第三話

「あら、瀬峰さん」

「げっ、雀宮ひよこ……っ」

「……随分ご挨拶な返事ですわね」

 放課後、日詰さんに言われ実験機材を職員室から理科準備室に運んでいる最中、ひよことばったり出くわしてしまった。

 トリシュ女学院の校舎は大きく、学年を越境した授業や活動は行われることは少ない。そのため部活やクラブ活動にでも入っていなければ他学年の生徒と接触する機会というのはほとんどない。勿論、意図的に接触しようとすれば話は別だが、あの入学式の日以降全く見なかったから忘れてしまっていた。

「……っ」

 俺はペコリと頭を下げてひよこの隣を通り過ぎようとすると、腕を掴まれて止められてしまった。

「ちょっと、挨拶も無しに通りすぎるつもりですの?」

「頭は下げましたよ」

「あなた、何も聞かされていませんの? ごきげんよう。それがこのトリシュ女学院の正式な挨拶なのですわ」

「っつせーな。そんなこっ恥ずかしい挨拶いちいちしてられるか。クラスメイトにするのですらまだ恥ずかしいんだぞ……」

「何か言いましたの? 良く聞こえませんでしたわ」

「ああ、いえ。雀宮様、ごきげんよう。では私はこの通り、物を運んでいる最中ですので」

「待ちなさい。私も手伝いますわ」

 ひよこは俺が抱えていた箱を上から半分取る。

「あら、意外と軽いですわね。それで、これをどこに運ぶんですの?」

「理科準備室ですけれど、どうして?」

 どうして俺なんかに構ってくるんですか。そういう意味で言ったはずなのにひよこからは少しずれた返答が帰ってきた。

「あら、困っている後輩を助けるのがそんなに不思議ですの?」

「別に困ってませんよ。軽いし。雀宮様は詩亜さんにご執心だったはずでは?」

「詩亜さん? ああ、入学式の時の事を気にしているのですわね。六原さんとはあの翌日にちゃんとお話ししましたわ」

「えっ」

 そんな話聞いていない。というか、いつ接触していたんだ? 全く気が付かなかった……

「どんな話をしたんですか?」

「別に普通の会話ですわ。気になるんですの?」

「そりゃ、まぁ……」

 雀宮のご令嬢が六原のお嬢様にわざわざ会いに来てした会話ってのも普通に気になるし、ひよこは詩亜をビビらせていた。詩亜を守る使命を持つ俺としては無視できない。

「瀬峰さんが六原さんを気に掛けているって話は本当だったのですわね」

「そんな噂になっているんですか?」

 俺は詩亜を守るために出来るだけ学内では一緒に行動しているし、他の生徒から詩亜の事を聞いたりしている。特に不登校になる前の詩亜の様子をだ。今のところ結果は芳しくないけれど。

「ええ。それと、日詰先生と下級生の女の子に手を出しているとも聞いていますわ。……本当ですの?」

「根も葉もない噂です! っていうか、それを本人に直接確かめるってどうなんですか」

 上級生の耳に入るくらい噂になってるんだ……。日詰先生の方は兎も角、月夜の方は衆人環視の下だったからな……

「噂なんて尾もヒレも付いてしまうものですから。本人に直接確認しなければ真偽も何もわかったものではありませんわ」

 理科準備室に荷物を置いてもひよこは帰ろうとしなかった。腕を組んでじっと俺の方を見ている。

「えっと、雀宮様……?」

「そういえば、質問の返答がまだでしたわね」

 質問の返答? 俺がなにかひよこに質問をしていただろうかと思っていたが、ひよこは一度答えた質問の回答を返してきた。今度はしっかりと、質問の意図を正しく捉えて。

「私があなたに構っているのは、興味があるからですわ」

「興味……?」

「ええ、どうしてか私はあなたが気になってしまっていますの」

 ひよこは俺に近づいてドンと腕で壁を叩く。所謂壁ドンだ。そしてゆっくりと顔を近づけてくる。

 えええ! 気になるって、そういう!? 月夜の時といい、女になってモテ気が来たのか!?

 なんてテンパって目を瞑っていたけれど、どれだけ待っていてもひよこの唇と俺の唇がくっつくなんて事は起きなかった。そもそもひよこの口元が近づいていたのは俺の耳元だ。

「瀬峰灯夜って、ご存じですか?」

 閉じた目を勢い良く開いてひよこの顔を見てしまう。ひよこは俺の反応が満足だったらしく、にこりと微笑んだ。

 どうしてひよこが俺の名前を……?

「あなたが手を出したと噂の下級生、瀬峰月夜の兄ですわ。直接お会いしたことはありますの?」

「い、いや……。知りません。会ったこともありません」

 あんな反応をしてこんな返事をするのはどうかと思うけれど、俺としてはしらばっくれるしかない。大丈夫。瀬峰灯夜と瀬峰灯璃の間には何の関係も無い。例え雀宮の力で調べられたとしても何も見つからないはずだ。

「あら。そうですの?」

「なんで、そんなことを聞くんですか」

「なんでって、貴方が言っていたんじゃありませんの。俺の名前は瀬峰灯夜だって」

 あの時の言い間違えを覚えられてたってことかよ。

「瀬峰灯夜。六原詩亜の幼馴染。大学受験に失敗した後、六原茂樹の下で働いている……」

 ひよこは滔々の俺の個人情報を述べていく。中には俺ですらも知らない情報が混ざっていた。きっと雀宮の力で調べたのだろう。

「プライバシーは……」

「本人に言われれば謝りますわ」

 俺の正体を知ってか知らずか、あなたは瀬峰灯夜では無いでしょうと言外に込めた瞳で俺を見る。

「瀬峰なんて珍しい名字ですからあなたと関係があるのかと思ったのですけれど、調べても調べても、あなたとの関係は何も見つかりませんでしたわ」

 やっぱり瀬峰灯夜と瀬峰灯璃、どちらも調べていたか。だが関連することは何も見つからなかった。当然、二人は全くの他人なのだから。

「ええ。さっきから言っている通り、私瀬峰灯夜なんて知りませんから」

「ええ。月夜さんから紹介されていないのなら知らないかもしれませんわね」

 ひよこは壁に置いていた腕を戻す。

 逃げ切れたか? まさか俺が灯夜であることまで疑われているとは思えないけどこの事は日詰さんに報告しておかないと。

「本当に知りません。月夜さんに兄がいたことも初耳です。私とそんなに名前の似ている方がいるのですね」

「そうですか。では灯夜という名前も初耳ってことですわね?」

「はい」

 力強く頷く。嘘というのは一つの嘘を通すために他の嘘を吐くことで露呈する。一つの嘘だけを吐き続ければ矛盾も生まず、バレる事は無いはずだ。灯夜と明璃は全くの無関係。これだけを言い張っていれば何とかなるはず。

「以前、更衣室で六原さんと瀬峰灯夜の話をしたのではなくて?」

 なんでそんなことまで知っているんだよ!

