第17話 不動の行と世界の境界

 ホノカが顔を見せたのは、リムリアに魔術のことを聞くためだ。

 それは講義のようなもので、何かを実践するのではなく、主に理論の話でもある。それは最初から知っていたので退屈だとは思わないが、疑問は尽きることなく溢れ、新しい切り口からの視点はホノカにとって、初めて魔術に触れた際の楽しさを思い出すのに充分であった。

 窓際の椅子に座って、ちらりと庭を見れば、槍を構えがレーゲンが見えたが、鍛錬をしているのかと、そう思っただけだ。

 会話に夢中になり、ノートにメモを記し、いつの間にか三時間と少し、夕方がもう目の前になった頃、ようやく一息入れることになった。

 いや。

 今日はもう終わり、か。

「――」

 大きく伸びをした時に、視界の端に映った庭に、レーゲンが。

「……何してんのや」

「レーゲンかね? 見ての通り鍛錬だ。ぼくは午前中で済ませるが、あいつにとっては午後が本番になる」

「動いてへんやろ……?」

「丁度良い、帰る前に話しかけたまえ。水を渡すついでにな。もっとも、聞く前に見ればわかることだがね」

「あんたらと比べたら、うちの体術なんて遊びみたいなもんや。見てわかるとは思えへんのやけど」

「それも確かめることができる」

 特に拒絶する理由もなかったので、侍女から水を受け取り、鞄を肩にかけて外に出る。

 結界だ。

 上からは見えていたのに、玄関からだと視認できない。許可を取れば簡単なのだろうが、そういう仕組みは作ってないそうだ。

 では突破するのか? それもまだ、今のホノカには技術的にできていない。

 想像する。

 見えていないだけで、そこに居るのは事実。まずはそれを強く認識し、一歩前へ。こちらは偽り、先ほど見えていた光景が現実だとわかっていれば、目隠しの結界は無効化できる。

 見えないからこその結界であり、見えているのならば、それはもう結界ではない。

 ――これも、リムリアから教わったことだ。

 レーゲンは、右手を前に、左手を後ろにする半身で槍を構えている。軽く腰を落とす程度で、ぱっと見た感じ、どこかに力が入っているようには見えず、また、注意深く周囲を見るが、足跡などが多くついているわけでもない。

「よう、そっちは終わりか?」

 かけられた声には疲労が見てとれたが、張り詰めているようなものはなく。

「初日から飛ばし過ぎないよう配慮してくれたんやろ」

 なるほどなと言って、ゆっくり構えを解いたレーゲンがこちらを見たので、まずは近くのテーブルに水のボトルを三つ置く。

 どうするのかと思えば、レーゲンも槍の先端を空に向けたままこちらに来て、壁に立てかけ、椅子の上に置いてあったタオルに手を伸ばした。

「――っ」

 そっちも終わりにするのか、そう口を開こうと思って絶句する。

 近づいて来て、ようやくわかった。自分の目が節穴だったと痛感させられる。

 レーゲンは。

 まるで水の中に落ちたかのよう、全身が濡れていた。

 ――汗だ。

「ん、ああ、臭いかもしれないから近づくなよ」

「……動いてないよう見えとったけど」

不動ふどうぎょうだからな。ま、想像した相手と戦う修行の一種だよ」

「端折ったやろ」

 椅子を引き、ホノカは腰を下ろす。汗の匂いなんて、大して気にならなかった。

「普通やないやろ、それ」

「そうだな」

「イメージトレーニング?」

「似てはいるが、もっと厳密だ。目の前にいる相手を想像して動け、そう言われたことは?」

「学校の授業でも、戦闘訓練はだいたい、そういう話から始るね」

「相手を想像するのは、まあ、簡単だ。その上で、自分自身もそこに想像で生み出した上で、そこに自分を合致させるわけだ。意志があれば攻撃は通る。――これが前提だ」

「想像力の問題はあるんやろうけど……」

 だとしてもこの疲労はおかしい。いや、よっぽど真に迫る戦闘を想像していたのならば――想像?

