていたんですよ!」
と、思ったが違った。よく考えれば女体化の事がバレているならさっきのような話をわざわざ灯璃(おれ)にしない。
「そのくらい兄はあの人の事が好きなんです。中等部の制服なら私の部屋に入れば簡単に手に入るのに。わざわざ高等部の制服を着ていたことから間違いありません!」
中等部の制服と高等部の制服は、襟のラインの本数など細かなところで少し違う。
どうやら、月夜の中で俺が女装していた理由は詩亜の事が好きで好きで仕方が無くてしたことになっているようだ。
「想い人と一緒になりたいという気持ちから装いを変えたということですよね? 素敵なことではありませんか」
「最低な性癖を持つ兄をそんな綺麗に言い換えるなんてお姉様は流石です! うわーん、お姉様が本当に私のお姉様だったらよかったのに」
月夜は泣きながら抱き着く力を強くする。ごめんな、お姉様じゃなくて女装自慰のお兄様で。
「見た目もよくて、中身も完璧だなんて、お姉様はお嬢様の中のお嬢様です。羨ましい」
「私なんてそうでもありませんよ」
「そんなことありません! お姉様も、しーちゃんも本当に、神様に愛されているんじゃないかってくらい素敵で、完璧です」
しーちゃん。
さっきまであの人呼ばわりしていたはずなのに、月夜は昔ながらの呼び方で詩亜を呼んだ。
詩亜の事は元々、俺から切り出そうと思っていた話題だ。
そう、月夜から話を聞きだす秘訣とはこれだ。
灯夜(おれ)でだめなら灯璃(おれ)が聞けばいい。
「しーちゃん、とは?」
焦ってはダメだ。まずは確認から。しーちゃんが詩亜のことだと知っているのは灯夜で、灯璃ではない。
「あっ、ごめんなさい! その……知り合いの女の子の事です」
けれど月夜は詩亜の事だと言わなかった。けれど俺としては自然に月夜から詩亜の事を聞ける機会。ここは逃せない。
「しーちゃんって、もしかして詩亜さんの事ですか? 高等部一年の六原詩亜さん」
「えっ、どうしてそれを……」
「実は、私詩亜さんとはお友達なんです。クラスも同じで、席も近くて。月夜さんも詩亜さんとは仲が良かったんですね」
「――……」
月夜は黙り込んでいる。どうしたのだろうか。よくわからないけれど、この機会に聞いておきたい。
「実は私、詩亜さんの事で聞きたいことがあって――」
「お姉様も、しーちゃんなんですか……?」
「えっ?」
がたんと大きな音をたてて月夜は机から立ち上がる。様子がおかしい。
視線は机の上のコーヒーに向けられている。表情は長く垂れた前髪で伺うことが出来ない。ホラー映画の幽霊に似た雰囲気がある。
「兄も、お姉様も、私が好きになった人は皆しーちゃんの事ばかり」
「つ、月夜さん?」
俺はそんな月夜を前にしてうろたえる事しか出来ない。
「しーちゃんはいつも人から愛されてる。兄と離れた後も、皆に囲まれてキラキラとしていて――羨ましくて、妬ましくて、大嫌いだ……!」
泣き止んだはずの月夜は、また瞳に涙を貯めて、店を出て走り去ってしまう。
「灯璃さんが月夜さんを泣かせていましたわ!」
「きっと別れ話です! 灯璃さんは月夜さんでは無くて、日詰先生を選んだのです」
「ですが、灯璃さんは雀宮様とも出来ているのでは!? ドロドロの泥沼展開ですわー!」
詩亜と同じように月夜を守ると誓ったはずなのに、俺は何も出来ないでただ座っている事しか出来なくて、周りの声も何も聞こえなくて、ただ暫くそこでぼおっと放心することしかできなかった。
『今日はすみませんでした! 気が動転してしまって、変なことを口走ってしまいました。お詫びは体で支払います。えっちな事でも全然構わないので何でも言ってくださいね(はぁと)
できれば、今まで通り接してくれると嬉しいです。
お姉様が言っていた六原詩亜さんですけれど、私は全然知りません。しーちゃんはただの知人です』
「これがその後月夜君からキミに送られてきた物か」
日詰さんは口に出して読み終えた後、ぽいと俺のスマホを投げて渡す。
日詰さんが住んでいる場所は六原本社とトリシュ女学院の丁度中間地点にある。
高層マンションの最上階、その一フロア丸々日詰さんが借りているらしい。
以前からこんな場所に住んでいるのかと聞いてみたら、この春に越してきたとの返答が貰えた。性転換薬の開発によって幹部に取り立てられ、給料が信じられない額になったから警備がしっかりしている所に引っ越したとのこと。
日詰さんの部屋と聞くと、その辺に実験器具が転がっているような汚部屋を勝手に想像していたが、物は少なく、整理整頓されていた。
「このような高級マンションではコンシェルジュが掃除してくれるんだ。知っていたかい? ボクは部屋が勝手に掃除されてから知ったよ」
