闇に叫べ!4 掛川殺人事件

鷹山トシキ

第1話

 2012年5月1日

  電力不足が予想されるため、全国の官公庁などで例年より1か月早めにクールビズ開始。


 菜奈は掛川警察署に左遷になった。

 江戸時代には掛川宿が東海道の主要宿場町となり、また掛川城を核とした城下町でもあった。市域は佐野郡および小笠郡に含まれ、牧之原台地のすぐ西に位置している。


 安土桃山時代には山内一豊の城下町であったため、この縁で高知市(高知県)との交流関係が深い。江戸時代には掛川藩、横須賀藩の城下町となり、東海道掛川宿、日坂宿の宿場町でもあった。2005年4月1日に、旧掛川市、大東町、大須賀町の1市2町が合併して、現在の掛川市となった。


 農業が主要産業の一つであり、緑茶の栽培は全国屈指の産出量を誇る。合併によって牧之原市が成立するまでは、荒茶の生産量全国1位であった。


 東海道新幹線掛川駅や東名高速道路掛川インターチェンジとともに工業団地の誘致に成功、拠点都市としての性質を強めると同時に製造品出荷額1兆円を超える県内有数の工業都市となった。その結果、脆弱であった財政基盤は大幅に改善され、2006年には財政力指数が1.033に到達、初めて普通交付税不交付団体となった。しかし、2006年度末には借入金総残高が1016億円に達し、実質公債費比率が18%を超過したため地方債許可団体となった。


 また、「スローライフ」を宣言しており、郊外化やスプロール現象の促進とは正反対で、中心市街地の活性化で個性を強化する路線を掲げており、中心市街地活性化法(タウンマネージメント機関)の実践が顕著である。


 倉真温泉、法泉寺温泉など市内各所の温泉街や掛川花鳥園などの観光地を訪れる観光客も多い。また、1970年代には吉田拓郎やかぐや姫、2000年代にはap bankなどが野外コンサートを開催するなど、ロック・フェスティバルの街としても知られている。さらに、掛川市役所や掛川警察署の公式ウェブサイトにて流れるテーマ曲が話題となる。


 掛川駅前で政府要人、浅井寛太が狙撃され殺され、浅井と接触していた商社社員・澤山拓哉が消息を絶った。浅井は松方弘樹の弟、目黒祐樹に澤山は六平直政に似ていた。

 この件に死の商人・長峰が絡んでいるとして、長峰の会社に静岡県警の呂宋が派遣された。呂宋は、澤山の同僚である葉山と共に、長峰一味の暗躍を打破すべく立ち上がる。

 葉山は『おぎやはぎ』の矢作兼に似ていた。

 

「長峰って真木蔵人に似てるよな?」と、呂宋。

「そうかな〜」と、残間。

 2人は掛川駅近くのビジネスホテルに泊まっていた。

 

 5月4日 - 長野県白馬岳で福岡県北九州市の63-78歳の男性グループ6人が遭難、翌日全員死亡が確認される。その他5日にかけて北アルプスで中高年登山者による遭難事故が相次ぐ。


 埼玉共和国の産業省次官・前崎彌生がダム建設資材購入のため、掛川へとやってきた。彌生は桃井かおりに似ていた。

 セールスマンと称し彌生と接見した残間は、彼のボディガードを務める。しかし、ダム工事とは関係のない工業用ボンべを大量に買い付けられたことを知った残間は、彌生が彼女の秘書・らんの父親を密かに監禁し、脅迫して毒ガスを作らせていることを察知する。

 卵は遊井亮子、卵の父は吉田鋼太郎に似ている。


 彌生はその毒ガスをボンベに詰めて埼玉共和国に送り、内乱を起こそうと企んでいた。その頃彌生も、残間の素性を密かに調査し、彼が刑事であることを知る。


 5月9日 - 小沢一郎被告を無罪とした4月26日の東京地裁判決を受け、検察官役の指定弁護士が政治資金規正法違反(虚偽記載)で控訴。


 硴塚桜と硴塚龍臣は掛川にやってきた。

 牧之原台地の西に位置する。南北に約30km、東西に約16kmの距離がある。

 中心部を流れる逆川の流れが、切り立った崖のように見える点から「缺けた川」と呼ばれ、次第に略されて「懸川」となり、「掛川」と改名された。

「かけがわ」を発音する際、地元では「け」にアクセントをおいて発音するが、標準語ではアクセントはない(平板)とされる。アクセントに違いが見られるのは、標準語と掛川市内で用いられる遠州弁との間にアクセントの差異があるためとされる。同様に、標準語と遠州弁とで地名のアクセントに差異がある事例としては、静岡県磐田市が挙げられる。