 いや、これはもう、実際に戦闘をしていたような疲労の仕方だ。

「真に迫る?」

「おう、あるいはそれ以上だな。こいつはなホノカ、俺がどこまで動けるかッて確認の意味合いもあるンだぜ」

「あ……そうやな、それはそうや。自分の動きが、想像の中で今の自分以上の動きをしとったなら、鍛錬にならんのや」

「その通り。だから最初は、誰かを目の前に置いて、立ってもらって、攻撃だけの練習をする。これは攻撃の意図を相手に投げるだけだ。防御も同じ、相手の攻撃を読む。そこからさらに発展して、動かず戦闘をする」

「……うちには想像もできへん」

「大したことじゃねェよ。戦闘相手がいねェ時にやる手段の一つッてだけだ」

「三時間くらいやっとったやろ」

「ん? そのくらいはやれるようになったと、そう思うくらいだな。それに、戦場じゃ短い時間だぜ」

「何を想定してんのや」

「あらゆる状況を、だ」

 言って、レーゲンは二本目の水に手を伸ばした。

「水、ありがとな。そっちは順調か? 今日は何の話をしてたンだよ」

 レーゲンがちらりと見上げれば、リムリアの部屋の窓が空いている。こちらの会話が聞こえるようにしているのだろう。

「境界についての理論や」

「ああ、単純だが深い……いや、魔術の世界なんて全部がそうか。まずは境界線の否定からか?」

「――否定?」

「そこはやってねェのか。まだ意識する段階じゃねェみたいだな。地面に棒で線を引く、そいつが境界線だッて説明すりゃ、当たり前に受け入れられるだろ? けど、どんなに細い棒を使ったところで、細かくみりゃそいつは、ただの溝だ。溝ッてことは、幅がある。遠くから見りゃ、そいつは線だろうが――その幅の、どこが境界だ? むしろ邪魔な要素が一つ増えただけで、それを線と呼んでるンじゃねェか?」

「…………」

「と、そういう理論の話だ。つーか何を教わったンだよ」

「え、あ、ああ、自分の内側と外側」

「肌の表面か。となると、魔力やら回路やらの認識と把握――本当の初歩か。ふうん? 最初のうちはそれでもいいんだろうけど、俺としちゃ内側と外側ッて認識は、あんまり好ましくねェな」

「なんや、理由はあるんか?」

「そうだな……聞いてるか、リムリア」

 声をかければ、片手だけ見せて、ひらひらと振る。

「ならいいか。表裏一体ッて言葉があるだろ、現実はいつだってそうだ。実践段階に入るとすぐ気付くだろうが、内側に潜ってても、意識が外側へ向くなんてことはよくあるンだぜ」