「幾ら女性しかいないと言っても、戸締りはしっかりとしておくべきですわよね。それで? 知っていて、どうして私に知らないふりをしたのです?」

「詩亜さんとそんな話をした事なんて忘れてしまいました」

「あらそう。あくまでしらばっくれるつもりなのですわね」

 雀宮は高く指を突き上げ、それをゆっくりと下ろし、俺に突き付ける。

「あなたと瀬峰灯夜との繋がり、絶対に見つけてみせますわ」


「そりゃあ、キミが言い間違えたからだろう。俺の名前は瀬峰灯夜だ。なんて、ボクだって気にする」

 それにしてもどうしてひよこが灯夜と灯璃の関係性を気にするのか疑問だったが、日詰さんにそうはっきり言われてしまうとその通りな気がしてくる。

「それにしても雀宮君は調べすぎだと思うけどね。気にはしても、深く突っ込まないのが現代人というものだ」

「ですよねっ。普通あそこまで調べて、本人に確認までしませんよね!」

「それはそうだが、雀宮君に責任転換するんじゃないぞ。元はと言えばキミの言い間違えが原因だ」

「うっ」

 日詰さんは俺が理科準備室に運んできた荷物の中を点検している。どうやら経費で買った趣味で使う器具のようだ。俺たちのクラスの担任までならわかるけど、理科室の責任者にまでする必要はあったのだろうか。早速好きに使ってしまっている。

「学内にもこうして二人で相談できる拠点が必要だろう。そのための管理責任者だ」

「勝手に人の心を読んだような発言はやめてくださいよ」

 ってか拠点て。この人は理科室をどこまで自由にするつもりなんだ。

「しかし、雀宮君に怪しまれるのは不味いな」

「何がです? 別に誰であっても不味いと思いますけど」

「もみ消せないだろう。他の生徒や教員なら六原の力で何とか出来るが雀宮君は不味い」

 その『何とか』の詳しい部分について触れる勇気は俺には無かった。

「まぁ、キミがよっぽどのボロを出さなければ問題は無いと思うがな。まさか、性別が変わっているとは思うまい」

「まぁ、流石にそんな失敗はしませんよ」

「何を言ってるんだい。今の状況だってキミのボロが出た結果だろう。どうして瀬峰灯夜について聞かれて目を見開くような反応をしたんだい」

「……見ていたんですか」

 ひよこが準備室を出て直後、ひよこさんが入ってきた。直前のやり取りくらいは聞かれてもおかしくは無いと思っていたけれどそんなに前から見られていたとは。止めに入ってきてくれても良かったのに。

「キミは鎌を掛けられていたんだよ。気になる言い間違えをしたが、どう調べても何も見つからない。だからキミの反応で確かめることにした。雀宮君本人が言っていたじゃないか。本人に直接確認しなければ噂の真偽は分からないと」

 ほとんど最初から見られてる。それなら俺と一緒に器具を運んでくれても良かったじゃないか。

「雀宮君にだけはバレないように気を付けろよ。性転換した直後の様子を見られなければ大丈夫だと思うが……」

「まさか。俺がそんなミスをするわけが無いでしょう」

 ハハハと俺の笑いが準備室に響く。

「ここだけの話だけど、キミが受験に失敗した原因は記入漏れだったんだよな……」

「なんで今そういうことを言うんですか」


 俺は基本的に家から一番近い公園のトイレで性転換薬を飲んでいる。

 家で飲むことは出来ないが、かといって六原のビル地下にある研究室で飲むことも出来ない。あのビルは家からも学校にも遠すぎる。悠長にそんなことをしていたら遅刻してしまう。

 早起きしろよと思うかもしれないが、夜の詩亜とのやり取りも必要なことで、仕事みたいなところがあるから疎かにすることは出来ない。必然的に、家の近くの適当なところで薬を飲むしかなくなっている。

 こんなことを続けていたら絶対いつか誰かに見つかってしまう。かなり危険だ。そう日詰さんに伝えると

「ボクの功績が認められてボク専用の研究室を建設してくれるらしい。それをキミの家の近くに建てることにしよう。そこで着替えるといい」

 との返事が返ってきた。変な人な上、実験を全くしない人だが、性転換薬なんて世紀の発明をしたのは事実だ。寧ろ研究室程度でいいのか。性転換薬を発表してノーベル賞とかもらったほうが良いんじゃないかと思う。

「何を言っているんだ。発表したらキミの正体がバレる可能性が高まるじゃないか。別に社長の下でも私のやりたい研究は出来る。私はお嬢様の事が心配なんだよ」

 とのことだった。名誉とかは気にしないタイプの人らしい。

 話を戻そう。一晩で城や砦を建てるようなことができるのは秀吉公くらいのもの。幾ら日本有数の財閥と言っても、どんなに急いでも研究室を建てるには一か月ほど時間がかかるそうだ。

 その一か月の間、俺は絶対に誰にも見つからないよう性転換薬を飲まなくてはいけない。そう日詰さんに言われたばかりだったのに……

「うえっ。雀宮ひよこ、なんでこんなところに……」

「瀬峰灯夜さん? なんで女子トイレから……」

 いつものように女子トイレに入り、着替え等を済ませて中に他、誰もいないことを確認してから出た所をひよこに目撃された。学校帰りに立ち寄ったのか制服姿のままで、お嬢様のわりには友人も警護も連れていない。一人のようだ。もしかして、尾行されていた?

「瀬峰灯璃さんが入っていった女子トイレから瀬峰灯夜さんが出てきた。つまり、二人はここで何かしていたはず」

 どうしてひよこがこんなところにいたのか皆目見当も付かないが、今はひとまず逃げるべきだ。だが、俺の行動よりも、ひよこが動く方が早かった。腕を強引に掴まれる。無理に振りほどこうにも、今は薬の影響で力が出ない。

「少し付いてきてくださいます?」

 そのまま無理やり女子トイレの中へと連行される。

 こんなところ、パパラッチにでも撮られていたら大問題だろうな。それか、トリシュ女学院のお嬢様方に見られでもすれば。

 けれど都合よく、ひよこの奇行を止める者はいない。俺のときは毎回、いつもの三人組が必ずいるのにどうしてだよ……

「瀬峰さん――灯璃さん!」

 同じ瀬峰姓で紛らわしいからか、ひよこは瀬峰ではなく灯璃と呼びながら女子トイレの中を点検する。しかし、灯璃の姿はどこにも見つからない。当然だ。今ひよこが腕を握っている男が瀬峰灯璃なのだから。

「逃げられましたの? でも逃げるところなんてどこにも無いはず」

 ひよこはぶつぶつと呟きながら考え込む。

「なぁ、俺が言えたことじゃないかも知れないけど一旦ここから出ないか?」

 ひよこは俺の事を忘れていたようではっと思い出したようにこちらを向く。

「よく考えればあなたに聞けば全てわかることですわ。絶対に、拷問をしてでも教えていただきますわ」

 俺の腕を掴むひよこの力が少し強くなる。怖えよ。この人こんなキャラだったのか……?


「あなたたちは女子トイレの中で何をしていたのか。灯璃さんはどこへ行ってしまったのか。その他もろもろ教えてもらいますわ。――はい、どうぞ」

「おっ。サンキュ」

 ひよこは近くの自動販売機で買った缶コーヒーを俺に手渡す。

 財閥のご令嬢にしては少しケチなんじゃないかとも思ったけれど、俺は女子トイレから出てきた犯罪者だ。即座に警察へ連絡されてないだけ十分温情すぎる措置だった。

「こんなところでいいのか? 拷問するんじゃなかったのか」

 俺とひよこはそのまま公園のベンチで隣り合って座っている。放課後の夕方だというのに遊んでいる子供は見つからない。最近は公園で遊ぶ子供も珍しくなったよな。

「拷問は言葉の綾ですわ。それに、どうせあなたは逃げられませんもの」

 ひよこはスマホを操作して動画ファイルを開く。俺が女子トイレから出てきた時の動画だ。これをひよこが持っているから缶コーヒーを買いに行ってる間も俺は逃げられず、ここで呑気に待っているしかなかった。

「それにしても毎日朝と夕。本当にこんなところで何をしていたんですの?」

 ひよこが指をスクロールするとそこには、朝に灯夜が女子トイレに入り、灯璃が出てくる。夕方に灯璃が女子トイレに入り、灯夜が出てくる。そんな映像が一か月分ずらりと並んでいた。

