第二話

 いくら体が女性の物になったとしても、男の俺が女学校で過ごすのは難しく、様々な問題に直面した。これらはほんの一例だ。

「……灯璃さん?」

 毎夜、SNSで印象を確認していた成果か、灯璃(おれ)と詩亜はお互い下の名前で呼び合うくらいには仲良くなれた。

 詩亜は俺以外にあまり関わろうとしない。SNSで伝えてくる詩亜の姿とは全く違うけれど、灯璃さん灯璃さんと俺の後ろを付いて回ってくるのは昔を思い出して懐かしい。

「お手洗いをじっと見て、どうしたんですか?」

「ああ、いや。……男子トイレ無いんだなぁって思って」

 あらゆるスタッフも顧客も女性で構成されるこの学院に男性用の設備なんてものは存在しない。

「ええ。驚きますよね。私も最初にこの学園に来たときはちょっと戸惑いました」

 高校編入組にということになっているはずだけれど、詩亜はそんなことを隠そうともしない口ぶりだ。

「この学院内のどこにも男性用のお手洗い無いのですか? 来客用のとか」

「はい。男性はこの学院に入れないようになっていますから。使う人がいませんから、必要無いと聞いています」

「徹底してるなぁ……」

 この学院を建設するときからそう決めていたのだろう。どんな男もこの学院内に決して入れないと。

 この学園を作った奴は厳格な教師か、百合好きの人なんだろうな。

「それで、お手洗いに行きたいんですか?」

「いえ――全く。さ、早く行きましょう。次の授業が始まってしまいますわ」

「そういえば、灯璃さんって全くお手洗いに行かないですよね」

「詩亜さんは知っていましたか? アイドルはお手洗いに行かないのです」


「何がアイドルはトイレに行かないだ! キミは一体、何時からアイドルになったんだ?」

 女性の体になったとしても、生理現象は止められない。当然、尿意だって催す。

「学園内でトイレに行ったことが無いって、キミは小学生か? トイレに行ったら虐められるのか? やーい、うんこまんって!」

 昼休みの部活棟のお手洗い。この時間のこの場所はほとんど生徒が寄り付かない。

「トイレに行けないってのはギリギリ、五億歩譲って理解しよう。でも、なぜ、ボクを呼び出して同じ個室に入る必要があるんだ。どんな連れションだ!」

 その個室で俺が便座に座って、その正面に日詰さんが立っていた。

「だって、女子トイレですよ? 俺が入れるわけないでしょう!」

「今現に入ってるだろう!」

 こんなことになっている理由は、俺が日詰さんに泣きついたからだ。

 ……女子トイレに入れないって。

「そもそもどうして女子トイレに入れないんだ。キミは今、女性の体なんだぞ。誰からも非難されることは無い」

「だって、隣で他の女の子がしているんですよ。音だって聞こえますし!」

「うわ、何だその思考回路。気持ち悪いな……」

「便座だって、直前まで女の子が座っていたんですよ。その女の子の体温を尻で間接的に感じることになるんです」

「それは男子便所だって同じことだろう」

「しかも、ゴミ箱の中には使用済みナプキンが入っていたりするんですよ……?」

「わかった。わかったからお願いだ。その気持ち悪い発言を辞めてくれ。ボクの耳をこれ以上汚さないでくれ」

 日詰さんは両手で耳を抑えて狭い個室の中でほんの少しだけ俺から距離を取る。

「それで? ボクをわざわざ呼び出した理由を聞かせて貰おうか。別に、済ますだけならここで出来る。他に生徒はいないんだからな。何か理由があるんだろう?」

「……なんです」

「ん? 聞こえなかった。もう一度言ってくれ」

「拭けないんですよっ」

「あ?」

「拭けないんですよっ! だって俺、男なんですよ!? 拭けるわけがないでしょう……」

「なら、なんだ。キミは用を足した後の後始末をボクにさせるつもりで呼び出したということか……?」

「お願いします。日詰先生! 可愛い生徒の頼みですから、聞いてくれますよねっ」

「するわけが無いだろう! キミみたいに教員を雑用係だと思っている輩がいるからいつまでたってもブラックなんだ!」

「じゃあ俺はどうしろって言うんです!」

「知るか! いくら女性の体とはいえ、自分の体だろう。何を気にしてるんだ!」

