真昼の蛍

増田朋美

真昼の蛍

今日も寒い日だった。やっと12月になって、寒さが本格的にやってきたようだ。まあ確かに、冬らしい天気は、嫌だなという人が多いけれど、多分きっと、もう冬というものがやってくるのは、ずっとあとになってしまう時代もそう遠くないかもしれない。

その日も製鉄所では、水穂さんが布団に横になりながら咳き込んでいた。また、朱肉の様な液体が、畳を汚した。はじめのうちは、誰も気が付かなかったが、たまたま偶然四畳半にやってきた杉ちゃんが、その有様を発見し、

「おいおい、気をつけてくれ!ちょっと、いつまで咳き込んだら気が済むの?」

なんて言ったのであるが、水穂さんの咳き込むのは止まらなかった。それを聞いた由紀子が、心配そうになって、

「水穂さん大丈夫?苦しい?ほら、苦しいなら、吐き出して、しっかり。」

水穂さんの背中を撫でて、中身を吐き出しやすくしてあげた。それと同時に出すものの中身がぐわっと姿を現した。由紀子は、薬を飲ませて、楽にしてあげようとしたが、水穂さんは、中身を受け取れず落としてしまった。

「あーあ、もうどうしてくれるんだあ。畳代がたまんないよ。」

杉ちゃんが、大きなため息を着いた。畳代のことを気にしている杉ちゃんに由紀子は、ちょっと腹がたった。

「大丈夫?」

と、由紀子の隣に、別の女性がやってきた。その女性は須藤有希だった。

「お医者さん、呼びましょうか?あたし、スマートフォンを持っているわ。」

と、有希は、由紀子に言った。由紀子もそれを同意して、有希に、医者を呼び出してもらった。数分後に、こんにちはという顔をして、柳沢裕美先生が、製鉄所に到着した。白い縁無し帽子を被って、茶色の着物に、茶色い被布をつけた柳沢先生は、医者というより、どこかの茶人とか、俳句を演る人みたいだった。

柳沢先生は、とりあえず、水穂さんに別の薬を飲ませて、咳き込むのを止めさせた。それでやっと水穂さんは楽になってウトウト眠りだしてくれたけど、畳の損害は大きなものであった。畳の張替えは、一枚につき二万くらいかかる。由紀子は、何も言わないで、タオルで水穂さんの口元を拭いてあげた。

「ちょっと油断すると、すぐこれなんだよな。なんで、こうなっちまうんだろう。良くなったかなと思ったら、すぐにこうやって、発作を起こすんだ。」

と、杉ちゃんが言った。確かに杉ちゃんの言うことは、合理的なものであったが、でも、なにか言っては行けないような響きがあった。

「まあ、こういうときは、しょうがないと思いながら、やっていくしか無いか。」

杉ちゃんは、腕組みをしてそういったのであるが、

「そうね。なんとかならないものなのかしら。このまま放置されていたら、いつまで経っても良くならないで、水穂さんが辛い思いをするだけだわ。」

と、由紀子が言った。

「あたしは、できることなら、水穂さんに元気になってもらいたいと思うけど。」

「まあ確かにそうだけどねえ。水穂さんのことを治してくれる病院も何も無いよ。柳沢先生が、来てくれるのも事情があるからでしょ。ほとんどの偉いやつは、水穂さんのような人が、どのくらい苦労してるかなんて、これっぽっちもわからないよ。それに、偉くなれば偉くなるほど、自分のことしか考えないからね。そんな、ナイチンゲール見たいな人なんて、簡単には現れないさ。」

杉ちゃんが由紀子の話に、すぐに反発した。

「そうですね。ちなみに、医療従事者の立場から言わせてもらいますと、詳しい検査をしなければわかりませんが、多分、かなり胸水が溜まっているでしょう。それを除去すれば、また楽になれると思うんですがね。一度やってもらうと良いと思うには思いますが、水穂さんもロヒンギャと同じところがあると思いますからね。」

柳沢先生が、杉ちゃんに言った。

「そうそう。全く同じというわけではないけれど、似たような感じだよね。まあ、きっとね、ロヒンギャも、俺たちはロヒンギャだから無理だって思いながら生活してるんだと思うけど。誰だって、そのままにしながら生きていくしかないんだよな。」

