第一話

『今日は平泉さんと映画を見に行ってくる!』

『また平泉さん? 本当に仲がいいな』

『うん。平泉さんは私の一番の親友なの!』

 それは、俺が大学受験に失敗して部屋で燻っている時の話だった。

「おい、くそニート! 客が来てる!」

「お兄ちゃんの事ニートって呼ばないで! 三月が終わるまでは現役生なんだからな!」

 その時の俺は、志望校どころか滑り止めの私立にすら落ち、浪人か就職かの二択を突き付けられていた時だった。

 浪人は親に迷惑をかける上、滑り止めにすら落ちた俺が次は上手くいく保証はどこにも無い。

 かといって就職も、何の準備もしてこなかった今更就職活動をするのか。キャンパスライフを諦めることが出来るのか。

 そんな二者択一に迫られた結果、現実逃避の為に部屋に籠り、ほとんど引きこもりのような生活を過ごしていた。

「高校の卒業式はとっくに終わったよね。さっさと現実を見たら? 自分がニートになったって」

「法律の上ではまだ高校生だ。四月になるまでエロゲとかも買えないから」

「うわ、キモ……。妹に向かってエロゲとか言うなよ……」

 勝手に人の部屋に入っておきながら眉を顰めているこいつの名前は瀬峰月夜(せみねつきよ)。来年度から中等部三年の俺の妹だ。

「そんなことしてるから受験に失敗するんだよ。自覚したら?」

 ポニーテールの形に縛った明るい茶髪を左右に揺らしながら、月夜は部屋にずがずがと入り込み、ベッドの上に腰を下ろす。勝手に入っておきながら居座るつもりなのか?

「エロゲなんてしてねぇよ」

 そもそも買えないという話をしたばかりだ。

「ずっとパソコンの前に座ってるよね。なら何してるの。えっちな動画でも見てるわけ?」

「お前は兄をどうしてもそういうキャラにしたいのか……?」

「なら何してたの」

 月夜はベッドに寝転がり、本棚を物色している。本格的に居座るつもりのようだ。

「……SNSだよ。向こうも春休みに入ったから、すぐに返信がくるんだ」

 月夜は俺の方を見て、眉を歪めながら睨む。釣り目の気の強そうな目で睨まれると、少し怖い。

「何それ。まだしーちゃんと連絡取ってたんだ」

 しーちゃん。月夜がそう呼ぶのは六原詩亜の事だ。

「ずっと連絡を取ってるよ。お前は何時でも学校で会えるだろうけど」

 月夜も詩亜と同じトリシュ女学院に通っている。勿論学費は馬鹿にならない。親父とおふくろが頑張って働いているおかげだ。

 ……だから、俺が浪人なんてしている余裕は無いのだけれど。勿論、ニートを養う余裕も。

「別に、しーちゃんとは会ってないけど」

 月夜は本棚から取り出した漫画をそのままにして、部屋を出ようとする。

「何しに来たんだよ……」

「だから、お客さんが来てる」

 そういえばそうだった。月夜との会話ですっかり忘れていた。

「お客さんって誰?」

 こんな時期に俺を訪ねてくるやつなんていない。

 受験に失敗した俺をわざわざ訪ねてくるような友人もいない。皆、したくも無いだろう。同級生の間では腫物だと思われているに違いない。

「六原のおじさん」

「六原のおじさん?」

 俺達兄妹がそう呼ぶ人は一人しかいない。

「うん。だからしーちゃんのお父さん」


 俺と詩亜はもう六年ほど会っていない。俺の中学進学と同時に、彼女の父親によって引き離されてしまった。

 と、言っても別に彼女の父親が漫画に出てくる悪役のような人間かと問われればそんなことはない。何度か顔を合わせたことはあるが、いつも柔和な笑みを浮かべている人が良さそうな人物だ。

 決して、普通の人では無いのだけれど。

 六原茂樹(ろくはらしげき)。六原財閥をたった一代で作り上げた傑物。この日本で最も世界に与える影響が強いと言われる人物。それが彼女の父親で、単純に俺が中学に上がるくらいの時期に、彼の会社が大成功を収めただけに過ぎない。

 俺と彼女では、最初から住む世界が違っただけの話だ。


 大きな部屋の真ん中に木目の机があり、その机を二つのソファーが挟んでいる。

 その向こう側にはシックな机と、座り心地が良さそうな椅子。都内を一望することが出来る窓がある。

 絵に書いたような社長室だ。それも当然、今俺がいる場所は六原茂樹の仕事部屋なのだから。

「やぁ、久しぶりだね。灯夜君。随分大きくなったね。父親に少し似て来たかな?」

 白髪交じりの黒髪をオールバックに纏めた彼は、久しぶりにあった親戚に声を掛けるような気さくさでそう言った。

「……ご無沙汰してます」

 妹との会話の後、玄関で待っていたのはおじさんの秘書を名乗る男性だった。その秘書に連れられて、俺はここにやってきた。忙しい彼が直接出向いてくるわけがない。今もパソコンに向かって何か打ち込んでいる。

「ごめんね。本来なら僕の方からそちらにお伺いするべきなのに」

 日本を代表する財閥の長だというのにも関わらず、彼は低姿勢な口調で俺に頭を下げる。勿論、手は動かしたままだが。

 こういった姿勢は昔から変わらない。彼の座右の銘は、実るほど頭を垂れる稲穂かな、だったか。カタカナのトの字に一の引きようで、だったかもしれない。どちらもほとんど同じような意味だ。