かつては、高知県高知市のはりまや橋の近くにも「掛川町」が存在した。これは、掛川から高知に移住した山内一豊の家臣が、居を構えた事に由来する。高知市の掛川町は、現在では「はりまや町」となっている。高知市には山内一豊が建立した「掛川神社」も存在する。この神社は、一豊が高知に入城した際、掛川城の北東(鬼門)にある龍尾神社を高知城の北東に勧請したものであり、掛川に因んで命名された。


 博物館に入り、掛川の歴史について勉強した。

 鎌倉時代には「懸川」として歴史書に描かれた。また室町時代には、信州塩尻に至る塩の道の始点であった。

 戦国時代には戦国大名今川氏の配下の朝比奈氏の城下町として発展した。

 1567年(永禄10年) - 徳川家康が、掛川城に籠城した今川氏真・朝比奈泰朝を攻撃した。

 1568年(永禄11年) - 石谷政清が遠州飛鳥郷一色を拝領。

 1580年(天正8年) - 横須賀城が完成。

 1581年(天正9年) - 徳川家康が高天神城を攻め落とした。

 1590年(天正18年) - 山内一豊が掛川城に入る。天守の完成は1596年(慶長元年)。

 1601年(慶長6年) - 山内一豊が高知城に移り、松平定勝が掛川藩の、大須賀忠政が横須賀藩の藩主となった。

 その先は見なかった。腹が減って仕方がなかったからだ。

 

 9日午後8時

 嵐山組長の嵐山若葉の暗殺計画を調査していた嵐山組組員・和久田が掛川で謎の死を遂げた。和久田はガッツ石松に似ていた。現場は22世紀の丘公園だ。22世紀の丘公園は、静岡県掛川市満水に所在する総合公園である。

 100年かけて、美しい森を市民と共に「共働」でつくりながら楽しむことをコンセプトとしている。

 和久田は紫色の絵の具を顔に塗りたくられていた。死因がマスカットを大量に接種したことによるアナフィラキシーショックだ。

 

 静岡県警の竜崎は残間と共に、嵐山を守るべく、捜査を開始。そして、何者からか嵐山暗殺を請け負った蒲生も様々な手で次々と嵐山や竜崎らに襲い掛かる。蒲生は満島ひかりに似ていた。

 

 桜と龍臣は潮騒橋にいた。

 静岡県掛川市に立地し、一級河川である菊川の河口に架かる橋である。太平洋岸自転車道の一つである静岡県道376号浜松御前崎自転車道線のための橋であり、自転車・歩行者専用の橋である。


 静岡県建設技術センターにより設計され、住友建設・ピーエス・若杉組JVにより1995年に完成した。世界で初めての「連続上路式吊床版橋」として建造された。特に「4径間連続上路式PC吊床版橋」という構造形式は、世界でも類を見ない。また、吊床版橋としては、日本国内最長を誇る。


 橋梁として高く評価されており、土木学会より土木学会田中賞作品部門が授与されている。また、「日本最大4径間連続上路式PC吊床版橋」との理由から、静岡県庁が県内のさまざまな「日本一」を採取して紹介する「Myしずおか日本一」の一つとして選定されている。


 周辺には、日本初の河川マリーナである「大東マリーナ」が立地している。この大東マリーナに出入りする船舶が橋の下を通過するため、航路高は9.5メートルも確保されている。


 遠州灘が見渡せる眺望が有名であるが、冬季を中心にこの地域特有の「遠州の空っ風」が吹き荒れる日が多いため、通行には注意が必要である。

 

 5月11日 - ビックカメラがコジマと資本業務提携。


 掛川の温泉街で、3件の殺人事件が相次いで発生する。ガソリンスタンド店長の財前大地が婚約者の三船奈緒を殺し、介護施設長の橘賢人が部下の梶山慎吾を殺し、ボールペン会社の派遣、浅葉岳が社長の蒲生初範を殺す、いずれのケースにおいても、加害者が被害者の顔を温泉に押しつけて窒息死させる、という手口は共通していた。

 5人死亡。


 刑事の菜奈は、捜査を進めていくうち、自分の指紋やボタンなどが現場に残されていることに気づく。同僚の北岡春子からも疑いの目を向けられる中、自分が犯人なのではないかと考えはじめた菜奈は、かつての夫、嵐山の元を訪ねるが、はっきりしたことは分からない。そんな折、梶山の幽霊が菜奈の前に現れるようになり、彼女の混乱は深まるばかりとなる。