「うちにはまだ、内側に潜る感覚もわかってないんやけど」

「そのうちわかる。で、実は世界ッてのも表裏一体なンだよ」

「……? 比喩やなく、この世界?」

「おう。呼び方はいろいろあるが、次元式なんかはそれを利用してるし、俺らは単純に彼岸ひがんと呼んでる」

「こっちが表なら、そっちは裏? んん……」

「自然界における魔力、あるいは魔力溜まりは知ってるか?」

「マナやろ? 魔力溜まりは、ある種の魔物が好む場所……瘴気しょうきが集まってるって認識や。人間はあんまり近寄れないんやろ」

「じゃあマナッてのは、どこから発生するのか、その仕組みは解明されてンのか?」

「……それは、聞いたことあらへん。ただ外部の魔力を利用して作る術式なんかもあるんやし、それ自体が悪いものってわけやないんやろ?」

「きちんと変換させれば、そうだろうな。ちなみにこいつは、ホノカが契約してる相手とも関係がある話だぜ」

「――、……契約、とはちゃうけど」

「でも庇護下に入ってるだろ、そういうのはわかるンだよ。どういう相手か詳しく聞きたいところだが、ま、そいつは後回しだ。今じゃなくていい」

「うちは、狐やからな。いろいろ狙われることもあんねん」

「綺麗な毛並みをしてるからなァ」

「……どうも」

「本心だぜ? 俺は特に偏見がない。ともかく、あいつらはな、あー……わかりやすく言えば、本体をあっち側、裏側、俺の認識だと彼岸に置いているンだ」

「うん? 本体って、どういうことや。あの人は、見る限り普通の人間やったよ」

「詳しく説明するには、存在の分割とか魂の在り方みてェなのをクソ真面目に解説しなきゃならんし、たぶん理解できねェよ。だから、大きな湖を想像しろ。そこから、コップ一杯の水を汲む――それが、こっち側にいる人型だ。本体は湖そのものになる。まァ、躰の一部を使ってるッて感覚か」

「そういう存在なんや」

「おう、その認識で合ってる。本気で討伐しようと思ったら、コップを割るンじゃなく、どうにかして裏側の湖を干上がらせるしかねェだろ? だから今度は、その表裏をどうにかして越える必要があるわけだ。それには、きちんとした認識が必要になる」

「あ、それで表裏一体なんやな? 表にいても、裏にもいる。やったら瘴気が噴出してる魔力溜まりなんかは、どないなんや」

「裏側に繋がる穴が大きいのさ。何しろ、魔力ッて塊は裏側に存在してるものだからだ。俺ァ詳しく理論を追ってねェが、お前らが持ってる、使ってる魔力だって、あっち側から引き出してるンだぜ? ただその引き出すための蛇口に制限があるから、大した影響がねェッてな」

 おそらく、蛇口の拡張ができないのも、世界がそれを定めているからだろうと、レーゲンは考えている。そうでなければ、人間が人間の形を保てないから。

 鞄からノートを取り出したホノカは、表裏一体、とだけ記しておいた。

「レーゲンは魔術師とちゃうんやろ?」

「おう、どこまでを魔術師と呼ぶかッて話もあるが、俺は違うぜ」

「そのわりに詳しいのは、なんでや」

「んー……知ろうとしたから、だな。詳しいッて評価はともかく、俺はあくまでも理論だけで、構成まで手を伸ばしちゃいねェ」

「魔術師が敵になった時の対策ともちゃうんか?」

「俺には構成を読めねェよ。対処法はいくつかあるが……どっちかって言えば、理論を学ぶッてのは武術家にとって無駄じゃねェンだよ。世界を知ったところで、できることは限られてるけどな」

「……そういえば、あんたらの戦闘なんて見たこともなかったわ」

「だろうよ。そろそろ、派手な訓練もしようと思ってた頃合いだから、どっかの山にでも篭ろうかと考えてる。学校やら騎士やらが使うような訓練場がありゃ、手間も減るンだけどな」

「手間ってなんや」

「山の中で騒ぎを起こして事件にされても困るだろ? 訓練場なら、多少派手にやったッて、言い訳が立つ」

「ふうん? 学校でもサバイバルの訓練みたいな、遊びはあったけど、したら騎士団に直接聞くとええんとちゃうんか?」

「それもそうだな。さて、俺はもうちょい動くから、適当に帰れよホノカ」

「ん、そやな」

 汗が引き切る前に、レーゲンは再び槍を手にして構えた。

 また不動かと思っていれば、ゆっくりと動き始める。

 ゆっくりと。

 舞うように、浮くように、あるいは流れるように。

 突きも、引きも、そして薙ぎも、まったく鋭くない。それこそ、風切り音が聞こえないくらいなのに、止まらない。動き続ける、踊るように。

 継ぎ目がない。

 攻撃ばかりしているわけではないのに、動きと動きの間がまったく感じられなかった。

 これがどんな訓練なのかを、ホノカは理解できない。

 ただ。

 単純に綺麗だと、そう感じた。


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