「いえ。おじさんの噂は色々と聞いていますよ。日本で一番忙しいと言われる人に来てもらうだなんてできません」

「ははは、色々な噂ね。良い噂だと良いんだけれど」

 彼はバツが悪そうに頭を掻く。

 一代で財閥を築き上げた彼には良い噂、悪い噂は勿論の事、果ては都市伝説のような話までまことしやかに囁かれている。六原茂樹で検索すればその全てを纏めているアフィリエイトサイトが簡単に、大量にヒットするだろう。

「ところで、急に俺を呼び出すなんてどうしたんですか?」

 その噂が真実かどうかは定かではないが、少なくとも彼が俺には想像がつかないほど忙しいのは確かなはず。そんな彼が俺を呼び出す理由が全く分からない。

 まさか、久しぶりに昔の知人と雑談したかったからなわけでは無いだろう。そうだとしても、俺を選ぶ理由が分からない。

 もしかして、娘とSNSでやり取りをしている事か? 娘と連絡を取るな! みたいな。

 でもそんなのは五年前からずっとしている事で、今更過ぎる。やり取りの内容も普通の友人同士の会話だし、そもそも彼はそんな行為にいちいち目くじらを立てるような人では無い。

「うん。切り出しにくいことなんだけど……、灯夜君、受験に失敗したんだって?」

「うぐっ!」

 いきなり特大の精神ダメージを与えられた!

 っていうか、なんで俺が受験に失敗したことを知っているんだ! 教師と、親しい友人数人にしか話をしていない。詩亜にだって伝えていないのに!

 いや――この人が知ろうと思えば、世界のどんな秘密にだってアクセスできる。このくらいの事を知るなんて簡単だ。

 ただし、知ろうと思えば、だが。

「どうしてそれを……」

 つまり、彼は俺の事を気に掛けていたということか?

「ああ。ごめんね。僕は今こんな立場だから昔の知人も定期的に興信所に頼んで調べて貰ったりしているんだ」

「有名税ってやつですか。大変ですね」

 今のご時世、どんなことがスキャンダルに繋がるかもわからない。

 例えば、俺が犯罪者になったとして、SNSでよく連絡を取っている詩亜、その父親の茂樹さんまで責任を追及されてしまう可能性は無いとは言えない。

 ありえない話だと思うけれど、彼は実際にそんな世界にいるのだろう。

「気を悪くしたならごめんね」

「必要な事でしょう。構いませんよ」

「はは、物分かりが良くて助かるよ」

「それで、俺は受験に失敗しましたけれど、それが何か……?」

 俺は受験に失敗したけれど、それが彼のスキャンダルに繋がるわけがない。俺を呼び出した理由に直接関係するとは思えないけれど。

「うん。それで灯夜君はこれからどうするか決まってる? 浪人か就職活動かだと思うんだけど。就職先がもう決まってる、だなんてことは無いよね」

「いえ。そもそも浪人か就職かすら悩んでいる段階です……」

 俺は今何を言わされているんだ?

 久しぶりにあった幼馴染の父親に、受験に失敗したことと、その先も決まっていないことを告白している。どんな状況なんだよ……

「うん。それは丁度良かった!」

 おじさんはぱんっと手を合わせ、破顔する。

 なんだ。俺が受験に失敗し、先行きが未定なことがそんなに面白いのか?

 俺のそんな内心が彼に伝わったのだろう。おじさんはすぐに申し訳なさそうな顔を作る。

「ああ、ごめん。灯夜君が受験に失敗したことが嬉しいとかそういうわけじゃないんだ」

「えっと、話が見えてこないのですけれど……」

「うん。灯夜君。うちで働く気はあるかい?」

 うちで? うちでということは……六原財閥関連企業のどこかで?

 勿論、それは悪い話ではないと思う。今を煌めく新進気鋭の財閥関連企業で働けるのだ。しかもそのトップのコネで。上手くいけばそれなりのポジションに着ける気もする。

 けれど、おじさんがどうしてわざわざそんなことを……? コネなんか嫌ってそうだし、そもそも俺は彼の親戚でも何でもない。ただの娘の友人だ。

「対外的には私の秘書と言うことにしておこう。基本的に土日祝は休みだし、給与も幹部級の物を約束する。将来的には重役のポストへの道もあるかもしれない。……どうする?」