『サクシュサレテバカリデツライ』と、梶山は言っていた。


 いま、菜奈が唯一落ち着ける時間は、嵐山と一緒に過ごすときだけである。一旦は二人で遠くへ旅立とうとするが、菜奈は嵐山だけを行かせて、自分は掛川に留まることを決意する。菜奈がさらに調べを進めた結果、橘の運営する施設で虐待が相次いでいることが明らかになる。現在は廃墟となった老人ホームを訪れた菜奈に、梶山の幽霊は「あなただけ許します」と言い残して姿を消す。   


 同じ頃、菜奈のアパートに侵入した春子は、部屋の中を探っていたところ大量の葡萄を見つけた。

 

 5月13日 - 広島県福山市のホテル「プリンス」で火災、7人が死亡。

  

 硴塚夫妻は旅行を続けていた。

 掛川城にやってきた。🏯

 戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心、拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台となった。朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、現在見られる城郭の構造の基本的な部分は安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものである。


 本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城であった。明治以降は、廃城令によって廃城処分とされ建物の一部を残して撤去され、道路や庁舎の建設によって大半の遺構が撤去されている。現在は、1854年に倒壊した天守や大手門などの一部の建物、塀が復元され、堀や土塁、石塁の復元が行われている。城跡の整備が城下に至り、電柱の埋設など都市景観の配慮に及んだ。


 室町時代中期の文明(1469年 - 1487年)年間に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられている。当初は龍頭山より北東にある子角山に築かれており、龍頭山の城は1513年に新たに築城されたものである。


 そのまま朝比奈氏が城代を務め、泰煕の子孫である朝比奈泰能・朝比奈泰朝が代々城を預かった。ところが、1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主君の今川氏真が甲斐国の武田信玄・三河国の徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、本拠地たる駿府館を捨てて泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。このため掛川城は徳川勢の包囲に遭ったが、泰朝はよく城を守ったためなかなか落城しなかった。この際、徳川勢はかつて掛川城があった子角山を拠点としたという説がある。しかし、兵数の差もあって和議で氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断した。


 氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開き、相模国の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。間もなく駿河国に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、掛川城に程近い牧之原台地に諏訪原城を築き、さらに掛川城の南方にある高天神城では武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となった。しかし掛川城は1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けた。


 その後も掛川城は石川氏が城代を務めたが、1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。


 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転した。その後、掛川城には多くの譜代大名が入ったが、最終的には太田氏(太田道灌一族の系統)が入り、何度か城の修築も行われている。ところが、幕末の1854年(安政元年)末に、東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊した。この際、政務所である二ノ丸御殿は1861年(文久元年)までに再建されたが、天守は再建されることはなかった。


 1994年(平成6年)4月 天守が再建された。再建された天守は木造であり、日本初の木造復元天守である。建坪は92.3坪、10億5千万円を要した。天守閣の屋根を守る鯱は青銅製で、高さ4尺(1.2メートル)で一基約200キログラム(一対で400キログラム)である。復元では、和釘を使用している。大きさは2寸5分から7寸の釘を7,570本使用している。

 

 夕方、法善寺温泉にやってきた。

 1440年(永享12年)に曹洞宗寺院の法泉寺を草創した舂屋宗能が、夢枕に現れた白髪の仙人の教えに従ったところ、地面に差した杖から霊泉が湧き出たのが始まりとされる。

 掛川市北部の山間にある法泉寺川の河畔に、2軒の旅館(滝本館・小杉館)が存在する。

 龍臣は葉山邸を訪れていた。

「長峰に逆らうことは辞めた方がいい」  

 葉山は苦言を呈した。

 葉山のことは呂宋から紹介された。

 硴塚夫妻は今や日本を代表する人物となっていた。

「今夜は戦いのことなど忘れて楽しみましょう」と、桜。

 露天風呂を堪能した龍臣は桜と飲んだ。

  

 5月15日 - 沖縄県本土復帰40年記念式典。

 掛川はトランポリンの普及に力を入れており、全日本トランポリントーナメント競技選手権大会が開催されている。

 昼前に掛川花鳥園にやってきた。掛川市南西郷にあるテーマパークの一つだ。「花と鳥とのふれあい」をテーマとし、2003年(平成15年)9月20日に開園した。

 花の中で鳥と遊べる全天候型テーマパーク。檻の中の鳥を見る従来型の動物園とは異なり、スイレン、オオオニバスやブルグマンシアなどが配された大温室で放し飼いにされている鳥たちとじかに触れあうことができる。