 どうやら雀宮財閥が所有する衛星カメラに映っていたらしい。監視カメラ等十分チェックしていたはずだけど流石に宇宙に浮かぶ衛星までは警戒できない。

「朝にあなたが入って夕方まで出てこないのも不思議です。――まさかっ」

 ひよこは両手で俺の頭を固定する。そして顔を近づけてきた。誰かに見られればキスをする一歩手前と勘違いされてしまうなほどの至近距離で、ひよこの碧い瞳と目が合う。

「お、おい……」

「うーん、違いますわね」

 ひよこはぱっと俺の顔から手を離して元の場所に座りなおす。

「あなたが灯璃さんに変装しているのではと思ったのですけれど、顔が全然違いますわね。灯璃さんはもっと綺麗なお顔をしていますわ」

「それは俺に失礼なんじゃないの」

 灯璃の時の顔も一応は俺の顔なわけで、綺麗な顔と言われるのは嬉しいけど、灯夜よりも灯璃の方が良いよねって言われているみたいで複雑だ。

「身長も全然違いますし、あなたと灯璃さんは全く別人ですわね」

「俺と灯璃は別人だからな。当然だ」

「では、あなたは一体女子トイレに入って何をしていたのでしょうか。まさか、女子トイレに一日中籠ることが趣味だなんて言いませんわよね」

「うぐっ……そうだよ! 俺は変態だ。悪いか」

 いや、悪いだろうと心の中で自分にツッコミを入れる。

 自分でそんなことを認めたくないけれど、ひよこには絶対に性転換の事を知られてはいけない。バレるくらいなら吹っ切れて変態であることをを認めた方がマシだ。

「はい、ダウト。すぐにバレる嘘は吐かないほうがいいですわよ」

 ぴんとひよこにおでこを指で軽く弾かれる。何の飾りも付いていない綺麗に切りそろえられた指でデコピンされても何も痛くない。

「あなたは六原茂樹の所で働いているのでしょう? 一か月間、一日中女子トイレの中に入っていられるわけがありません。ま、これが仕事だって言うなら話は別ですけれどね」

 それが仕事だなんて言えるわけがない。六原茂樹の部下の仕事が一日中女子トイレにいる事? 入っている時の映像ですら問題なのに、とんでもないスキャンダルじゃないか。

「言ってしまいなさいな。あなたと灯璃さんが何らかの繋がりを持っていて、それが六原関係であることまでは分かっていますの。隠していたっていずれバレますわ。なら、今のうちに言っておいた方がいいのではなくて?」

 だからと言って、ひよこに話せるような事でもない。そもそも話したところで信じて貰えるような事でも――いや、目の前で薬を飲めば信じるしかないか。黙っていても、話してしまっても六原には迷惑をかけてしまう。それならこちらから話してしまった方が、幾らか主導権を握れるはずだ。

「別に悪いようにはしませんわよ。ただ、灯璃さんをちょっかいを掛けるくらいの……」

「わかった。全部言う。聞いても後悔するなよ」


「――で、私が瀬峰灯璃です。わかりましたか?」

 灯夜と灯璃が同一人物である事、女学院に通っている理由等々、一通り事情を伝え、俺は性転換薬をひよこの目の前で飲んで見せた。

「藪をつついたら鬼が出てきたような気分ですわ……」

 ひよこは欧米人が驚いたときよくやるように口と鼻を両手で覆っている。

「ちょっと気になって調べたら意外と面白そうな事を見つけて、灯璃さんを軽くからかおうかなと考えていただけですのにこんなことになるなんて……」

「気軽に人の秘密に踏み込むなってことですね。それで、私はどうすればこのことを黙っていてくれるのでしょうか」

 男の俺が女学校に通っている事は勿論、六原がそんなことをしている事も黙って貰わなければいけない。ライバル財閥のご令嬢に。

「難しい話だってことは分かっています。でも、詩亜を守るために必要なんです。私に出来る事ならなんだってしますから、黙っていて貰えませんか。雀宮様、お願いしますっ!」

 勢いよく頭を下げる。ちらりとひよこの顔を伺うと、少し考え事をしているようだった。目を瞑って腕を組んでいる。

「取り合えず、私に敬語を使うのはやめなさいな。あなたの方が年上でしょう」

「でも、学院の先輩ですし……」

 頼みごとをしている時にため口ってのも変な話のように思う。

「なんでもしてくれるって話でしたわよね? 灯璃さん――ん、灯夜さん? 私はどちらで呼べばいいのでしょう」

「別に好きな方でいいよ」

「そうですか、では灯璃さん」

 少し悩んでひよこは灯璃の方を選んだ。今は混合しないのだから瀬峰でいいように気がするけれど。

「私と姉妹の誓いを結んでくださいな」

「姉妹の誓い? なんだっけ、それ」

 そんな伝統がトリシュ女学院にあるんだと思うけど、詩亜を守る上で必要無いから特に覚えていない。

「あら、知りませんの? 姉妹の誓いというのはトリシュ女学院に伝わる風習の一つで、上級生と下級生の間で結ばれる契約ですわ。姉は妹の為に、妹は姉の為に行動する。そういう契約ですの。そうすれば私はあなたのために、黙っている事を約束しますわ」

 学院に伝わる伝統だからひよこも簡単に破れない。だから黙っているという約束がある程度信頼できる。俺からすればかなり良い申し出だ。そもそも俺は断れる立場に無いから受ける事しか出来ないんだけど……

「それ、どっちが姉になんの?」

「何を言ってますの。勿論私ですわ」

「でも俺、ひよこより二つ年上なんだけど」

「だから何ですの。学年は私の方が上ですわ。それにひよこって何ですの。下の名前で呼ばないでくれます?」

「え、なんでだよ。ため口で話せって言っただろ」

「確かに言いましたが、下の名前で呼ぶことまで許可した覚えはありませんわ」

「何だよ、いいじゃん。ひよこって名前が恥ずかしいのか? 可愛いのにな」

「かわ……っ、五月蠅いですわ。私の事をひよこと呼ぶのは禁止します。よろしくて?」

「よろしくない。で、姉妹の誓いを結ぶの、俺は良いけどひよこのメリットは何?」

 現状、俺にしか得が無いように思う。ひよこの考えが分からない。

「ひよこと呼ぶなと言いましたのに……。勿論、あなたを妹に出来る事ですわ。理科室で言いましたわよね? 私はあなたに興味があるって」

 ひよこは俺の頬をそっと撫でる。

「では、また学園で会いましょう。あなたの連絡先は知っていますから、呼んだら来てくださいね。ごきげんよう」

 ひよこはにこりとほほ笑んだ後、さっと身を翻して公園を出て行ってしまった。

 えええ! 理科準備室での勘違いは勘違いじゃなかったって言うのかよ。


「いや、キミの勘違いだ。考えてもみろ。雀宮のご令嬢がキミのような一般市民を相手にすると思うか?」

 ひよことのやり取りの翌日。俺は一限の授業をさぼって理科室で日詰さんと話をしていた。内容は勿論、ひよこに俺の正体がバレてしまったことだ。

「と、いうか散々言ったのにその日にバレてしまうとはな……」

 日詰さんは昨日俺が運んだ実験器具を使って液体を調べている。何を調べているのかは根っからの文系である俺にはわからない。

「で、性転換薬のことは言わなかったんだよな?」

「はい。目の前で飲みましたけれど、薬については何も聞かれませんでした」

「そうか。その薬に関してだけは守り切れ。聞かれてもこれだけは答えられないと言え。もし力尽くで奪われそうになったら持っている分全部飲んでしまえ」

「そんなことして大丈夫なんですか?」

 男になる薬と女になる薬、そんなものを一気に飲んでしまえば大変なことになるような気がする。

「大丈夫なわけが無いだろう馬鹿物。どうなるかはボクにもわからないが、その薬は命を犠牲にしてでも守り抜け。運が良ければ助かる」

「運が良ければって……」

 それだけ守らなければならない機密情報の塊の薬ということなのだろう。そんなものをそもそも俺に持たせないで欲しい。

「それにしてもひよこの意図が読めませんよね。わざわざ調べて、それでいて黙ってくれるだなんて」

「それは彼女が言っていた通りだろうな。ちょっと好奇心からつついてみたらとんでもないことが出てきた。自分には手に負えない事が出てきたから軽く収めようって魂胆だろう」