「それは、願っても無い話ですけれど……」

 何が狙いだ? この人は一代で財閥を作り上げた傑物。社会科の教科書にだって載ってもおかしく無い人物だ。何か裏があるとしか思えない。

「うん、そうか! やってくれるか! いやぁ、ありがたい。キミにしか出来ない仕事なんだ」

「いや、別にまだやるとは……」

 業務内容も何も聞いていない。安請け合いは絶対に出来ないが、おじさんは既に俺が受けたつもりでいるようだ。

「では、キミたち。灯夜君を地下の研究室にまで連れて行ってあげなさい」

「へ?」

 いつの間にか俺の両脇には黒服の厳つい男たちが立っていた。

「私は忙しいからね。申し訳ないけれど、業務内容は研究室の彼女から聞いてくれないかい」

 黒服の男たちは俺の腕を掴み、社長室から引きずり出される。

「ちょっと、おじさん!? まだ受けるって言ってないんですけどぉおおおおお!」

「任せたよ。娘は、詩亜はキミにしか守れないのだから」


 地下の研究室と聞けば怪しそうな雰囲気があるが、理科室のような場所で、想像していたようなアンダーグラウンドな空気は無かった。

 無理やり連れてこられたものだから、何やら怪しげな実験をされるものとばかり思っていたけれど、少なくとも今すぐ肉体改造手術が行われるとか、そういうのは無さそうだ。

「キミたち、もう大丈夫だ。行っていいよ」

 俺を椅子に縛り上げた黒服たちは、白衣を着た少女に言われて研究室を出ていく。

「手荒な真似をして済まないね。キミに暴れられるとボクでは抵抗できないから仕方ないんだ。暫く我慢していてくれ」

 少女は明らかにサイズが合っていない、ぶかぶかの白衣を翻しながら俺の方に向き直る。

 雪のような白髪を綺麗に切りそろえられた姫カットと赤い目が特徴的な少女だ。

「ボクはここの主任研究員、日詰珠玖(ひずめしく)だ。とはいっても、ここにはボク以外の研究者はいないがね」

「……ロリ?」

「ロリではない! ボクはこれでも七年も昔に成人している!」

 その少女は、小学生のように小さな体躯を震わせて叫んだ。


「本当に二十七って書いてある……」

 その少女――日詰さんに免許証を見せてもらうと、年齢の所には確かに彼女が立派な成人女性だと記されていた。証明写真も確かに日詰さんの顔が写っている。

「ふん、これでわかったか」

「一応聞きますけれど、偽造では無いですよね」

「当たり前だ! 当然だろう。皆どうして公的な身分証明書である免許証まで疑うのだ」

「当然っちゃあ、当然なんですけれど」

 失礼を承知で日詰さんを上から下まで確認する。うん、甘めに見積もっても中学生までだろう。決して成人しているようには見えない。

「ここまで拉致された後ですから、何でも疑ってしまうんです」

 どんな状況であったとしても彼女の事を小学生だと判断しそうだが、そういうことにしておいた。

「む、確かに状況を考えれば仕方のないことではあるな。ボクの奥底から溢れる大人の妖艶な魅力に気付いていたが、あえて、確認したと」

 そこまでは言っていない。

「ええ、勿論です」

「なるほど。キミは用心深い性格なのか。それは良いことだな。偉いぞ」

 日詰さんの小さな手で、いい子いい子と頭を撫でられる。背伸びをして大人ぶっている女児にしか見えない。

「さて、さっそく説明に入りたいが、キミは社長からどこまで聞いている?」

「土日祝が休みで給料が多く出る事です」

「つまり、業務内容には全く触れていないということか」

 はぁ、と日詰さんは手を額に置いてため息を吐く。

「あの、俺はこれからどうなるんですか?」

「ふむ、そうだね……。端的に言えば、キミは今から女性になる」

「は?」

「そしてトリシュ女学院に入学してもらう」

「あ?」

「そしてお嬢様――六原詩亜を警護することがキミの仕事だ!」

「はぁ?」

 周りを見渡しても監視カメラのような物は見つからない。どっきりだとして、簡単には見つからないところに置かれてあるのだろう。

 普通の一般人である俺に、そんなことをする理由は皆目見当も付かないが。

「その顔は信じていないって顔だな。まぁいい。ボクの座右の銘は、百聞は一見に如かず。女にしてみればわかることだろう」

「研究者としてその座右の銘は良いんですか?」

 研究者は他人の論文を読んだり、他人に分かりやすい論文を書くものだと思っている。つまり、丁寧な説明が仕事じゃないのか。

「何、研究者なんてものは実験を無限に繰り返すものだ。あれこれ他人の話を聞くよりも、自分で確認した方が良い。さて、それでは臨床実験といこうか」

 日詰さんはポケットから取り出した薬入れから、赤色の錠剤を摘まむ。

「今臨床実験って言いました? ちゃんと鼠とか猿とか、他の人で実験しているんですよね!? ――んっ、んんんっぐっ!」

 日詰さんはその薬を俺の口に入れ、水の入ったペットボトルを即座に差し込む。

「ふはは、この稀代の天才科学者、日詰珠玖の実験体第一号になったことを光栄に思え! 大丈夫、論理と理論と想像は完璧だから!」

 最後、明らかに混ざっちゃダメなものが入ってるけど!?

 しかも、実験体第一号って、全然実験してないだろ。何が座右の銘が百聞は一見に如かずだ。理系はそんな簡単なことわざの意味も知らないのか!

「んんっ、体が、熱く――」

 熱湯を飲んだ時のように、腹の奥から熱を感じる。

 不快感は無いけれど、不思議な感覚だ。

「おっし、完璧だ! これで本部の研究室のやつらを見返すことが出来る!」

 目の前で日詰さんががっつポーズをしている。心做しか、その日詰さんが少し大きく見える。

 ……? いや、日詰さんが大きくなっているんじゃなくて、俺が小さくなってる?