「いくら自分の体とはいえ、男性が女性の体、しかもそんなところに触るのは問題でしょう」

「自分の体だろう!? ああ、もう訳が分からなくなって混乱してきたぁ……」

 日詰さんは両手で頭を抱える。

「尿検査の時は普通に拭いていただろ」

「あの時とは状況が違うでしょう。俺はしっかりと自分が女になっている事を自覚したんです」

「だったら何なんだよ……。面倒だ。もう漏らしてしまえ!」

「そんなことしたら詩亜を守れなくなりますよ! それに今、俺はクラス内でちょっと近寄りがたいけど話してみれば意外と気さくな美人キャラで通してるんです。漏らしたら美人なのに色々残念なキャラになっちゃいます。近寄りがたいの意味、変わっちゃいますよ!」

「知るか! 別に漏らしたところで仕事に支障はないだろう!」

「だからありまくりだって言ってんだろうが! それにこれからずっと催す度に漏らせって言うんですか!?」

「キミはこれから催す度、ボクに後始末させるつもりだったのか……!?」

 狭い個室の中で、俺と日詰さんは騒ぎ合う。

「わ、わかった。ならこれからボクが保健室までひとっ走りしてきておむつを貰ってこよう。それなら文句は無いだろう。これから先、キミはおむつを履いて行動すればいい」

「なっ、おむつを履いているところを見られたらどうするんですか。美人キャラから、おむつを履いてるおもしれー女に早変わりですよ!」

「生理だって言っておけ」

「一年中生理の女がどこにいますか! ――あっ、やばっ、もう限界、出ちゃう……」

 俺は急いでパンツを足元まで下ろす。

「お、おい。まさか私の目の前でするつもりじゃないだろうな……。おい、聞いているのか!」

………

……

「よし、じゃあ拭いてください」

「今回だけだからな! 次からはちゃんと自分でするんだぞ!」

 日詰さんは重ねたトイレットペーパーを俺の股に近づける。

「――んんっ、あっ、やっ」

「変な声を出すんじゃない!」

「なら刺激しないでくださいよ!」

「無茶言うな。他人の股なんて初めて拭くんだ。我慢しろ」

「わかりましたよ。――んんっ、はっ、あっ」

「だから我慢しろと言ってるだろうが!」


「はぁ、疲れた……」

「それはボクのセリフだ。――ん?」

 個室の中から日詰さんと二人で出ると、三人の女子生徒と目が合った。三人とも目を大きく見開いて、口に手を当てている。

「日詰さん。ほとんど生徒は来ないんじゃなかったんですか」

「来ないとは言っていない」

 三人の女子生徒の顔をよく見ると同じクラスの女子だった。それなりに話しかけてきてくれる生徒で、仲は良いほうだと思っている。

「個室の中から色っぽい声が聞こえてくると思ったら、中から灯璃さんと日詰先生が出てきましたわ!」

「灯璃さんって詩亜さんを狙っていたのではありませんの。まさか二股、二股ですの!?」

「生徒と教師、一回りはある年齢差、年増ロリと長身の麗人。きゃっ、禁断の関係がてんこ盛りですわー!」

 三人の女生徒は俺たちが止める前に姦しく騒ぎながらどこかへ走り去ってしまった。

「……日詰先生。どうするんです」

「こういうときだけ先生呼びするんじゃあないよ」

『灯璃さんと日詰先生が只ならぬ関係みたいなの。どうしよう灯夜君!』

『大丈夫。それは勘違いだ。勘違いだから。気にしなくていいからな!』


 女性としてトリシュ女学院に通っている事は当然家族にも秘密だ。家族にはおじさんのコネで関連企業に就職したと説明してある。

 そんな俺が家の中で女体化して通学することは出来ない。俺は一度スーツで家を出た後女性になり制服に着替え、学院最寄り駅の少し手前から電車に乗っている。

 通勤ラッシュ時の電車は本当に混雑している。この時はお嬢様学校の制服を着ていようがいまいが関係ない。すし詰め状態の電車に押し込まれる。

 見渡してみるとちらほらと俺と同じ制服を着ている生徒の姿が見受けられる。お嬢様学校なのだから、送迎バスくらい出してくれてもよさそうなものだけれど。

「……月夜?」

 同じ制服を着ている生徒の中によく見慣れたポニーテールの生徒を見つけた。同じ家から出発して同じ場所に向かっているんだ。同じ電車の同じ車両に乗り合わせたとしても不思議じゃない。