「自分には手に負えない事って、雀宮のご令嬢が?」

「いくら財閥のご令嬢とも言ってもただの高校生だ。他の財閥の悪巧みなんて知ってしまっても、どうにもできないし関わりたくない。姉妹の誓いとか言っておいて誤魔化すのが精いっぱいだろう」

「つまり、彼女はこの事を口外しないってことですか?」

「だろうね。そもそも彼女は元々その気も無いだろう。キミ、一度も女子学院に通っている事を詰られなかったね」

 思い返してみれば女子学院に通っている事は勿論、女子トイレの方でも責められてはいない。勿論、どうしてそんなところから出てきたのか、中に入っていたのかは聞かれたけれどそれだけだ。それについて変態だとか、気持ち悪いとかは言われなかった。俺の妹ならヒステリックな叫びと共に俺を詰っているだろう。

「彼女は聡い子だよ。性別なんて物があやふやなものであることを理解している。男性の肉体が、女子トイレから出てくることが社会通念から逸脱している事が分かっていて、その上で本人はどうでもいいと思っている。現代っ子だね」

 日詰さんは実験をしながら紙に何かを書き込んでいる。器用な人だ。

「性別があやふやなものだなんて……」

「何、事実だろう。特に昨今は。ところで、キミの性別はどっちだ?」

「どっちって何を言っているんです。俺は男ですよ」

「そうか。キミは今女の体なのにかい」

 日詰さんの言う通り、トリシュ女学院にいる今の俺は灯璃の姿だ。

「……それでも俺は男です。俺は瀬峰灯夜ですよ」

「つまりそういうことだよ。肉体なんてどうでもいいんだよ。男でも女でも――それ以外も。本人の意識次第でどうにでもなるんだ。キミが女だと思えば女になれるよ」

「別になりたいなんて思ってないですけど」

 俺は男だ。例え女の体だとしても。詩亜を守るために今はそうしているに過ぎない。

「そうかい? ボクはどうでもいいけどな。――んっ」

 日詰さんは実験器具で調べていた液体を飲む。

「何してるんですか!? ほら、吐き出してください!」

 俺は日詰さんを捕まえて背中をどんどんと叩く。

「うぐっ、おい何するんだ。ボクが飲んでいたのはただの水道水だ」

「は? なら何を調べていたんですか」

「何、新しい実験器具で遊んでいただけだよ。特に何も調べていない」

「紛らわしいことしないでくださいよ。ってかそうだとしても調べていた水を飲まないでください」

「捨てに行くより自分で飲んだ方が楽じゃないか」

「なんでそんなにものぐさ何ですか……。――ん?」

 扉が開く音がしてそちらを見ると見慣れた姦しい三人組が立っていた。ああ、いつものやつか……

「灯璃さんが日詰先生を叩いていましたわ!」

「暴力!? DVですの!?」

「大変、灯璃さんが女と動物は殴らないと言うことを聞かないとか言ってますわー!」

 最後のは普通に捏造じゃねえか!

 当然の如く、三人は止める間も無く走り去ってしまった。

「どうするんだい。段々とクズとしての道を進んでいるようだが」

「もうどうにでもなれですよ……」

『暴力は当然絶対にやってはいけないことで、悪だと思うんだけど、それでもしてしまうのは何か理由があると思うの。被害者は勿論、加害者にもメンタルケアが必要だと思うんだけど、灯夜君はどう思う?』

『そうだな。灯璃の意見は一理あると思う。でも俺はその暴力が本当にあったかどうかを確認することも重要だと思うな。噂とかならその両名に確認しよう。いや、本当に確認してくれ!』


「こんなところに呼び出して何をするんだよ」

「ここでやることなんて一つに決まってますわ。灯璃さん、脱ぎなさい!」

 ここはトリシュ女学院の更衣室。放課後、早速ひよこに呼び出された場所はここだった。

「そりゃあ俺も脱ぎたいけどさ」

 ひよこに言われ、今俺は男の体になっている。けれど女学院に男性用の服を持ち込めるわけも無いから灯璃の学生服を着たまま。しっかりと採寸して作られているから結構キツイ。

「どういうこと?」

 更衣室で、男の姿に戻されて、服を脱げと言われる理由が良くわからない。そもそも俺を男に戻してどうしようって言うんだ。この更衣室の外に出ることも出来ない。

「私、以前から男性の体に興味がありましたの。灯璃さんは色々と丁度良かったですわ」

「俺の裸を見るつもりかよ」

「ええ。勿論、下半身まで見せろとは言いませんわ」

「当たり前だろ! 頼まれても見せねえよ!」

「あら、そんなことを言われると姉妹の誓いを解消したくなりますわね」

「ぐっ……、それは卑怯だろ」

 ひよこに下半身を見せろと言われたら見せるしかないのか……。いや、詩亜を守るためだ! これくらいどうってことはない。

「俺の詩亜を守る覚悟を見ろぉおおおおおお!」

「ちょっと、だから見せなくてもいいって言ってるじゃありませんの。スカートから手を離しなさい!」

 俺の全てを見せつけるつもりでスカートの中に手を入れたが、ひよこに止められてしまう。

「もう。あなたはじっとしてくださいまし。私がやりますわ」

 ひよこの細指が俺のブラウスのボタンを一つ一つ外していく。他人の服を脱がすなんて慣れていないのだろう。手間取っているのがもどかしくてくすぐったい。

「やっと全部開けられましたわ……」

 ひよこは三十分ほどかけて全てのボタンを外す。慣れていないのもあったと思うが、今の俺と服のサイズが全く合っていないのもここまで時間がかかった原因だろう。ここまでで疲れてしまったのか、ひよこはかなりぐったりとしている。

「……男性にも乳首があるんですわね」

「当然だろ。哺乳類なんだから。男には無いと思っていたのか?」

「男性の乳首は省略して書かれることが多いので無くてもおかしくは無いなとは思っていました」

 ひよこは俺の乳首の先をぐりぐりと指で弄り始める。

「お、おい……」

「それに、哺乳類と言っても男性は乳を与えたりはしませんわ。いったいこれは何のためについているのでしょう」

「見るだけって話だっただろ」

「そうケチな事を言わないでくださいな。――れろっ」

「なんで乳首を舐めたんだ!?」

 俺はひよこの肩を掴んでぐいと引き離す。ひよこは不機嫌そうな顔だ。そんな顔をしたいのは俺なんだけど。

「吸ったら出ると思いましたの」

「出るわけないだろ!」

 成績優秀って聞いていたけど。学校のテストには一般常識なんて科目無いもんな……

「確かに。私も出ませんわ。女性は妊娠したら出てくるようになります。なら、男性にとっての妊娠とは……」

 ちらりとひよこが俺の下半身を見る。

「下半身までは見せないって言ったよな!?」

「まぁまぁまぁ」

「まぁまぁまぁじゃねえよ! おい、ちょっと……力強いな!」

 抵抗虚しく俺はひよこに押し倒される。

「大丈夫、一瞬ですわ。目を瞑っていれば終わりますの」

「それ言う方逆だよね! 誰か、助けて!」

 俺の叫びが届いたのか、祈りが届いたのか、更衣室の扉の向こうからどたどたと足音が聞こえてくる。今の姿を誰かに見られるわけにはいかないから、ポケットに入れていた性転換薬を急いで飲んだ。