「ふふふ、何が何だかわからないと言った様子だな。まぁそれも無理はない。一瞬で終わってしまったからな。は、ははは! 本当に成功してよかった。社長には成功率百パーセントと適当に言ってあったからな」

 日詰さんは研究所の奥から大きな姿見を持ってくる。日詰さんの言っている事には引っかかる部分もあるが、そんなことよりも、俺にとっては鏡に映る自分の姿の方が衝撃的だった。

「これが、俺……?」

 日詰さんに拘束を解いてもらい、その鏡を触る。

 鏡の向こうの女は、俺の手にぴったりと合わせてきた。

「ああ、そうだ。それがボクの作ったtranssexual medicine――性転換薬によって変わったキミの姿だ」

 切れ長の瞳に、すらりと通った鼻筋。髪は男の時と違って腰まで届いている。

 近寄りがたい美人。そんなイメージの女が、鏡の前に映っていた。

「――まさかっ」

 胸を触る。そこにはそれなりに大きな膨らみが。

 股を触る。そこにはあるはずのそれが無かった。

「――あああああっ……」

 情けない声を出しながら俺は鏡の前で女の子座りの形でへたり込む。

 その声も、普段のそれとは違った高い声で。

 視覚も触覚も聴覚も、自分が女であることを突き付けてきた。


「落ち着いたかい?」

 日詰さんの言葉に俺はこくりと頷く。

 女になったことで戸惑っていたが、日詰さんがビーカーにアルコールランプで作ってくれたあったかいコーヒーを飲んでいると少しだけだけど落ち着いてきた。

「安心するといい。キミはちゃんと男に戻れる」

「本当ですか!?」

 一生この姿なのかと、これからどう過ごそうかと考えていたけれど、元に戻れるのなら話は別だ!

「勿論だとも。この稀代の天才科学者が、一方通行の薬を作るわけが無いだろう。この青の薬を飲めば元に戻れる」

「早くそれをくださいっ!」

「まあ待て。勿論キミは後で男性に戻す。けれどその前にやることがあるだろう?」

「は、やる事ですか?」

「ああ。ところでキミは自身の仕事を覚えているかい?」

「俺の仕事って……」

 日詰さんが何か言っていた気がするけれど、その時にはどっきりだと思っていて何も聞いていなかった。

「はぁ、仕方ないな。もう一度言うぞ。キミの仕事はその姿でトリシュ女学院に潜入し、六原詩亜を守る。それが仕事だ」

 そうだ。そういえば日詰さんはそんなことを言っていたような気がする。

「トリシュ女学院に潜入ってのは分かりますけど……」

 だからおじさんも土日祝は休みだと言っていたのだろう。

「後半も文字通りの意味さ。お嬢様を守るんだ。ボディガードのような仕事だと思ってくれ」

「ボディガードって、詩亜は誰かに狙われているんですか!?」

 財閥の一人娘だ。攫って身代金の要求を考えている人がいても何らおかしくはない。

「ううん。そんな話は現状無いし、そもそもそれならもっと専門の人にお願いするよ」

 確かに、そうだ。わざわざ俺を女にしてまで守らせるより、ずっとスマートな方法があるだろう。

「なら、どういう意味ですか」

「だから、お嬢様の学校生活をサポートして欲しいんだ。社長はお嬢様が高校生活をちゃんと送れるか心配している」

「高校生活をちゃんと送れるかどうかって――あそこはエスカレーター式の学校でしょう? そんな心配が必要とは思えないですけれど」

 確かに高校からの入学組もいるだろうが、そんなものは少数だ。ほとんどが中等部からそのまま進学した生徒のはず。

 詩亜は友人も多くいるはずだ。今まで普通に生活していたなら何ら問題はない。

「それはそうなのだがな――」

 日詰さんは言いにくそうに目を伏せる。

「お嬢様は中学校、全然行ってないんだ。最初の数か月だけ行って、後は全部ホームスクーリングで必要な単位を取った」

「――はっ?」

 それは全くの初耳で、俺にとって晴天の霹靂だった。

「いやいやいや、嘘でしょう」

 日詰さんは首を振る。

「俺は詩亜とSNSで連絡を取り合っていました。彼女はちゃんと学校に行っていたはずです。今日も、友達と遊びに行くって……」

「ああ、キミにはそんな嘘を言っていたようだね」

「嘘って……」

 詩亜は友人が映った写真だって投稿していた。しかし、日詰さんは「よくできたフォトショップさ」と切り捨てた。

「何を隠そう彼女のホームスクーリングの理科と数学の先生はボクだからね」

「それは別の意味で不安になりますけれど……」

 こんなイカレ科学者がまともに教えることが出来るとは思えない。

「それとも、キミは嘘だと思うかい? キミを女にしてまで手の込んだ嘘だと」

「それは、詐欺とか――」

 いいや、本当は心の奥底ではわかっている。日詰さんの言うことは本当だ。

 その証拠に、日詰さんは俺の苦し紛れの言い訳なんて簡単に論破してくる。

「詐欺? ――はっ。六原財閥のトップが、ただの一般市民に詐欺なんてするわけが無いだろう。キミ達程度の存在、社長なら好きにできる」

 日詰さんの言う通りで、おじさんが俺を騙す理由なんてどこにも無い。

「どうして――」

「ん?」

「どうして詩亜は学校に通わなくなったんですか?」

「それはボク達だって知りたいさ。よくわかってないんだ。だから、キミにお願いしている」

 日詰さんはコーヒーの中にぼたぼたと砂糖を投下する。あとでビーカーの掃除が大変そうだ。

「だから、キミに相談しているんだ。キミはお嬢様と親しかった幼馴染で、今も交流を持つ数少ない人間だ。だから、キミは女性になって高校生活の三年間、お嬢様のサポートをして欲しい」