 別に見つかってしまっても何も問題は無いけど、一応接触しないほうがいいだろう。次の停車駅で車両を変えようか。そんなことを考えながら月夜の様子を確認していると、なんだか様子がおかしい。

 月夜は扉の方に向かって斜め下を向きながら、吊革に捕まって小刻みに震えている。他の乗客は誰も月夜の様子には気が付いていないようだ。月夜の状態を確認するために俺は少しそちら側に拠る。

 ――はっ、痴漢!?

 月夜の背後に立つ三人組の男がそれぞれ月夜の腰、尻、ふとももを撫でまわしている。それぞれの体でそれぞれの行為を上手く隠している。しっかりと注目しなければ全く気が付かない。巧妙な手口だ。

 どうする。多分俺しか気が付いていない。助ければ灯璃として月夜と接触してしまう。痴漢から助けることくらいはたいしたことじゃないと思うけれど……

「あの。それは一体何をしているんですか?」

 悩んだ末、助けることにした。

 俺は今瀬峰灯璃だけれど、その前に瀬峰灯夜でもある。兄として、妹が痴漢されているのを助けないわけにはいかない。妹も助けられないような人間が、幼馴染の女の子を助けられるわけがないのだから。


「今朝はありがとうございましたっ!」

 その日の昼休み、妹は直角九十度の綺麗なお辞儀を見せていた。

「いえ。当然のことです。気にしないでください」

 月夜を痴漢から助けた後、お礼をしたいから昼休みに中庭に来てくれと言われ、待っているといきなりこれだ。昼休みの中庭は意外と人が居て、さっきからちょくちょく視線が気になるからやめて欲しい。

「三人組の痴漢がいるなんて初めて知りました。最近の痴漢は徒党を組むのですね」

「はい。一人だけだとよくあることですので対処できたのですけれど。三人は初めてで……」

 月夜は自分の体を抱いてぶるりと身を震わせる。余程怖かったのだろう。

 これは後で聞いたことだが、トリシュ女学院の生徒は痴漢の被害をよく受けるらしい。女だけの花園に通うというステータスが、そういった下種な男たちの琴線に触れるのだろうか。

 日詰さんに送迎バスを提案したら「いい案だな。私もいつ痴漢の被害にあうのか気が気でなかったところだ。早速六原の方で学院に圧力を掛けよう」とのことだったので早急に送迎バスが整備されるはずだ。