 バードショー(観覧無料)も毎日開催されており、様々な鳥の餌付け体験(有料)、フクロウの腕乗せ(有料)やペンギンの膝乗せ(有料)の体験もイベントとして行なっている。


 加茂花菖蒲園にもやってきた。静岡県掛川市原里にある花菖蒲園(植物園)である。4月下旬から6月末頃の開花シーズン中、約10,000m2の敷地に1500品種100万株の花菖蒲を見ることができる。

 また、同敷地内に約3,000m2の多目的温室があり、アジサイ、球根ベゴニア、ストレプトカーパス等が栽培されている。温室内で植物を鑑賞しながら喫茶・食事を楽しむこともできる。

 桃山時代から続く当地の豪農・庄屋であった加茂家の屋敷で、花菖蒲園の公開期間以外でも内部を観覧できる。現在の建物は江戸時代中期のものとされ、保存状態がよく、映画、アニメ等のロケ地としても使用されている。

 夜は倉真赤石温泉に宿泊した。

 

 5月18日 - 種子島宇宙センターから、水循環変動観測衛星「しずく」(GCOM-W1)および韓国の多目的実用衛星「アリラン3号」(KOMPSAT-3)、小型副衛星(ピギーバック衛星)2基を搭載したH-IIAロケット21号機の打ち上げに成功。


 午前10時、宿を出て硴塚夫妻はレンタカーに乗り込んだ。桜はAQUAをスイスイ飛ばしていた。

 掛川には高天神城ってのがあった。

 高天神城は、遠江国城東郡土方、現在の静岡県掛川市上土方・下土方にあった日本の城。小規模ながら、山城として堅固さを誇り、戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた。優美な山の形から鶴舞城の別称を持つ。

 高天神城は菊川下流域の平地部からやや離れた北西部に位置する。北の小笠山を中心とした標高200メートル前後の低い山地帯を抜けると掛川(現掛川市中心部)を中心とした盆地に出る。遠州灘に面した河口には浜野浦という港があり、中世には水軍の拠点として知られていた。

   

 AQUAは小夜の中山に入った。静岡県掛川市佐夜鹿に位置する峠。最高点の標高は252m。古くは遠江国の東部に属し、宿場では金谷宿と日坂宿の間に当たる。頂上には真言宗の久延寺、西側の麓の日坂宿の入口には事任八幡宮があり、多くの人々が旅の安全を願って立ち寄ったと伝わるほか、遠州七不思議の一つで、赤ん坊の泣き声を発したとの伝説を持つ夜泣き石がある。

 古くから、箱根峠や鈴鹿峠と列んで、東海道の三大難所として知られる。また歌枕として古今集などで歌われ、鎌倉時代初期に西行法師が詠み新古今和歌集に入れられた「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」の歌碑などが存在する。


 建武2年(1335年)の中先代の乱では、北条時行と足利尊氏双方の軍が衝突し、同年8月12日(1335年9月7日)に小夜中山合戦を行ない、今川頼国により名越邦時が討ち取られた。頼国の手による邦時の墓、とされる鎧塚が今も残る。戦国時代にもしばしば合戦場となっている。


 1880年(明治13年)には、小夜の中山を越えるルートではなく、現在の北側の沢伝いを開削した峠を越える中山新道(現在の国道1号および静岡県道381号島田岡部線の旧金谷宿までの区間)が建設された。当初は有料道路だったが、東海道本線の開通により利用者が減少したことなどから、1902年(明治35年)に静岡県に買い取られて無料化、1905年(明治38年)に国道となり、1932年(昭和7年)に小夜の中山トンネルが建設された。

 

 路肩にAQUAを停めて車内でキスをしてると、呂宋から澤山が見つかったと電話があった。上司のパワハラから耐え兼ね、沖縄に逃げていたらしい。

 電話を切った龍臣はいちいちうるせーと思った。

 最近、呂宋とゴルフに行ったのだがそれからチョクチョク連絡してくる。

 ラブホテルに入って、テレビをつけたらニュースをやってた。

 春子って女の生首が資生堂企業資料館のトイレで見つかったらしい。  

 桜は春子が菜奈の同僚とも知らず、「春子さーん」と桜木花道のマネをした。 

 そーいや、菜奈は最近、透明になっちゃうって言ってた。

 資生堂企業資料館は掛川駅から徒歩25分の賑わってるとこだ。透明になれる菜奈なら誰にもバレずに春子を殺せるはずだ。

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闇に叫べ!4 掛川殺人事件 鷹山トシキ @1982

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