杉ちゃんと柳沢先生は、そういうことを言っているが、由紀子も有希も納得できないでいた。確かに、結論から言ってしまえば、誰でも、変えることができることとできないこととある。それは、そうなんだけど、なんとしてでも変えようとする人と、もうできないと思って、諦められる人と、人間は2つのタイプがあるらしい。男性は、だいたい諦めが付く人が多いが、女性はそうは行かない傾向もあった。由紀子と、有希は顔を見合わせた。

「まあ、水穂さんが、病院に行くには逆立ちしてもできないよ。それは、もうしょうがない事だからさ、もう仕方ないと思って、破っていくしか無いんじゃないの。どうせ連れて行ったって、門前払いになると思うよ。それで、いろんな病院たらい回しにされながら、逝ってしまったなんて言うのも可哀想だしね。それでは行けないから、やっぱりこのままでいるしか無いんだよね。」

杉ちゃんはそう言うが、有希も由紀子も、納得できないで顔で、なにかお互い考えている様な感じだった。

「まあ、柳沢先生、また来てください。よろしくおねがいしますね。」

と、杉ちゃんが、柳沢先生を玄関先まで送り届けに行った。有希と由紀子は、それを眺めながら、

「このままじゃ、納得できないわ。」

「そうね。なんとかして病院へ行けるようにしましょう。」

と、お互いに言い合った。

「大丈夫。あたしなら、うまくやれる方法がある。あたしは、女だもの。それを使えば、すぐにお金を稼ぐことだってできるわ。」

有希はなにかを決断する様に言った。

「でも、有希さんがそんなことできるかしら?」

由紀子が急いでいうと、

「できるわ。私、何度もそれでやってるんだから。今は、精神障害とか言われるけど、昔覚えたテクニックを使えば、すぐにできる。それくらい、大丈夫。だから、短期の金を用意することは、私に任せて。」

有希はすぐに答えた。そして、すぐにスマートフォンを出して、どこかにアクセスし始めた。由紀子はそれを見て、ちょっと怖くなった。でも、有希の持っているテクニックでなければ、水穂さんを救えないこともわかっていた。だから、彼女は、何も言えなかった。

それから、数日後。有希が製鉄所を訪ねてきた。えらく疲れた顔だったけど、でもにこやかに笑っていた。

「ほら、ここに、30万あるわ。」

と有希は、由紀子に茶封筒を渡した。

「30万ってどこからもってきたの!」

由紀子が思わずいうと、

「もちろん、自分の体を売ってためたお金よ。やり方はヨダカとか、そういうものと同じ。」

と、有希は、そういうのであった。ヨダカというのが、夜鷹のことだと分かる前に、由紀子は、少し時間がかかった。夜鷹というのは、江戸時代にあった私娼のようなものである。

「正確には、今の法律では夜鷹はできないわ。だから、静岡にあるピンクサロンで雇ってもらったの。幸いメンバーさんの少ないサロンだから、すぐに採用してもらったわ。良かったじゃないの。これで、お金の問題は解決だわ。水穂さんは確か、保険証が手に入らないと言っていたから、それだって30万あればなんとかなるんじゃないかしら。」

有希は、得意げに言った。

「しかし、よくそんな大胆なことができたものね。そんな事して、怖くないの?」

由紀子は、思わずそうきくと、

「いいえ。怖くないわよ。あたしは、愛する人のためなら、危険なことでも、どんな男とでも寝るわ。強いんだから。」

強いんだからと本人がいう場合、本人はあまり強くないことが多いのであるが、それでも由紀子は彼女の言うことは、すごいものだと思った。そうやって、女の魅力を使って、お金を稼ぐのはたしかに才能でもある。