「あの……、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか……?」

 月夜は少し上目遣いになって聞いてくる。普段の兄には見せない可愛らしい姿だ。

「高等部一年生の瀬峰灯璃です」

 とぼけても良かったけれど、後々面倒なことになっても困る。驚かれることを承知で瀬峰姓を名乗った。

「えっ、瀬峰? 奇遇です。月夜も瀬峰って言うんです!」

 こいつ、学校では自分の事を月夜って名前で呼んでいるのか? 随分あざといんだな。家では私の癖に。

「瀬峰は地名姓ですから、もしかしたらルーツが同じかも知れませんね」

 ルーツどころか両親が同じだ。

「本当ですか、お姉様とルーツが同じなんて、考えるだけで最高です!」

「お姉様?」

 もしかして、正体がバレてる!? お前が兄だなんてことは知ってるんだぞという威圧か。

「あっ、えっと、その……助けていただいたときに凄くカッコいいなって思いまして。お姉様って呼ばせて貰ってもいいですか?」

 顔を真っ赤に紅潮させて、口元に手を当てている。なんだ、そのあざと可愛い仕草は。家では下着姿で寝転がってるくせに。

「どうしても他人だとは思えなくて……ダメですか?」

 そりゃ、兄妹だからな。他人じゃない。

「いいですよ。私は一人っ子ですから、可愛い妹が出来たと思うと嬉しいです」

 特に断る理由も無い。家では兄だなんて決して呼んでくれないからこうして姉気分を味わうのは悪くないように思う。

「やった! ありがとうございます。お姉様っ」

 満面の笑みで月夜は俺に抱き着く。兄の時は一度だってされたことが無い。

「不躾だとは思うのですけれど、もう一つだけお願いしてもいいですか?」

「ええ。構いませんよ」

 家でいるときはまともに相手にされないから何だってしてあげようって気になる。妹に頼りにされるってこんなに心地良いことだったのか……

「お姉様の手を貸していただきたいんです」

「手を? それくらいは構いませんよ」

 何か人手が必要な事の手伝いだろうか。力仕事とか? 女性しかいないこの学院では力仕事は大変だ。

「では遠慮なく」

 月夜は俺の右手首を掴む。

「あれ、何を……」

「はい。手を借りてます」

 えっ、それって言葉通りの意味だったの……?

 月夜はそのまま掴んだ俺の右手を自身の臀部にくっつける。分厚いスカートの布越しに月夜の柔らかな感触が伝わる。

「ちょ、ちょっと。瀬峰さん?」

「月夜って呼んでください。本当の姉妹みたいに気安く呼んで欲しいです」

 今それそんなに大切!?

「月夜さん。何をしているんですか」

「上書きです」

「上書き?」

「はい。朝男たちに触られた気持ち悪い感触をお姉様の手で上書きしています」

 今度は俺の左手を自身の腰付近にくっつけた。薄いブラウスの布越しに月夜の柔らかな感触が伝わる。

「ね、お姉様。手を動かしてください。今朝の男たちみたいに。纏わりつくようにねちっこく。まさぐるようにいやらしく」

「いや、それは……」

「今朝の男たちの気持ち悪い感覚がまだ残ってるんです。このままだと一生残ってしまいます。だからお姉様の感覚で上書きしてください。一生忘れないお姉様の感触を教えて……」

 月夜は耳元で囁いて俺の右手を自身の太ももに動かそうとする。

 それはダメだろ!? 誰か助けて!

「……何をやってるんだ。キミたちは」

 俺の祈りが届いたのか、日詰さんが偶然通りかかってくれた。

 昼休みの中庭は人が多く、それらの視線は全て俺と月夜で二人占めしていた。

 その視線の中に、見覚えのある女子生徒の姿を三人確認することが出来た。同じクラスの女子だ。日詰さんとトイレでいた所を見られて以降、少しよそよそしくなっている。

「今度は灯璃さん。下級生の子に手を出していますわ!」

「年増ロリの次は後輩の子。灯璃さんはロリコンでしたの!?」

「詩亜さんに日詰先生に後輩の子!? 灯璃さんは一体何股すればいいんですの、足が何本ありますの、蛸足ですわー!?」

 三人の生徒は脱兎の如く走り去ってしまった。

「ちっ。もうちょっとだったのに……」

 月夜は小さく呟く。

 何がもうちょっとなんだよ。怖えよ……

『灯夜君どうしよう! 灯璃さんがロリコンだったの。私はなんて声を掛けたらいいかな』

『誤解だ。誤解だから詩亜は何も気にしなくていいし、何も声を掛けなくていいからな!』


 英国数理社。高等教育で学ぶ科目は幅広く、それぞれ人によって得意不得意、好き嫌いが分かれる。

 しかし、一般的に大多数の生徒が好きな科目がある。そう、体育だ。何時の時代も、どこの学校でも非常に人気の高い科目だと思う。

 例にも漏れず俺も好きで。体育の授業がその日の楽しみだという日すらあった。

 けれど、体育の授業を目前にした今の俺は逃げ出したかった。さっさと帰ってしまいたかった。

「灯璃さん? 着替えないんですか?」

 トリシュ女学院の更衣室。女性の花園の中、最高級のトップシークレット。

 素敵な王子様が、お姫様を助けるためだったとしても決して立ち入ることが出来ない禁じられた聖域。

 そんな場所に俺は立っていた。

「もしかして、着替えを忘れちゃいました?」

「いえ、そういうわけではないのですけれど……」

 薄目を開けて、ちらりと既に着替え終わった詩亜の姿を見る。

 肌は輝くように白い。三年間引きこもっていたからだろうか。けれど体がだらしないなんて事は無く、しっかりと引き締まっている。記憶の中の幼かった時の詩亜とは違って、胸も尻も女性らしい丸みを帯びていて離れていた六年間を嫌にも意識させられてしまう。