 コーヒーを口元に運び、「熱っ」と呟いて息を吹きかける。見た目に違わず、熱いものが苦手なようだ。

「お嬢様がまた不登校にならないようにキミに守ってほしいんだ」

「日詰さん……」

 詩亜が不登校だったなんて、全然気が付かなかった。

 そのためにSNSで連絡を取り合っていたというのに。

 詩亜にアカウントを教えた日の事を思い返す。あれは今と同じ時期、俺が小学六年生で、詩亜が三年生の時だった。


「――ううっ、灯夜君と会えなくなるなんて嫌だよぉ」

 その記憶の彼女も、他の記憶の彼女と同じように泣いていた。

 もう大きいというのにも関わらず、目を真っ赤にして涙を流している。

「もう、詩亜は泣き虫だなぁ」

 俺はそんな彼女をいつものように慰めるため、手を取って目線を合わせる。

「だって、ひくっ、灯夜お兄ちゃんと、うぅぅぅぅぅ」

 慰めているというのにも関わらず、彼女は泣き止むどころか一層その勢いを強くする。

「ほら、泣くなって。大丈夫、いつでも会えるから」

 だから俺は彼女を抱きしめて、頭を撫でてやる。こうすると彼女が泣いているなんて、他の人が気づかなくなるから。

「でも、私も学校変わっちゃうんだよっ……」

 その時にはもう既におじさんの仕事は十分すぎるほど軌道に乗っていて、彼女はトリシュ女学院の小等部に編入する予定だった。

 だから彼女は四年生の時には既にトリシュ女学院に通っていて、五、六年生の間は普通に通っていたことになる。

「SNSって知ってるか?」

「なにそれ……?」

「手紙の凄い版。これがあればいつでも連絡が取れるんだ」

 俺は彼女の手のひらに一番メジャーなSNSのアカウント名が書かれた紙を握り込ませる。

 彼女と連絡を取る為だけのアカウント。父親に頼み込んで作って貰ったものだ。今でもそのアカウントは誰にも教えず、彼女と連絡を取るためにしか使っていない。

「これがあれば、いつでもどこでも一緒に居られるんだ。色んな事を投稿して、元気いっぱいな詩亜の姿を見せてくれ。そして泣きたいとき、悲しいときがあれば連絡をくれ。何時だって何処だって駆け付けるから」

 今思えばとんだオオカミ少年だと思う。けれども彼女は俺の言葉を信じて無垢な笑顔でと頷いた。

「俺は絶対に詩亜を守るから」

 そう詩亜を守るために。詩亜を悲しませないために。詩亜が泣いてしまわないために俺はSNSを教えた。何かあればすぐに察知できるよう。

 なのに、不登校になっていたなんて、全然知らなかった。その上、詩亜は俺に心配を掛けさせまいと嘘の投稿をしている。


「日詰さん、俺――」

 詩亜を守ります。そう続けようとしたが、その前に日詰さんが俺の耳元に口を寄せてきた。

「ああ、そうだ。社長から伝言があるんだった」

 伝言? そんなもの、さっきの間に言ってしまえばよかったのに。

「金さえあれば、人間の一人くらい簡単に消してしまえるそうだよ」

 おじさんを取り巻く噂の内、少なくとも悪い噂は荒唐無稽だとは言え無さそうだ。

「よし。承諾も取れたことだし、次の準備に取り掛かろうか」

 あのあの、日詰さんの言葉が無かったら気持ちよく取り組めたと思うんですけど。

 なんだか、心に変なしこりを抱えたままになってしまいそうだ。

「準備ってなんです?」

 そういえば、その前に準備があるとか言っていたような気がする。女性の体でしか出来ないような事か?

「採寸だよ。トリシュ女学院の制服は勿論、女性用の衣服が必要だろう?」

 そういえば日詰さんが大きくなっていると感じた。あれは俺の身長が低くなっているからか。男の時と同じサイズというわけにはいかないな。

「採寸が必要なのは分かりますけれど、日詰さんはどうしてそんなものを持っているんですか?」

 日詰さんが持っているのはメジャーだ。身長を測るのに適切であるとは言えない。

「そんなものは勿論、スリーサイズを図るためだよ」

「へっ?」

 間抜けな女の声が聞こえたと思ったが、それは俺の声だった。

「トリシュ女学院は本物のお嬢様学校だからね。制服はサイズぴったりの物を特注で作るんだ」

「いやいやいや」

 俺は首を振りながら後退る。日詰さんはメジャーの帯をピンと張りながら近づいてくる。俺の背後は壁で、もう逃げられない。

「それにほら、ブラジャーのサイズを知る必要があるだろう?」

「なんで俺がブラジャーを付ける必要があるんですか!?」

「それは勿論、今のキミが女だからだろう」

 それはそうなんだけど……

「ちゃんと付けておかないと歳取った時に垂れるぞ」

「そんな歳になるまで女でいるつもりは無いですよ」

「それとも、何だ。キミはブラジャーを付けずに学校生活を送るつもりか? 目測だが、キミの胸のサイズは小さくない。激しい動きをしたらそれなりに揺れるだろうし、ぱっと見れば付けているかどうかくらいわかる。痴女だと思われるぞ」