と言っていたので俺の中の日詰さんのイメージは間違って無さそうだ。
「だが、良かったじゃないか。キミが理由も無く妹に嫌われていたわけではないとわかって」
「それは分かりましたけれど――」
月夜は俺との接し方が分からないのだ。俺が詩亜に構ってばかりで、月夜の方は全く見向きもしなかったから。どんな努力も頑張りも、俺が見なかったから。
月夜が俺を兄と思えないと言った理由もわかる。幼少期、ほとんど接触が無かったんだ。それで兄と言われても、月夜からすればただの他人としか思えない。
「ただただ兄との接触が欲しかっただけ。素直になれないいじらしさが可愛らしいじゃないか」
「最近は普通にキモイと思っているみたいですけどね」
兄の女装自慰姿を見てしまったのだから当然だ。
「月夜君が女子高でぶりっ子ぶっていた理由もわかったな。甘える相手が欲しかったんだ。両親ともに共働きで、兄は構ってくれない。外に甘える対象を求めて、そして一番可愛がられる態度を探した結果、ああなったんだ」
「えっつ、そんな理由だったんですか」
「キミは別の理由だと思っていたのか?」
同性愛者だと思っていたとは言えなかった。
「灯璃の姿のキミをお姉様と慕ったのも、灯璃の中から兄を見出したんだろうね。兄に甘えることが出来ないから、似た女の子を兄の代用品として甘えたんだ」
胸や尻を撫でていたのも今まで甘えることが出来なかったからその反動なのだろうか。うん、きっとそうだ。そう信じておこう。
「キミが兄らしく振舞って、月夜君に精いっぱい甘えさせればきっとすぐにでも兄妹としての絆を手に入れることは出来るだろう。――キミが月夜君を許すことが出来ればの話だけれどね」
日詰さんは最後に少しだけ不穏な言葉を付け足す。
「さて、では本題に入ろうか」
日詰さんは奥の部屋からノートパソコンを持ってくる。
「キミは月夜君をお嬢様と同じように大切にすると誓ったそうだね。そんなキミには少し残酷かもしれない。けれどキミにはお嬢様か妹か、選んでもらうよ。妹を許せるか、許せないか」
今日、日詰さんの自宅に来た理由の一つは、以前月夜と出かけた際に買ってこの場所を届け先にしていた衣服を別の場所に移すことだが、それとは別に理由がある。
「キミが月夜君と話をしてくれたおかげで、お嬢様が不登校になる少し前まで月夜君とSNSで連絡を取り合っていることが分かった。これはその二人のDMでのやり取りを再現したものだ」
日詰さんはノートパソコンの向きを俺に向ける。
「先に言っておこう。お嬢様が不登校になった原因は月夜君だ。――勿論、直接的ではなく、間接的ではあるがな。決定打になったのは月夜君がトリシュ女学院への入学を決めたことだろう」
日詰さんは真っすぐに俺を見据える。返事を逃さないぞという無言の圧を感じる。
「さて、キミは月夜君を許せるかい?」
「な、なぁ、兄ちゃん」
ぎいぃと軋む音を立てながら部屋の扉が開いて月夜が顔を覗かせる。
灯璃を通じて月夜の気持ちを知って以降、俺は出来得る限り兄として振る舞い、月夜を甘えさせていた。
「この漫画の続きなんだけど、ある?」
その甲斐があり、今は以前のように漫画の貸し借りをするようになった。
「……兄ちゃん? なぁ、おい、なんで無視するんだよ。こっちくらい向けよ」
以前までと違う一番の変化は、月夜が俺の事を兄と呼んでくれるようになったことだ。
灯璃の前では兄とだけ呼んでいた。それなりに年齢を重ねてから兄を呼ぶのだから兄さんだろうか、お嬢様学校に通っている事もあるし、兄様なんかかもしれない。なんてことを考えていたのだが、月夜が選んだものは兄ちゃんだった。
月夜は甘えた盛りの小さな子供のように、俺の事を兄ちゃんと呼んでいる。
「ごめん」
「はぁ? 何の謝罪だよ。別に続きが無いくらいで怒ったりしないけど」
「そうじゃなくて――」
逡巡してしまう。本当に言っていいものなのかと。言わなくてもいいことなんじゃないかと。
このまま黙っていて、月夜と仲良くすればいい。折角、普通の兄妹の関係になれたんだ。わざわざ自分からこの関係を崩すことは無い。俺さえ言わなければ、それは出来ることだ。俺が心の内で何を考えていても、月夜が知る事は無い。
「ごめん。俺は月夜の事を許せない」
でもそれは、最初の約束を破ることになるから――
「なんだよ。今までの態度の事? それは悪かったよ。私もその……大人気なかった」
「違うよ。その事じゃない。そんなの最初から気にしてない」
大人気ないのは俺の方だ。大人ならこんなの黙っていて、知らないふりをして、自分の感情なんて器用に誤魔化しながら、上手に人間関係を回していく。