 ……女性らしい体になっているのは詩亜だけじゃなくて俺もなんだけど。

「では、どうしてさっきから目を瞑っているのですか?」

「私はまだ目を開けることを許されてないからです」

 他の生徒が着替え終え、更衣室を出ていくまで俺は誰の姿を見る事は出来ない。勿論既に着替え終わっている詩亜は別だ。

「えっと……?」

「ところで詩亜さんは着替えるの早かったですね」

「はい。私、この授業が楽しみで、制服の下に水着を着て来たんです!」

 そう水着だ。詩亜は水着を着ている。

 流石お嬢様が通う学校といったところか。トリシュ女学院にはありとあらゆる設備が整っており、その中には温水プールも含まれる。一年中水泳の授業があるということだ。

 周りを見渡せばきっと少女たちのあられもない姿が見られることだろう。だから男の俺は決して目を開けることは出来ない。俺が男だってバレたらとんでもないことになるだろうな……

「灯璃さんとの一緒の授業になれたのが嬉しくて、居ても立っても居られなくなったんです」

 嬉しいことを言ってくれる。でも俺は詩亜と同じ授業じゃないほうが良かったかな。

 この学校の体育は幾つかの競技から選択することになっている。俺が水泳の授業を選ばなければこんな事にはなっていないのだけれど、詩亜が水泳を選んでしまった。詩亜を守る立場の俺としては、詩亜と同じ授業を選ばないわけにはいかない。

「詩亜さんはどうして水泳を選んだのですか?」

 他の生徒が更衣室から出ていくまで詩亜と話をして時間を潰すことにする。

 確か詩亜は全然泳げなかったはずだ。一度だけ一緒にプールに遊びに行った事があったけれど、詩亜はプールサイドで泳いでいる人を見るだけだった。詩亜を一人にするわけにもいかないから俺も隣で一緒に座っていた。今思えば何をしにプールに行っていたのだろう。

 それでも一緒に居られるだけで俺は楽しかったけど、泳げない詩亜には悪いことをした。

「泳ぎたくなりたくて。灯夜君には悪いことしちゃったから……」

「灯夜君?」

 詩亜の口から俺の名前が出てきてドキッとする。俺に悪いことをしたってどういうことだよ。

「あっ、灯夜君ってのは幼馴染の男の子の事なんですけど」

「詩亜さんにはその灯夜君っていう仲が良かった男の子がいたってことですね」

「仲が良いっ……勿論私は仲が良いと思っていますし、灯夜君もそう思ってくれていたら嬉しいんですけれど……」

 詩亜は顔を赤くして両手と首を勢いよく振る。なんでこれくらいで照れるような反応をするんだよ。俺も照れてきちゃうだろ……

「昔、灯夜君と一度だけプールに行ったことがあったんです。でも私は泳げないからブールサイドで座っている事しかできなくて」

 詩亜は全然泳げなくて、羨ましそうに泳いでいる人たちを見ていた。ただ見ているだけってのは辛かっただろうな。泳ぎたいって思うようになっても不思議じゃない。

「私はそれに灯夜君も付き合せちゃったんです。灯夜君は泳げるのに、泳げない私に合わさせてしまったんです。プールに来てるんだから、灯夜君だって泳ぎたかったはずなのに」

「詩亜さん……」

 あの時、詩亜はそんな事を考えていたのか。どう考えても悪いのは泳げない詩亜をプールに連れて行った俺の方なのに。俺に悪いことをしたなんて考えてくれていたのか。

「ですから、私は泳げるようになりたいんです。もしまた灯夜君と遊びに行くような事があれば一緒に泳げるようにって。灯璃さん。もしよろしければ、私が泳げるように手伝っていただけませんか?」