「うぐっ……」

「まぁ、キミがブラを付けずに外に出て痴漢されたいというのなら止めはしないがな。性癖は自由だ。ボクにそれを止める権利はない」

「そんな性癖持っていませんっ!」

「中年のおっさんに胸や尻を撫でまわされるんだ。や、やめてくださいっ。なけなしの勇気を振り絞りそう言うも男の手は止まらない。ブラも付けてないじゃないか。こうされるのを期待していたんだろう? 男の手はそのままスカートの中に……」

「何の実況ですか!? やめてくださいよっ!」

 ちょっと想像してしまった。男の手が俺の体を触るだなんて……うぇぇ、吐き気がしてきた。

「それが嫌なら今のうちにボクに体の隅々まで調べられる方がマシだと思うがな」

「いや、やめて……きゃああああああ!」

 俺の口からそんな女性のような悲鳴が出た事と、日詰さんに体の隅々まで調べられたことで、俺の体が完全に女になってしまったのだと、認めざるを得なくなってしまった。


「うう、もうお婿にいけない……」

「何を言っているんだい。今のキミが行くのは婿ではなく嫁だろう」

 俺の体を散々弄んだ日詰さんはパソコンにその結果を打ち込んでいる。

「身長164cmで85・53・84。グラビアアイドルみたいな数値だな。ボクがプロデュースしてやろうか?」

「俺をこれ以上辱めてどうするつもりですか……」

 日詰さんに制服を作るのには全く関係ないだろというところまで調べられた。髪や血液は勿論、尿なんかまで採取された。

「なんで日詰さんに直接尿を採取されなくちゃいけなかったんですか……」

「キミがどうしても無理だなんて言うからだろう。ボクだってしたくなかったさ。でも必要なことなんだよ」

 日詰さんはいたって真面目な様子でキーボードを打ち続ける。

「急に女性になったんだ。我々では想像もつかない変化が起きているかもしれない」

「何かありましたか?」

「いいや、現状は健康そのものだ。ボクの頭脳に感謝するんだな」

「日詰さんがしっかりと実験を行っておけばよかったのでは」

「ボクは実験が嫌いなんだ。理論だけが正義」

「もう一度座右の銘を教えて貰っても構いませんか?」

「百聞は一見に勝る」

「おい理系、ことわざ間違ってんぞ」

 なんでこんな人が性転換薬なんて作ってしまったんだ……

「言い間違えは誰にでもある。言葉尻だけを捉えて相手を批判するんじゃないぞ文系」

 日詰さんはパソコンに視線を向けたまま薬ケースを投げて渡す。中には赤と青の錠剤が同じ数入ってあった。

「危ないですね。投げないでくださいよ」

「今日はもう帰っていいぞ。制服は後で送る。入学のための書類はこちらで捏造するから心配しなくていい。勿論学費も我々が出す」

「捏造って……」

 今日はちょいちょい危険なワードが飛び交う。

 青い薬を飲むと、今度は腹の奥が冷たくなり、一瞬の内に男に戻った。

「やった、男に戻った! あー、あー! 声も男だし、胸は無いし、ちゃんと付いてる!」

 ひゃっほう! と飛び上がっていると日詰さんに五月蠅い! と叱られてしまった。

「性別が変わったりしているの、ちゃんと隠しとけよ。勿論家族にもだ」

「え、なんでですか?」

「当然だろう。キミは別にトランスジェンダーでも何でもない、正真正銘の男なんだ。そんな存在が女になって女学院に通っていると漏れでもしたら大問題になってしまう」

 正真正銘、六原財閥のスキャンダルだ。

「だからキミは、自身の正体が瀬峰灯夜であることを隠さなくてはならない。全く無関係の他人、瀬峰灯璃としてお嬢様を守るんだ」

 瀬峰灯璃。それが俺の女性名らしかった。


 その間も紆余曲折あったが、俺は無事こうしてトリシュ女学院への潜入を果たすことが出来た。

「今日はもう授業も無い。皆気を付けて帰るようにな」

 教壇の前では木製の台に乗った日詰さんが立っていた。

 聞いてはいたけど、本当に日詰さんが担任教師になるとはな……

 入学式を終え、教室に入った俺たちを迎えたのはいつものようにぶかぶかの白衣を纏った日詰さんだった。俺のサポートと詩亜が安心して学園に通えるよう、六原が圧力を掛けたらしい。このために一体幾らの寄付金を払ったのだろうか……