「大丈夫です。あたしは、大金くれるなら、どんなやつでも平気よ。」

と有希は得意げに強がっていた。

ところが、この様を良い顔で見ていられない人物は、由紀子だけではなかった。実は、製鉄所を利用していた男性が、密かに有希に思いを寄せていたのである。名前は柚木亮太といった。男性は大体の人が会社で働いていることが多いので、製鉄所を利用する例は、あまり多くないが、たまにテレワークなどで使わせてもらいたいと申し入れるものが居る。そういう男性の中にも、問題があって、こさせてもらっている人もいるし、単に場所が欲しくて来る人も居る。背景などは様々であるが、男性のほうが、滞在期間が短いのも製鉄所の特徴と言えるかもしれなかった。その中でも、柚木亮太は、ちょっと男性らしくなくて、いわゆる合理的で計算高いといった、男性らしいところがあまり見られない人物だった。そんなわけだから、杉ちゃんたちも、彼のことは、ちょっと心配だなと噂していたところもあった。

「大丈夫です。あたしは、大金くれるなら、どんなやつでも平気よ。あたしは、そういう事は、もうなれてるから心配しないで。あたしにできることと言ったら、そうやって、中年の人たちと寝て、お金を持ってくることだわ。」

有希がそう言っているのを、亮太は、壁越しに聞いてしまっていた。それを聞いて、彼のほうが、有希よりも胸が締め付けられるような気持ちになってしまった。有希さん、また危険なところに手を出している。それは、悪いことじゃないかもしれないけど、危険すぎる。そういうことを言えたらどんなに良いだろう。もしかしたら、この製鉄所を管理している理事長さんだったら、言えるかもしれないが、でも、自分には、言えないのだった。こんな事言ったら、有希がどんな反応をするか。それを想像するのが怖かったのだ。有希がそうやって、お金を稼いでこなければ、水穂さんの医療費が払えないのも、亮太は知っていたし、他の人達が、有希の作戦に応じるしか無いことも感じていた。別に理論的にそう思うわけじゃない。けど、周りの人の、言動や話すことで、そう感じることができるのだった。そして、理論より感情のほうが、勝ってしまうタイプだったから、一度感じてしまうと、それに支配されてしまうのだ。

「それでは私、今日も水穂さんのために行ってくるからね。大丈夫、昨日、テレクラに電話したんだけどね、ちょうどいい人が見つかったのよ。それで私、頑張ってやってみるから。それでは行ってきます!」

そう言って有希は、スマートフォンを持って、製鉄所を出ていった。これはもしかしてと思った亮太は、有希のあとをついていくことにした。それと同時に、水穂さんが咳き込んだため、由紀子は、亮太が有希のあとを追いかけて行ったことには気が付かなかった。

有希は、タクシーを呼んで富士駅に行った。亮太は、ちょうどオートバイの免許を持っていたから、それでタクシーを追いかけることができた。大体製鉄所の利用者は、運転免許やバイクの免許などは持っていない利用者がほとんどなので、亮太のような利用者は珍しかった。逆に自動車よりもバイクのほうが、こういうときには、好都合なときもある。

有希の乗ったタクシーは、富士駅のタクシー乗り場で有希を降ろした。そして有希は、切符売り場に行った。亮太は、有希が買った切符の金額から、有希が静岡に行こうとしていることがわかったので、バイクに飛び乗り、国道1号線を走って、静岡駅に向かって先回りした。何も知らない有希は、静岡駅行の電車に乗った。

静岡駅に到着した亮太は、ホームから有希が出てくるのを待った。有希は、ホームから出てきて、駅で待機していた中年男性と一緒に、どこかへ行ってしまった。亮太は、急いで有希はどこに行ったのか探していると、近くにあったカフェに二人はいた。有希は困っていることを相談しているつもりらしい。自分は、良い家のお嬢さんで、良い学校を出て、会社でも働いているけど、居場所がなくて悩んでいる、そんなことを話していた。多分きっと、このままラブホテルにでも連れ込んで行くつもりなのだろう。何という、恐ろしいことをするんだろうなと、亮太は思ったのだった。いくら水穂さんのためとはいえ、自分の体を簡単に他人に売ってしまって良いものだろうか?亮太はそれは絶対に行けないと思った。有希と中年は、椅子から立ち上がり、中年が料金をしはらって、駅の駐車場に向かって歩いて行ったのであるが、亮太は、有希のあとを追いかけて、二人が、車に乗ろうとしているところで追いついた。

