第12話 その人の名は

 老兵はゆっくりと立ち上がった。

 全身が返り血で真っ赤だった。


 だが、やむごとなき身分の高官をひとり抹殺したというのに、その顔は妙にさっぱりしていた。

 くちびるには爽やかな微笑みさえ浮かんでいた。


 その微笑みに列席者達は戦慄した。


「指導。ふむ。指導か。

 もっと早く知っておれば、色々と指導出来たというのに」


 殴り潰した感触を思い出してでもいるのか、拳を繰り返し握りしめる老兵。

 拳を握りしめる度に、指の間から鮮血がしたたる。


 近衛隊長が再起不能なのはあきらかだった。

 近衛隊長としてだけではなく、人間としても。


 だが、老兵は何一つ法を犯していない。


 確かに軍隊内での暴力行為は禁止されている。


 だが、それを指導と称すればしてもいい、と彼に告げたのは彼の上官であり。

 そして指導であるならば、下級兵士が上級兵士にしても問題ないわけであり。

 そもそも指導が暴力行為であるとすれば、『指導』と称して暴力行為が横行している事を咎めねばならない。


 そのうえ、老兵は『指導』をする前に近衛隊長に確認までしたのだ。


 自分が近衛隊長を『指導』しても問題ないのかと。

 そして近衛隊長は、それを肯定したのだ。


 老兵は、公爵令嬢を連行しようとする兵らを見た。


 彼らは、ひっ、と悲鳴をあげ、公爵令嬢の拘束を解いた。


 せいぜい、城下のチンピラや不貞の集団を捕縛した程度しか実戦経験のない彼らにとって、老兵は突然異界から現れた化け物に等しい。


 単なる痙攣する肉塊と化した近衛隊長と、圧倒的な暴力を披露した化け物。

 どちらに従うのが賢いか、バカでも判る。


 老兵は、王太子の方を向いた。


「殿下。その地位にふさわしい正しき命を下してくださいませ。

 法によって裏打ちされた正しき命ならば臣はその実現のため、この老いさらばえた身を捧げますぞ」


 王太子は、はくはくと口を動かし何か言おうとした。


 法に則ったことさえ言えば、この男は従ってくれる。

 それは理解していた。

 だが、血まみれの猛獣の前で何かを言える人間などいるだろうか。


 それに、間違った命だと老人が判断したら、王太子とはいえ『指導』されてしまうかもしれない。


 恐怖に頭がしびれて、うまく考えがまとまらない。


 ヒロインは今だに気絶したままで床に転がっていた。

 倒れた拍子にドレスの裾が大きくまくれあがって太ももまで覗いていたが、誰ひとり気づくものはいなかった。


 茫然自失の空気の中、いち早く立ち直ったのは悪役令嬢であった。


 日頃からゴロツキ同然の品性の両親やゴロツキどもと接していたせいであろうか。

 あくまで比較してだが、彼女は荒事に慣れている方だったのだ。


 これはチャンスだった。

 この老人さえ味方に出来れば、状況を一気に逆転出来るのだ。


 彼女には、この老人に命令する権限はない。


 だが。


 彼の自由意志を操作することは出来るはずだ!


 悪役令嬢は老人に対して、美しいカーテシーを決め。


「不法な命令によって虐げられるところでしたわ。

 それを救ってくださるなんて、貴男は本当に家臣の鑑ですわ」

「法に従っているだけです」

「ですけど、この場で法に従える勇気をもった方が何人いるというのですか?

 貴男以外誰も、不法な行為に異を唱えなどしなかったではありませんか!

 そんな貴男を、こんな低い地位に留めておくなんて、国家の損失ですわ」

「余人は関係ありませぬ。法に従っているだけです」


 ここが肝心とばかりに、悪役令嬢は親しいもの以外には見せぬ、愛くるしい笑顔を浮かべ。


「貴男にはもっとふさわしい地位があるはずですわ。その地位を得るお手伝いをしてさしあげたいですわ」


 悪役令嬢は、言外に告げた。

 自分の実家には、それを実現させる力があると。


 これだけの実力の持ち主、にも関わらず未だに平の兵士。

 実力と地位の凄まじいまでの懸隔。そのために貯まりに溜まった鬱屈があるはず。

 先程の圧倒的な暴力は、まさにその発露だった。


 出世をちらつかせれば、すぐ飛びつく筈だ。


「そのことについて、是非話したいですわ。

 それに、わたくしを救ってくださった感謝もしたいですし、

 それら諸々のため、わたくしを実家までエスコートしてくださりません?」


 王太子は、さっと顔をあおざめさせる。

 少し前に、意識を取り戻したものの立ち上がれないヒロインも、あ、と呟く。


 しまった。


 もし、悪役令嬢がこの老人にエスコートされて出て行ったら、止めるものがあるだろうか。


 ない。


 近衛隊長が血だまりに沈む廃人となったのを見た直後。

 圧倒的な暴力を見せつけられた直後。

 手を出せる者がいるはずがない。


「公爵令嬢殿よ。それは出来かねますぞ」

「な、なぜでございますか」

「先程の王太子殿下の言葉からして、御令嬢殿の嫌疑もまた明白ですぞ。

 容疑があやふやであれば、御実家での謹慎もありえましょうが、あれだけの明白な証拠が在る以上、御実家に返すわけには参りません。国王陛下の御帰還まで宮殿の一室での謹慎が適当かと」

「貴男、わたくしの味方なんでしょう!

 わたくしなら、貴男をどんな地位にもっ!」


 老人の決して大きくはない平板な声が遮る。


「私は、法に従って行動しているだけですぞ。

 それに……先程の御発言は、私を利益をもって誘導しようとしたと取られかねませぬぞ。

 以後、そのような発言は慎まれたがよいですぞ」


 悪役令嬢は恐怖に貫かれて、思わずよろめきそうになった。

 先程の圧倒的な暴力が自分に向けられかねないのだ。


 目の前の化物が、国法に触れると判断したら、血に沈むのは自分かもしれないのだ。


 王太子とヒロインは逆転の目を見た。


 この際、地下牢案を放棄し、王宮での謹慎にすれば。

 そして、この老人をその監視役にすれば。


 王子は命令しようとした。


 だが、老人の名を知らなかった。


 王子はヒロインを見た。


 だがヒロインも知らなかった。


 二人は背後の側近達を振り返った。


 優秀な側近達は、二人が知らなくても大抵の家臣、貴族の名を知っていた。


 だが、側近達も老人の名を知らなかった。




 これほどの腕前をもっていながら彼は無名の人であった。

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