 俺のこんな状況を見るのはいつもの姦しい三人組しかいないだろうな。いや、今回は助かるんだけど。

「雀宮様と灯璃さん……? 更衣室で一体何して……」

 今度はあの三人にどんな噂を流されてしまうのだろうかと考えていたが、あの三人では無かった。

「詩亜さん。なんでここに」

「灯夜君の声が聞こえてきたから来たら、雀宮様と灯璃さんがえっちなことしてる……」

 俺が男の声で叫んだからか。いや、男の声なんて聞こえたらこの学院の人間は誰でも駆け付けるだろうからたまたまなのかもしれないけど。

「詩亜さん。その、誤解です」

「何が誤解なんですか。灯璃さんは上半身裸で、雀宮様は灯璃さんのスカートの中に手を入れています」

 詩亜の言う通り、これを見せられて何が誤解だって言うんだ。

「見ての通り、私と灯璃さんはこういう関係ですの」

 ひよこはスカートの中に手を入れていない方の、開いている片手で俺の頬を撫でる。

「私と灯璃さんは姉妹の誓いを契りましたの」

「そ、そうなんですね……? 私、他に人が来ないよう見張ってきます!」

 詩亜はぐるぐると目を回して混乱しながら、びゅーと駆けていった。

「詩亜、完全に勘違いして出て行ったんだけど」

「そのほうが面白いじゃないですの。それに、この状況で何が勘違い何ですか」

 誰のせいだと思ってんだよ……

『灯夜君! 友達の女の子と先輩の女の子が学校でえっちな事してたんだけどどうしよう! 今度は噂とかじゃなくて私が見ちゃったの!』

『自分の見たものだけが真実とは限らないんだ。その、何か事情があったかもしれない。きっと誤解なんだ。誤解だから、その友達の子にもちゃんと確認して!』


 ひよことの更衣室の出来事を詩亜に見られた後、俺とひよこが姉妹の誓いを結んでいたことは学院内中に広まった。

「灯璃さん、雀宮様にまで手を出しましたわ!」

「しかも、学内で行為に及んでいたとか。場所も何も選ばない野獣ですわ!」

「次は私たちの番ですわー!」

 等々の悪い噂とセットでだ。まさか詩亜がそんな噂を流したなんて考えたくないけれど、あの行為を見たのは詩亜しかいない。

「詩亜さん。今、いいですか?」

「あっ、……はい、なんですの?」

 それに、今のように詩亜から目を背けられるようになってしまった。せっかく今まで築いてきた詩亜の学内一番の友人という立場が……

「――瀬峰さんが」

「ですわよね……」

 それに、他の同級生からも何か噂されている気がする。今までも噂はあったはずだが、やはり財閥のご令嬢であるひよことのうわさが興味を引いてしまっているのか。

「あ、あの、灯璃さん!」

「は、はい! 何ですか?」

 やっと詩亜の方から話しかけられて、目も合わせてくれた! 何の話だろう。噂の真相かな。それなら全部、否定してやるぞ!

 そう意気込んでいたけれど、詩亜はまたすぐに目を背けて、顔を真っ赤にした。

「その、漏れてます……」

「漏れる?」

 何のことかわからず、詩亜の視線を追っていくと俺の股を見ていた。股の間に手を入れるとぬるりと生暖かい感覚が手を包み込む。血だ。

「血!?」

 なんで股から血が出るの。もしかして、気が付いて無い間に膜が裂けた!?

「えっ、俺処女じゃなくなったの!? まだ童貞なのに!」

 周りのひそひそとした噂話の声が大きくなる。

 というか、どうして詩亜は俺の股から血が出てる事が分かったんだ。

「その……匂いが……」

 俺のその疑問も、聞いてみれば更に顔を赤くさせて詩亜は答えてくれた。言われてみれば少し鉄の匂いがする。周りが噂してたのはひよことのうわさじゃなくてこっちか……


「俺の体に生理があるんですか!?」

「当然だろう。女の体なんだから。ちゃんと妊娠もできる」

 俺は理科室でじゃぶじゃぶと血まみれになった下着を洗っていた。スカートにも少し血が付いてしまったから今は体操服に着替えている、

「もう、どうして私まで呼び出されるんですの」

 ひよこの《妹》になって気が付いたのだが、結構髪形をころころと変えるらしい。色素の薄い髪をサイドテールの形に纏めたひよこが俺のおでこをぴんと弾く。デコピンが癖なのだろうか。

「お姉様は灯璃のピンチに助けに来てくれないの?」

「都合の良い時だけお姉様と呼ばないの」

 俺の少し高めの声で出したあざとい声はひよこに咎められ、はぁと小さくため息を吐かれる。

 あの後、俺が漏らしている事を知って日詰さんとひよこが駆けつけてきた。どうしてひよこまでと思ったが、姉妹制度はこういった妹の不手際を姉が面倒見るものらしい。クラスメイトがひよこを呼んだようだ。

「まさか先生にまで六原の人が関わっているとは思いませんでしたわ。その詩亜さんを守るという計画はどれだけ大掛かりなものなのです」

 日詰さんが六原の関係者で性転換薬を作ったとことは日詰さん本人がひよこに伝えてしまった。話して良かったのかと思ったが、日詰さんが話したと言うことは大丈夫なのだろう。それにひよこにはもうほとんど話してしまっている。今更だ。

「ボクと瀬峰君くらいだよ。勿論、ボクの事も学院側に黙っていて欲しいのだけれど」

 日詰さんは俺とひよこを理科室に連れてきた後、米をじゃぶじゃぶと洗っている。なんでそんなことをしているのかわからないが、よく見ると教室の中には炊飯器だけでなく、電子レンジや冷蔵庫まで持ち込まれている。

 自由すぎるだろこの人……

「ええ。黙っていますわ。六原の悪巧みに関わりたくなんてありませんもの。それに詩亜さんを守るってことでしょう? 何か文句を付けるような事とも思いませんわ」

 血の付いた下着はどれだけ洗っても落ちない。洗えば洗うだけ水が赤く染まるだけだ。

「それにしても性転換薬を作るとは凄いですわね。SF小説にだって出てきませんわよ」

 そりゃあ、飲むだけで一瞬にして性別を変える薬なんて出てこないだろう。リアリティが無さ過ぎる。読者が納得しないだろう。ファンタジー小説にだって出てくるかどうか怪しいくらいだ。

「何、ボク一人の力じゃない。これは六原の技術の結晶だ。渡せないぞ」

 日詰さんって謙遜とか出来るんだ。

「そんなことは言いませんわ。ところで全く話は変わるんですが、日詰さんはどんな待遇で働いていますの?」

「引き抜きか? 悪いがボクは社長に恩がある。それにお嬢様はボクの教え子だ。私は教え子を裏切るような教師の風上にも置けぬ女ではないのでな」

「三倍の待遇を用意しますわ」

「何なりとお申し付けくださいませ、雀宮様」

 日詰さんはひよこの足元で片膝を付く。

「おい、裏切り者」

「何、ちょっとした冗談だよ。それよりキミは何時まで下着を洗っているつもりだい。それなりに洗っておけば後は水に浸しておけばいい」

「ところで灯璃さんは妊娠出来るとおっしゃっていましたけれど、灯織さんが妊娠した状態で男に戻るとその子供はどうなるんですの?」

 ひよこがさらりと恐ろしいことを言う。

「ん? そうだな。恐らく男に戻った際、腹の辺りに胎児の死体が出来るんだろうけれど……」

 日詰さんも恐ろしいことを言う。

「どうなるかわからんな。――実験してみるか」

 日詰さんは振り向いて俺を見る。凄く意地の悪そうな笑みで。

「日詰さんは実験、嫌いでしたよね?」

「勿論嫌いだ。だが理論だけでは成立しない、実験でしかわからないこともあるのだよ」

 日詰さんは一歩一歩にじり寄って距離を詰めてくる。

「普段と言っていることが全く違いますよ!」

「大丈夫だ。何もキミと男を交尾させようなんて考えていない。人工授精でいいんだ。精子もキミの物を使おう。ほら、どっちも自分の物を使うのだから難しく考える必要は無い。植物がやるような受粉だと思うんだ」