「かわいいー、誰かの妹さん?」

「小学生かしら。誰か、職員室に教員を呼びに行って貰えますか?」

「ええと、名前はなんておっしゃるの? お姉様の名前は?」

 それが日詰さんを最初に見たときの同級生のリアクションだ。日詰さんを知らない俺と詩亜以外は誰も教師だとは思っていなかった。

 うん、まぁ、わかるよ。成人女性にはとてもじゃないが見えないよな。

 その後の日詰さんが烈火の如く怒り散らしたことは言うまでもない。

「まぁ、灯璃さんは海外で暮らしていましたの?」

「帰国子女ということですの!?」

「ええ。とはいっても向こうで暮らしていたのはほんの数年ですけれど」

 女三人寄れば姦しいとはよく言ったもので、日詰さんが早く帰れと言ったにも関わらず生徒たちは教室に残って談笑を続けていた。

 高校編入組はそれなりに居て別に珍しいわけではないと思うが、それでも通常の進学組からすれば珍しいのだろうか。多くの生徒から話しかけられる。

 俺は帰国子女という設定で編入している。帰国子女と言っておけば女の子同士の会話についていけないことがあったとしても誤魔化せるだろうとの判断でだ。

「あら、盛岡さん。ごきげんよう。今年も同じクラスですのね」

「矢幅さん。ごきげんよう。また一緒に勉学を共にできるなんて光栄ですわ。――あら古舘さん」

「二人とも、ごきげんよう。今年もよろしくお願いしますわね」

 既にクラス内のグループが出来上がりつつある。今日の行動如何によって今後一年の立ち位置が決まってしまうと思えば必死に歓談するのもやむなしといったところか。

「……っ」

 そんな中一人だけ、どのグループとの会話にも参加していない生徒がいた。俺の席に座る詩亜だ。さっきからきょろきょろと周りを見渡しては言い淀んで会話に入れずにいる。

 あいうえお順の出席番号で考えれば俺と詩亜が隣に座るわけが無いのだけれど、日詰さんがさっそく初日から席替えをしてくれた。偶然席が隣同士になったとは考えにくい。日詰さんが何か細工をしたのだろう。

「ごきげんよう、詩亜さん。さっきは心配していただいてありがとうございます」

 折角日詰さんが気を聞かせてくれたのだ。俺は他の生徒がそうしているように「ごきげんよう」という挨拶から入る。こんな挨拶がまさか俺の口から発せられることになるとは思わなかった。

「えっ、あっ……ごきげんよう」

 詩亜は俺から目線を外して消え入りそうな声で呟く。

 それにしてもおかしな話だ。どうして誰も詩亜に話しかけない?

 詩亜は一度中等部で学校を辞め、今回は再編入だと聞いている。同じ後攻編入組の俺が声を掛けられて、どうして詩亜には誰も声を掛けないんだ。

 この時の会話でクラス内のグループが決まると言うのなら余計に詩亜に声を掛けないのもおかしい。詩亜は財閥トップの一人娘、この学校でも一番のお嬢様だ。そんな人間をさて置く理由が分からない。