でも俺はまだまだ子供だから、幼い頃の約束を破ることなんて出来なくて、忘れた振りも出来なくて。
「俺は月夜よりも詩亜の方が大切だ」
詩亜を守ると決めた俺は、詩亜を傷つけた月夜の事を許すことは出来ない。
「な、んだよっ、それ……」
ぼとりと月夜が持っていた漫画本が落ちる音がする。
「なに、今更そんなこと言ってるんだよ。それってわざわざ口に出して言うようなことかよ」
言わなくていいことだ。でも、詩亜を守ると決めた以上、俺に言わないなんて選択肢は無かった。月夜を許す選択肢は、最初から選べない。
「それとも、そういう復讐か? なぁ、今更、私にそんな意地悪を言うのがお前の復讐かよ」
妹との関係性を修復した後、それをまた壊すことが俺の望んでいた物なのかと月夜は責めてくる。
「……私だって、お前の事なんて兄だと思ってねぇよ! 最近はなんか、お前が優しくて、そっちの方が都合良かったから、そうしていただけなんだからな!」
そう吐き捨て、月夜は大きな音と共に強く扉を閉める。
「――ううっ、お姉様っ、やっぱりダメだったよ……。月夜は、なんとも思われてないどころか、大切に思われてないどころか、嫌われてるんです……」
耳を澄ませると、隣の月夜の部屋から怨嗟の声が聞こえてくる。
小さい頃に幼馴染を守ると誓った俺は、今更になって何かを守るってことは、他の何かを傷つける事だって知った――
「月夜は絶対に許せない」
それは、俺が詩亜を守ると決めたから。
「だから、俺は俺自身も決して許せない……」
詩亜が不登校になった原因、それは俺の存在だった。
俺が詩亜を守るために、詩亜の近況を知るために教えたSNS。それが重みになって、傷つけていた。
『しーちゃん。久しぶり。月夜です。兄がしーちゃんと連絡を取り合ってたみたいだから、そのアカウントにDMを送ってる。私もしーちゃんと連絡を取ってもいい?』
『つきちゃん? 久しぶり! 全然問題ないよ! つきちゃんと連絡が取れるの、私も嬉しい。でも、急にどうしたの?』
『しーちゃんの通っているトリシュ女学院がどんなところなのかなって気になって。お嬢様学校って、縁が無いから気になったの。どんな様子か聞いてもいい?』
『良いよ! あのね、まだ入学して数か月しか経ってないけど、とってもいい所なの。設備は整ってて、校舎も綺麗で、学園内も広いの! 広すぎて、筋肉痛になっちゃうくらい。皆良い人ばかりでね、平泉さんって人と、特に仲が良いよ。私の一番の友達なの』
………
……
…
『しーちゃんが投稿してた写真も見た。球技大会、楽しそうだね。しーちゃんの隣にいる背の高い人が平泉さんかな。綺麗でかっこいいね』
『うん、平泉さんは私一番の友達だから。平泉さんが褒められると、なんでか私が照れちゃう』
『期末テストも学年一番だったんだよね? おめでとう。上位五十名まで廊下に結果張り出されるんだよね。私だったら恥ずかしくて耐えられない』
『私も恥ずかしい。先輩はそのうち慣れるって言ってたけど、全然信じられないよ』
『でね、私しーちゃんの話を聞いてたら羨ましいなって憧れちゃったの。だから、私も今年編入試験を受けるね』
『え?』
『お父さんに聞いてみたら、頑張って働くから行ってこいって言ってくれたの。お母さんもパートの時間を増やすからって』
『つきちゃんが、うちに来るってこと……?』
『編入試験に合格したら、だけどね。お父さんとお母さんに負担を掛ける事になるけど、応援してくれるって』
『うちの学校、結構学費高いよ。それに、つきちゃんが思ってるほど楽しくないかも』
『ううん、しーちゃんの話を聞いたり、写真を見たりしたら楽しい場所なんだなって伝わってくる』
『思ってるだけかも』
『あのね、私、しーちゃんみたいになりたいの。しーちゃんって、皆から愛されてて、キラキラしてて、羨ましくて、そんな存在に私はなりたいの。しーちゃんに近づくためにトリシュに行きたい。しーちゃんみたいになったら、兄もきっと私を見てくれるから』
『来ないで! ここは、つきちゃんが思ってるような場所じゃないし、私は、つきちゃんが憧れるような存在じゃないから』
『それって、どういうこと? ねぇ、それだけじゃわかんない。なら、本当はどんな場所なの。本当のしーちゃんは、どんな存在なの』
それを最後に、二人でやり取りは行われていない。
この直後、詩亜は不登校になり、月夜はトリシュに合格した。
月夜が入学する前に、詩亜は学校を辞めた。
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