「詭弁ですよ。言い方を変えただけで結果は変わりません。詐欺師の手法だ!」

「お待ちなさい。私の妹を勝手に妊娠なんてさせませんわ」

「お姉様っ……!」

 颯爽とひよこが俺と日詰さんの間に入ってくれる。日詰さんは性転換薬なんて代物を俺の体でいきなり試そうとする人だ。本当に妊娠させられかねない。ひよこと姉妹の誓いを結んでいてよかった。

「雀宮君。キミは勝手に瀬峰君が妊娠するのが許せないのだろう?」

 日詰さんは白衣のポケットから青い錠剤を取り出す。あれは男体化するときに使う薬だ。

「これを使えば雀宮君が瀬峰君を妊娠させられる」

 ひよこは少し考えてから口を開く。

「……そういえば灯璃さんは私がひよこ呼びはやめてと言ったのに続けていますわよね」

「お姉様っ!?」

 名前呼びの代償が重すぎる!

「はは、まぁ冗談だがね」

 日詰さんは青の錠剤をポケットに戻す。

「え、冗談でしたの?」

「お姉様……」

 この人、本気で俺を妊娠させるつもりだったのか?

「というか、教室で漏らしてしまった。もう教室に行けない……」

「何を言っとるんだ。生理くらい誰にでもあることだ。だからそうやって隅でジメジメするな。湿度が上がるだろう」

 隅で体育座りになっていた俺を日詰さんはずるずると引っ張って部屋の真ん中に戻す。

「ええ、よくあることですわ。今は皆猫を被っているだけで、そのうち教室の中を生理用品が飛び交うようになります」

「お嬢様校だから座る時に足を開くような子はいないがな。あとゴリラも」

「普通の女学校はゴリラがいるんですか……?」

 それは授業中にドラミングとかしだすってこと? 女学校っていうか、動物園じゃないのかそれは。

 女学校こわい……。

「ですが、教室で経血がそんなに漏れることは珍しいですわね。椅子にちょっと付くくらいはたまにありますけれど」

「俺が通っていた高校ではそんなことは無かったですね。女子校の女の子が特別なのでしょうか」

「男に見られないようこっそり拭っているに決まっているだろう」

 日詰さんは洗っていた米を炊飯器にセットする。

「今回が初めての生理だったからナプキンを使ってなかったし気が動転して変なことを口走ってしまったとクラスメイトには説明してあるから気にするな」

「どこに高校生にもなって初めて生理になるやつがいるんですか」

 確か小学生高学年から中学生の間に来るものじゃなかったか。

「あら、個人差があるものですから別に高校生で来てもおかしくは無いですわよ」

「遅発初経と言う。そんなことも知らないのか?」

「男は保健の授業でやらないんですよ」

「ならキミたち男は私たちがそう言ったことを習っている間に何をしていたんだ?」

 何をしていたんだろう? 多分運動場でサッカーでもしていたんだろうと思う。そう考えると結構無責任なのかもな。生理の知識は男だって知るべきだ。今の俺のように、女体化して教室で経血を漏らすことになるかもしれないのだから。

「遅発初経――遅発月経とも言います。乳房発育や陰毛発生などの二次性徴の遅れがみられる場合がありますけれど――」

 ひよこと日詰さんは俺の胸に視線を向ける。

「キミは別に胸、小さくないよな。陰毛の方はどうなんだ?」

「ちょっと、体操服を脱がそうとしないでくださいよ!」

「ボクはキミの初潮を祝って赤飯を炊いてやったんだぞ。それくらい見せてくれてもいいだろう。同性だし」

 何をやっているのかと思っていたけど赤飯なんて炊いてたのかよ。

「私、初潮の時に赤飯を炊く風習苦手ですわ。子供の死亡率が高かった昔なら分かりますけれど、現代で祝う理由がわかりませんの」

「親父とか兄貴とか男家族にバレるのが恥ずかしいよな。初潮と赤飯をきっかけに反抗期が始まるんだ」

 ひよこの発言に日詰さんがうんうんと頷いている。男の俺には付いていきにくい話題だ。

「キミの所ではどうだったんだ?」

「えっ、俺ですか」

 なんで俺に初潮の話を振るんだ。俺に振るってことは男としての話題を求められている……?

「精通の時は特別な物を食べた記憶無いですね」

「誰もあなたの精通の時の話なんて聞いていませんわ」

 少しだけ頬を赤らめたひよこにぴんとおでこを弾かれる。なら何て答えればよかったんだよ。

「キミの妹の時はどうだったんだって話をしているんだ。キミの妹もそのくらいの時期から反抗期が始まったんじゃないのか」

「何も覚えてませんよ。それに妹の当たりがきついのは昔からです」

「なんだ。ならキミは特に理由なく妹に嫌われているのか。生理的に嫌われているんだろうな」

 なんで初潮の話からそんな事まで言われなくちゃいけないんだ。

「当初の予定通りキミに生理用ナプキンの使い方を教えるとするか」

 日詰さんが幾つか生理用ナプキンのパッケージを取り出す。結構種類あるんだな。

「ここにある物は経費で買ったから持って帰るといい。全部試してちゃんと自分に合った物を使えよ」

「持って帰れと言われましても」

 家のどこに置けというんだ。部屋に生理用ナプキンが置いてあることがバレたら即家族会議だ。ただでさえ灯璃用の下着の洗濯や置き場には困っているというのに。

「今から生理用のナプキンの使い方を教えてもらうなら、あなたは今どうしていますの? そのままにしていたら漏れてきてしまいそうですけど」

「瀬峰君ならおむつを履いているよ。準備していてよかった」

「おむつ……準備?」

「ひよこは知らなくていいから……」


 日詰さんとひよこの二人に教えて貰い、生理やナプキンの使い方を教えて貰った。

「これでまた一つ、女性の体について詳しくなってしまった……」

「保険の授業一つ分で何偉そうに言っていますの」

 ぺちんとおでこを軽く叩かれる。今日はひよこにおでこを弾かれる回数が多いな。

「因みに、使用済みナプキンはSNSでそれなりの値段で売れるから小遣い稼ぎにおすすめだ」

「売ってるんですか。自分の使用済みナプキンを。SNSで」

「女子トイレのゴミ箱に入っているやつを売ればそれだけでお金だけが手に入る。最高だな」

「最悪の錬金術だ……」

「その点、女学院は最高だ。女の子が多い上、皆警戒せずトイレのゴミ箱に捨てる」

「最低の教師だ!」

「勿論冗談だけどね。そのくらい捨てる場所には気を付けろということだ。変態は世の中のどこにでもいるからな」

 SNSで売る最低教師もどこにいるかもわからないからな。

『生理は勿論だけどセクハラとか痴漢とか、何かと女の子は大変だよな。俺、もっと女の子を大切にするよ』

『それは良いと思うけれど。急にどうしたの灯夜君。なんだか気持ち悪いけど……』


 だいたいこんな感じでひよこと姉妹の誓いを結び、一か月ほどひよこの妹として過ごした。その期間を経て得たひよこの印象は面倒見が良くて気立ての良いお姉さんだ。

 生理の事以外にも化粧のやり方や髪の手入れの仕方等々、女性の体で活動するうえで大切な事を教えて貰った。その面倒見の良い性格は妹である俺以外にも適応されるようで、多くの生徒がひよこを頼って訪ねてきた。生徒からの信頼は厚いようだ。