「あ、あのっ……」

 机に向けていた詩亜の目線が俺の顔に移る。

「瀬峰さんのその名字って――」

「オーッホッホッホ! ここが六原詩亜の教室であってますの?」

 詩亜の声は勢い良く開いた扉の音と、絶滅危惧種のような甲高い笑い声に邪魔されて聞こえなかった。

 扉の方を見ると、これもまた絶滅危惧種のような金髪縦ロールに碧眼の、絵に書いたようなお嬢様が立っていた。

「雀宮(すずめのみや)様……っ」

 詩亜がびくりと体を震わせる。

 雀宮っていうと、六原財閥に引けを取らないほどの大財閥の名前だ。財閥の規模は六原に負けるが、明治から続く老舗財閥。知名度の高さで言えば雀宮が上だ。

「雀宮様? どうしてこの教室に……」

「六原さんの名前をおしゃっていますたけれど……」

「剣呑な様子ですわね。どうしましょう、日詰先生を呼んだ方が良いのでしょうか」

 詩亜が様付けしたことで、複雑な事情がこの二人の間にあるのではと思ったが、他の生徒も様を付けている。この学園では先輩の事を様付けするようになっているのだろうか。

「あなたが六原詩亜ですわよね?」

 雀宮と呼ばれた生徒は他の生徒に詩亜の席の場所を聞き、真っすぐ詩亜の所に来た。机の前で詩亜を見下ろしている。

 詩亜は雀宮の言葉には返答せず、視線を下に、机をじっと見ている。

「ちょっと、返事くらいしたらどうですの? それとも、成金の六原さんは挨拶も出来ないのかしら」

「ちょ、ちょっと、雀宮様?」

 この女学院のルールも、この女性が有名財閥の何なのかも、何もわかってはいないけれど、少なくともこの女性の言い方が良くないってことだけは分かる。

 俺は他の生徒と同じように様を付けて、雀宮の肩に手を置く。雀宮は振り返って眉を顰めた。

「何です? 私は今、六原さんに用がありますの。あなたはお呼びじゃありませんわ」

「今彼女は、私と話をしていたんです。誰だか知りませんけれど、お呼びじゃないのはあなたの方では」

 俺と雀宮の視線が交わる。

「きゃー! 何、修羅場、修羅場ですの!?」

「入学初日から灯璃さんと雀宮様でバチバチにやりあってますわ!」

「金髪お嬢様と黒髪の麗人。ねぇ、私はどちらを応援すればいいんですの!」

 外野が五月蠅い。やり過ぎたか? いや、俺は詩亜を守るためにここに来た。これくらいは当然だ。

「あなた、瀬峰って言いますのね。下の名前は?」

「俺の名前は瀬峰灯夜だ」

「俺……、灯夜……?」

「あっ、ちがっ……」

 間違えた! 今の俺は瀬峰灯璃であって灯夜じゃない。やらかしたぁ……っ。

「せっ、瀬峰灯璃ですわ」

「ふぅん……?」

 雀宮は怪訝な顔を作り、俺の顔をじろじろと見る。

「私は雀宮ひよこですわ。六原さん、また来ます。その時は、しっかりと挨拶くらいはしてくださいね」

 後半の言葉は詩亜の方を向いてそう言った後、雀宮は翻って教室を出て行った。

「……」

 その間詩亜は一言も発さず、ずっと机の上を見つめていた。


 雀宮ひよこ。雀宮財閥のご令嬢で、トリシュ女学院高等部の二年生。詩亜の一つ上に当たる。日本人の父とフランス人の母を持ち、あの髪や瞳は自前の物らしい。

 それなりに有名人で、財閥のご令嬢としてメディアにも顔を出しているようだ。検索すればコンマ秒の時間で大量に情報がヒットした。

 財閥のお嬢様キャラとして振る舞い、タレントかアイドルのような活動をしている。あの昭和のお嬢様キャラのような笑い方も、こういった活動で世間から求められているお嬢様像を演じているうちに身に着いたものらしかった。

 成績優秀で容姿淡麗。世間からの覚えも良い。おじさんと違って、悪い噂は見つからない。

 日詰さんに聞いたところ、詩亜とひよこは今日が初対面だったそうだ。財閥のお嬢様同士、面識くらいはあるだろうと思っていたが、詩亜が引きこもっていたせいで無かったらしい。当然、二人の間に複雑な事情は見つからない。

 ひよこの行動の理由について皆目見当も付かないと日詰さんは言っている。

『あのね、平泉さんと同じクラスだったよ!』

 毎晩交わしている詩亜とのSNSでのDM。その第一通だ。

『それは重畳』

 因みに、平泉という名前の人はクラスにいない。日詰さんに確認を取ってもらったところ、そんな名前の人はトリシュ女学院に在籍していなかった。

 この平泉という人は詩亜のSNSの中にだけ登場するイマジナリーフレンドなのだろう。

『何か困ったことはあった?』

 俺は瀬峰灯璃としてだけではなく、こうして瀬峰灯夜としてSNSのDMを通じて詩亜と接触することが出来る。同級生の灯璃や担任である日詰さんに相談はしにくくても、幼馴染の俺にだったら打ち明けることは簡単だろう。ひよこと詩亜の間に何かあるなら、灯夜としてそれを聞き出してやる。

『ううん、何も無かったよ!』

 あれっ?

『本当に? 怖い先輩に絡まれたりとか無かった?』

『お嬢様学校だもん。そんなの無いよ。あったとしても、初日からそんなことが起こるわけないじゃん! 心配しすぎ』

 それはそうなんだけど、あっただろ。雀宮に絡まれたじゃないか。

 けれど、そんなことは瀬峰灯夜が知っている情報じゃない。絶対に言えない。

『それに、今日は入学式だよ? 先輩は登校してきてないよ』

 ん? 確かに言われてみればそうだ。ひよこ以外の上級生は見ていないし、授業が始まるのは明日からだ。上級生が登校してくる理由が無い。

 ってことは、詩亜と会うためだけに登校してきたってことか? 会って何をするために?

『でね、クラスに瀬峰灯璃さんって人がいたの』

 俺が考え事をしている間に詩亜の会話の話題は別の物に変わっていた。

 俺の事だ。急に話しかけられてウザかったとか? そう思われていたらどうしよう……

『うん。それがどうしたんだ?』

『もう、ちゃんと見てよ! ほら、灯夜君と同じ名字でしょう? 名前も似ているし、もしかして親戚だったりするのかなと思って』

 ああ、なんだそんなことか。

 女の時の名前はどうせなら全く違う物の方が良いと思ったのだが、日詰さん曰く「全く違う名前だととっさの時に反応できないだろ。似ている名前の方が自然な反応ができて良いのだよ」とのことだった。

 テスト等で間違えて本名を書いたとしても、瀬峰灯夜と瀬峰灯璃ならギリギリ誤魔化せるような気もする。日詰さんの意見に反対する理由も特にないので、俺の名前は日詰さんの案で決まった。

『いや、知らないな。そんな親戚はいないはずだ』

 詩亜に追及された時はしらばっくれるということで日詰さんと決めていた。調べても実際、瀬峰灯璃の戸籍は瀬峰灯夜とは全く接点が無いように作られている。

『瀬峰は地名姓だから、もしかしたら遠い親戚かもしれない。調べとこうか?』

『ううん、そこまではいいよ。灯夜君が知らないならそれでいいの』

『その瀬峰灯璃さんはどんな人だった? どう思った?』

 どうせなら詩亜からの印象も聞いておこう。ちょっとずるい気もするけれど、こうすれば瀬峰灯璃は素早く詩亜との関係を深められる。

『かっこいい人だったよ! 身長が高くてすらりとした美人! 女学院だけれど、モテるんじゃないかな』

 女の体になった自分の事なんだけど、そう素直に褒められると照れるな。

『素敵な人だったから、友達になりたいな』

『大丈夫、詩亜なら仲良くなれるよ。灯璃さんも詩亜と仲良くなりたいって思ってるはずだよ』

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