「勿論です! いつか絶対に泳ぎに行きましょうね」

 俺は詩亜の両手を取って元気よく返事をする。詩亜は少し驚いた表情をしたが、すぐににこりと微笑んだ。

 ああ、まさか詩亜がそんな事を思ってくれていたなんて。絶対に泳げるようにしよう。そして夏休みに海に誘ってみようか。

「……あっ、チャイム」

 キンコンカンとお馴染みの始業を告げるベルが鳴る。見渡せば他の生徒は誰もいなくなっていた。詩亜との会話に夢中で気が付かなかった。俺はまだ着替えていない。

「急ぎましょう。早く行かないと怒られてしまいます」

 その後二人で仲良く遅れた俺たちは担当の教員に少し小言を言われてしまった。詩亜を守る立場の俺が遅刻させてしまってどうすんだよ。


「――はあっ……はあっ」

 体育は基本的に好まれる科目だけれど、やっぱり嫌いな人もいると思う。その理由の内の一つは二人組を作らされることだろう。三人組の仲いいグループなんかは強制的に分裂させられ、知らない人と組まされる。仲が良い人が居なければその苦痛は一層増すだろう。

「あっ、痛いっ」

「でも、気持ちいでしょう? ほら、こことかこんなにほぐれてきて」

 仲良く遅刻した俺たちはそのまま二人組を組むことになった。俺と詩亜はどちらにせよこの組み合わせで組んでいたと思うけれど。

 日詰さんや月夜との恥ずかしい姿を目撃したいつもの姦しい三人組は、一人教員と組まされている。

「わ、私は灯璃さんのように蛸足じゃないからそれ以上曲がりませんわ!」

 俺たちはプールに入る前の準備運動として二人組になってストレッチをやっている。足を大きく開いてぺたりと座り、パートナーが背中を押すペアストレッチだ。

「灯璃さん……私、もうっ」

「その……詩亜さん。どうして色っぽい声を出すんですか?」

 俺が背中を押す度、詩亜は吐息交じりの憂いを帯びた吐息を口の隙間から漏らす。因みに背中は全然曲がっていない。体はかなり固いようだ。

「だって漏れてしまうんです」

 詩亜は不満そうに少しだけ頬を膨らませる。

 薄い水着越しに詩亜の体を障る度色っぽい声を聞かされる俺の方の身にもなってほしい。そのせいでさっきからずっと悶々としてしまっている。

「よし。じゃあ次はペアで交代して!」

 やっと終わってくれるようだ。良かった。あのまま続けていたら俺の方がどうにかなってしまっていたと思う。

「よし。じゃあ次は私が灯璃さんの背中を押しますよ! えいっ――えっ!?」

「実は私、体柔らかいんです」

 詩亜が背中を押す前に俺は背中を曲げてぺたりと胸と床をくっつける。

 男の体の時はこうもいかない。女体化した影響だろうと日詰さんは言っていた。

「蛸の体みたいです」

「ごめん、詩亜さん。他の何にでも例えて貰ってもいいけど、蛸だけはやめて貰っていい?」

 なんだか揶揄されている気分になってくる。勿論、詩亜に責められるような事は何もやってないんだけど。


「灯璃さん。ありがとうございます。灯璃さんのおかげで少し泳げるようになった気がします」

「って言っても、バタ足だけですけれどね。この調子で行けば夏までには遊びに行ける程度泳げるようになると思います」

 水泳の授業はほとんど自由時間だった。教員が監視員のように椅子に座っている間、自由にプールで遊べと言ったものだ。生徒達は勿論、教員もそちらの方が楽でいいのだろう。高校生にもなって小学生のように泳ぎ方の練習をするのもおかしな話だし。

 実際、俺達もそちらの方が助かって、授業時間中はずっとつきっきりで詩亜に教えることが出来た。その甲斐あって、詩亜は伸びとバタ足くらいなら出来るようになった。全く泳げなかったことを考えると、たった一時間で目まぐるしい成長だ。

「灯璃さんともいつか海やプールに遊びに行きたいです」

「それは楽しみですけれど、私なんかよりもその灯夜さんを誘ったほうがいいんじゃないですか?」

『灯夜君。今日は灯璃さんに泳ぎを教えて貰ったんだ。だからね、夏に泳ぎに行かない? お父さんは説得するから!』

『それは楽しみだ。俺も休みを貰えるよう、おじさんにお願いしとく』

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