 さて、そうなると疑問が出てくる。ひよこがどうしてわざわざ灯夜と灯璃の事を調べていたのかという疑問もまだ残っているがそれではない。それはひとまず、俺の不注意からひよこの気を引いてしまったということにしておこう。

 一番の疑問は最初、ひよこと初めて会った日にひよこが発した言葉だ。

「成金の六原さんは礼儀も知らないのかしら」

 青春小説のキャラクターのように、たった一ヶ月の間でその人の全てが知れただなんて事は言わないが、それでもひよこの妹として近くで見てきた経験から言わせてもらうと、ひよこは何の考えも無くこのような悪口を言う人物ではない。

 と、なるとひよこには何か考えがあって詩亜に向けて成金なんて言葉を放ったに違いない。ならひよこはどんな考えを持って言ったのだろうか。どれだけ考えてもわからない。俺はひよこでは無いから。ひよこの考えはひよこにしかわからない。

「あの、灯璃さん? こんなところに何の用事がありますの」

 ここは旧校舎の屋上。鍵は日詰さんから借りてきた。その屋上に置いてある古びたベンチの上で俺とひよこは隣り合って座っている。昼休みのこんな場所、誰も来ない。秘密の話をするにはぴったりだ。

「ひよこに大切な話があるんだ」

 ひよこの肩をがっと掴んで視線を合わせる。ひよこの碧い目が、遠慮がちに俺の目を捉えた。今日の髪形はツインテールだが、いつものようにくるくるとカールさせていない。朝、時間が無かったのだろうか。

「誰にも聞かれたくない話なら理科室でいいですわよね。どうしてわざわざこんな場所に?」

「理科室は邪魔が入る可能性があるだろ。本当に、誰にも聞かれたく無い話なんだ」

 この間のようにいつあの姦しい三人組が現れるかわからない。念には念をだ。絶対に、誰にも見られない場所が良い。

「いつもみたいに髪をくるくるさせてないけど朝時間無かったの?」

「あなたが昨晩旧校舎の屋上に来いなんて連絡を送ってくるから気になって眠れなかったんです……」

 ひよこは頬を紅潮させて、俺から視線を外して自分の毛先をくるくると回す。何を照れているんだ。

「ひよこに聞きたいことがあるんだ」

「私に答えられる事でしたらなんでも答えますわ」

「俺とひよこが会った最初の日、入学式の事なんだけど、俺の教室にまで来てただろ?」

「ええ。あの時のような態度を私以外の上級生にしてはダメですわよ」

「しねぇよ。それで、あの時ひよこは詩亜に成金とか言ってただろ。どうしてそんなことを言ったんだ」

 本人に直接確認しなければ真偽はわからない。そう言ったのはひよこだ。だから俺はその言葉に従ってひよこ本人に直接確認することにした。

「成金……?」

 しかし、当の本人は首を傾げている。

「もしかして覚えてない?」

 ひよこはすぐさま首を振る。

「いえ、勿論覚えていますわ。ただ、どうしてあなたがそんなことを聞いてくるのかが分からなくて」

 本当にわからないようだ。きょとんと小首を傾げている。

 ひよこのそんな態度がなんだかいらっと感じてしまう。

 何、とぼけてるんだよ。あの時のひよこは悪意を持ってひよこに成金なんて言っただろう。剣呑な雰囲気だったじゃないか。

「理由なんてどうでもいい。兎に角なんでそんなことを言ったんだよ」

「皆さんが言っているからですわ」

 こともなげにひよこはそう言い放った。

 皆? 周りが言っているから私もみたいな気軽さで?

「そんな理由で詩亜に成金なんて悪口を言ったのかよ!」

「……悪口?」

「ああ、そうだろ! そんな悪口で詩亜を傷つけて――」

 詩亜の不登校の原因を見つけてしまった。何度も大勢の人に悪口を言われ、傷ついてしまったのだろう。けど大丈夫だ詩亜。詩亜を傷つける言葉は俺が全部取り除いてやるからな――

「成金って悪口でしたの?」

 ん?

「え、そんなこと無いですわよね。だって――」

 ひよこはスマホを操作する。女子高生らしく、慣れた手つきだ。財閥のお嬢様だが、こういうところに親近感を覚える。

「ほら、成金にそのような意味なんてございませんわ!」

 ひよこが見せてきたスマホの画面には成金の意味が書かれている。

一、急にお金持ちになった人

二、将棋に置いて低位の駒が成駒すること

「どこにも悪いことなんて書かれていませんわ。むしろ、将棋で低位の駒が成ることを示す。つまり、誉め言葉ですわ!」

 自分は悪いことなど一つもしていないと、そう示すようにひよこは胸を張ってその画面を突き付けてくる。

「えっと、つまりひよこは悪口としてではなく、誉め言葉として成金って言葉を使った……?」

「ですから、先ほどからそう言っていますわ! 逆にどうして灯璃さんは悪口だと思ったんですの」

 一転して、こんどはひよこが俺を詰問するような口調で問いかけてくる。

「えっと、一般的な日本人は成金を悪口的な意味として捉えていると思うんだけど……」

 そういえばひよこはハーフだった。確か、片方はフランスだっけ?

「もしかしてひよこって幼少期を海外で過ごした?」

「ええ。高等部への進学を機にこちらへ越してきましたわ」

「つい最近まで向こうでいたのか。それにしては日本語が上手だな」

 HをFと間違えたりするようなフランス訛りの日本語ではない。ネイティブの日本語発音が出来ている。

「話を逸らさないでください。私の育ちは関係ないでしょう」

「ええと、成金はなんていうか……フランス語でnouveau riche(ヌーボーリシュ)って意味なんだ」

 多分、ひよこは成金を努力して成功した人という意味で使っている気がする。確かに、言われてみれば成金という言葉自体に悪い意味は含まれていない。ただ、日本の風習上悪口として使われることもあるというだけだ。

 Nouveau richeは悪い意味で使われる言葉だ。日本語に訳そうとするとずるして金持ちになった人とか? 上手に訳せないけれど、悪口として使われる成金が一番近い。

「そんな意味がありましたの……」

 ひよこはそれがかなりのショックだったようで両手で口を隠すようにして驚いている。

「一応聞くけど、あの時空気が悪かった理由は何?」

「私も緊張していたのですわ。下級生の教室に行くなんて初めての事でしたから」

「詩亜と接触した理由は?」

「挨拶をしようと思ったのですわ。大きな財閥の令嬢同士ということもありますし、六原さんはこういった学園に通うのは初めてだと思っていましたので、こういった場での挨拶等は分からないと思いまして」

「ごきげんようなんてこの場所でしか言わないからな……」

 それで挨拶と繰り返し言っていたのか。

「詩亜は中等部、一時期通っていた時期あったけど」

「それはあなたに聞いて初めて知りましたわ。私は高校編入組ですもの。その時はフランスでいましたわ」

 あるいは六原が隠していたのだろう。お嬢様が不登校から自主退学だなんて世間に漏らせない。

「つまり、ただの勘違いだったってことかよ……」

 はぁとため息を吐いてしまう。

 それでも――詩亜が多くの人から成金と言われていたのは事実だろう。それが悪意を持って言われたのか、ひよこのように勘違いで言われたものなのかは全く分からないが、詩亜は傷ついていたはずだ。詩亜が不登校になった原因に一歩近づけた。

「どんな理由であっても私がそのような言葉を六原さんに向けてしまったのは事実ですわ。早いうちに六原さんに謝罪します」

「そうしてくれ」

「それで、大切な話ってその話でしたの?」

「ああ――、ひよこはどうしてこんなにも俺に構ってくるんだ」

 メインは成金の話で間違いない。けれどついでに他の気になっていたことを直接ひよこに聞こうとも考えていた。

 このことについては日詰さんとあんな言い間違えをすれば誰だって気になるという話で落ち着いたが、それは日詰さんとの話であって、ひよこに直接確認したわけじゃない。

「俺が瀬峰灯夜なんて言ってしまって気になったのは分かるけど、それにしても調べすぎじゃないか?」

 瀬峰灯璃も、瀬峰灯夜もひよこは調べ上げていた。少し過剰のように思う。

「あら、またその質問ですの?」

「また?」

 こんなこと、ひよこに聞いていた覚えはない。どこかで聞いていたっけ……?

「理科準備室で聞いてきたでしょう? どうしてって」

 確かに聞いた。どうして構ってくるのかという問いだったが、ひよこから返ってきたのは後輩が困っているからなんてズレた返事だった気がする。

 ――いや、別の返事も貰っていたんだっけ?

「私の返答はあの時のものと変わりませんわ」

 ひよこは両手を俺の手の上に合わせる。

「私はあなたの事が気になっていますの」

 耳元で囁かれる。少し熱っぽい雰囲気で、憂いを帯びた吐息交じりに。

 驚いて顔をひよこから離すが、体まで離すことは出来なかった。手を、ひよこの両手で抑えられているからだ。

「それって、言い間違いの事だよな? まだそんなことを気にしているのかよ」

「そんなことは最初から気にしていません。私は、あなたの事が気になって調べましたの」

 俺が距離を取った半身分、またひよこも距離を詰めてくる。

「私は最初からあなた――灯璃さんが気になったのです。そうして灯璃さんを調べてまたあなた――灯夜さんを知って灯夜さんも気になっていきました。」

 ひよこが俺の手から両手を離す。だから俺は上半身だけでなく、体全体ひよこから距離を取ったけれど、俺がそうすればひよこも同じだけ距離を詰める。

 最終的に俺はベンチの端まで来てしまっていた。もう逃げ場は何処にも無い。

「気になって、惹かれていきましたわ。私、一目惚れというのはフィクションの中だけの話だと思っていましたの。恋愛模様を書くことが出来ない三流作家が、物語の都合で作り上げた創作だと信じていました。けれど全く違っていて、物語の存在が、確かに存在するものだと知ることが出来ました」

 灯璃と灯夜、二人に一目惚れしたのだとひよこは言う。

「私、結構悩んだんです。勿論、灯璃さんを好きになったからが理由では無いですわよ」

 日詰さんはひよこの事を現代的な考え方をしていると言った。

 現代では性の多様性は認めようという動きになっていて、誰が誰を好きになったとしても受け入れようという動きが一般的だ。ひよこもきっと、そんな考え方をしている。

 けれど、一人の人間が同時に二人の人間を好きになるのは現代の基準と照らし合わせてどうなのだろうか。少なくとも、その当事者から不誠実だと言われれば言い返せないように思う。

「けれど、二人は同一人物でした。私が好きになった人は見た目も性別も全く異なる物でしたけれど、間違いなく同じ人物だったのです」

 それが、公園で俺を見つけたときの話だろう。

「ジキルに恋をして、ハイドを愛していたわけです。それは、なんて素敵なことでしょうか」

 俺の場合は一つの人格に二つの体。多重人格ではなく、多重人体なのだけれど。

「ですから、更衣室の時の事はわざとだったのです。申し訳ありません」

「更衣室の事って、詩亜に見られた時の事?」

「詩亜さんに嫉妬してしまってあんなことをしてしまいました。詩亜さんがあの時刻、あの付近を通ることは知っていたのです」

 わざと詩亜を勘違いさせるような言動。今思えば、あの時のひよこはらしく無かった。

「ですが、それほどまでにあなた達の事が好きなんです」

 更にひよこは距離を詰めようとしてくる。もう逃げる場所は何処にも無いのに。

 こんな時、今までなら姦しい三人組の乱入でうやむやになっていたけれど今日は誰の邪魔も入らない場所を選んでしまっている。

「ちょ、ちょっと距離が近くないか」

「あなたは私の事が嫌いですか?」

 ひよこは両手を胸の前で組んで少しだけ上目遣いに聞いてくる。

 なんだよ、その動作。あざとくてずるい。

 じりじりと後退して、ベンチの上に乗っている尻が半分だけになった時、リリリリリとポケットに入れているスマホが震えた。

「えっと、取らなきゃいけないから」

 数秒見つめ合った後、ひよこは、はぁと小さくため息を吐いて俺から離れる。

「あなたは詩亜さんの事が好きですものね。これからも姉妹として、よろしくお願いしますわ」

 ひよこは少しだけ笑みを作って屋上から出て行った。

 スマホを見るとコールはもう終わっていて、代わりにメールの通知が届いていた。日詰さんだ。

『伝えてなかったが、キミの正体がバレないようキミの学内での様子は監視させてもらうことになった』

 見上げてみると、青い空にピカピカと光る星のような物が見える。あれが六原の衛星だろうか。

 その衛星を目で追いながら日詰さんに電話を掛ける。

「雀宮君を追いかけなくていいのかい? 今なら玉の輿だ」

 挨拶も無しに、そんな第一声が飛んできた。

「最近の衛星は会話内容まで聞き取れるんですか?」

 驚きだ。もうそんなところまで科学技術は進んでいたのか。そう思ったが、違った。給水塔の陰から日詰さんが出てくる。

「盗み聞きしていたんですか」

「人の悪いことを言うなよ。監視していただけだ」

 日詰さんは俺の隣に座る。勿論、ひよこのように距離は近くない。

「因みにキミが見ていたものは六原の衛星ではない。うちの衛星は今頃オーストラリアの上を飛んでいる」

「視線まで追わないでください」

 思考を覗かれたみたいでむず痒い。

「ところで、本当に追わなくて良かったのか?」

「追いかけてどうするんです」

「俺も好きだったんだ。か、ひよこの話を聞いて俺も自分の思いに気付けたよ。……大体この辺じゃないか?」

「どっちも同じ結果になる選択肢じゃないですか」

 ひよこと共に生きていく結果になる。

「嫌なのか? 雀宮君には兄がいるから財閥をそのままってことにはならないだろうが、玉の輿ではあるだろう。ただのニートから一転して大金持ちだ」

「ニートじゃないです。そんなことしたら詩亜を守れなくなります。仕事に支障が出ますよ」

「仕事熱心なんだな。それとも、一人っ子のお嬢様狙いなのか」

 よっと掛け声と共に日詰さんはベンチから立ち上がる。

「成金と言われていたのは知らなかった。六原の急成長を考えると当然なのだがな。私の方でそれが原因だったのか調べておこう」

「お願いします。俺の方でも詩亜にそれとなく聞いてみます」

「雀宮君よりもお嬢様を選んでくれて感謝する。本当だよ。本当に玉の輿だってありえたのだから」

 屋上から立ち去る直前、扉が閉まるかどうかのぎりぎりで日詰さんはそう言い残した。

「今度は絶対に詩亜を守る。そう決めたんだ」

 また空を見上げたけれど、ちかちかと光る人工衛星は見つからなかった。だからきっと、俺の独り言は誰にも聞かれていない。

『なんか急に先輩から謝られたんだけど、灯夜君はなんでだと思う?』

『さぁ、わからないけれどその先輩はきっと面倒見が良くて後輩からも頼られる出来た人だから詩亜も何かあれば頼るといいよ』

『うん……? ところで、成金って悪口なの? 私、全然知らなかった』

 詩亜は成金を悪口だと捉えてなかった?

 なら、詩亜の不登校の原因は一体……?

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