「ちょっとまってください!どうして有希さんの体を侵すような真似をするんですか。どうして、有希さんも、自分のことを守れないんです。そんな事したって、水穂さんは喜びませんよ!有希さんももっと自分のことを大事にしてください!」

思わず亮太は、有希に向かっていった。緊迫した状況になると、人は言いたいことを言えるものだ。亮太は、自分の顔には自身がなかったが、有希が、自分を見てくれたことが嬉しいと思った。中年は、なんだいこの青二才みたいなやつ、という顔をして有希を見ている。

「ああ、なんてことないわ。あたしが、仕事しようとしているのを、あの人が邪魔しているだけよ。」

有希は妖艶さを忘れないで、そういったのであるが、亮太は、有希が可哀想になった。決して、中年は有希のことを恋人だとか、そう思ってはいないのだ。

「有希さんは、あなたの欲望を満たすための道具じゃないんです。有希さんだって一人の人間なんですから!それを道具として利用しないでください!」

亮太は、思わず中年に言った。中年は、そうか、そうやって、騙していたのか、と有希を、車から落とすように降りさせた。そして、自分だけ車に乗り込み、有希をおいて車を走らせて行ってしまった。

「なんてことをしてくれたのよ!」

有希は激怒した顔で亮太を見た。

「もう少しで、お金に届くところだったんじゃないの!」

「そうですが。」

と亮太は言った。

「でも、むやみやたらに体を売ってしまうと、性病とか、そういうものにかかってしまう可能性もありますよ。有希さんがそうなってしまうのは見たくないんです。」

「何馬鹿なこと言ってるの!」

有希は亮太に言った。

「あたしができることといえば、こうする他になかったのよ!あたしのことなんてどうだって良いのよ。梅毒とか、そういうものは喜んでかかるわ。それで、水穂さんを救うことができるんだったら!」

「そうですが、有希さんがおかしくなってしまうのは僕は見たくありません!僕は、有希さんが、そうなってしまうのは、悲しいことだと思っているんです!」

亮太も負けじと有希に言い返した。周囲の人たちが、何を言っているんだこの二人という顔で通り過ぎていくのが見えた。

「有希さん帰りましょう。こんなことをして、お金を稼いだって、水穂さんが果たして喜んでくれるでしょうか?お金を稼ぐのなら、別のやり方をしてお金を稼がないと。自分の体を売るというのは、危険すぎると思いますよ。」

「わかってるわよ。その別のやり方が私にはできないから、こうしているんじゃないの。私は、もう就職もできないし。それなら、自分の体を売ってなにかするしか無いのよ。」

有希は、涙ぐんでそう言っているが、亮太は自分の意思を貫くことにした。もう彼女を危険な中年男性に会わせてしまうことは危険すぎると思った。

「そうですけど、やり方はきっとあるはずです。有希さんには、それが見つかって無いだけです。僕もそれを探して、生きています、仲間同士です。売春をして得た仲間ではなくて、こういう現実の仲間を大事にしてください。じゃあ、有希さん、帰りましょう。バイクの後ろに乗ってください。」

「わかったわ。」

亮太に言われて、有希は駅の駐輪場に向かった。亮太が、エンジンを掛けてバイクに乗ると、有希もそのあとに乗った。バイクが少しずつ動き始める。車と違い、体も露出しているから、風を直に感じて、流れるような走りができるのが強みだった。有希は亮太と一緒にバイクに乗って、国道一号線を走り抜けて、富士に帰ってきた。そして、バイクを走らせて製鉄所に戻ってくると、ちょうど、柳沢先生が、玄関先で草履を履いているところだった。

「どうですか、水穂さんは。なにか変わった事とか、ありませんでしょうか?」

亮太がそう柳沢先生にいうと、

「ええ、いつも通り、薬を飲んでもらって、今は眠っていらっしゃいますよ。」

と柳沢先生が答えた。有希は治療費を入手できなくて悔しそうな顔を一瞬見せたのであるが、

「いやいや有希さん。自分の体を売るなんて、そんな方法で水穂さんを喜ばすことはできやしません。由紀子さんもきっと悲しむでしょう。だから、有希さんはもっと自分のことを大事にしないと。」

亮太は、そう言って、有希の言動を訂正した。有希は、一言、

「そうね。」

とだけ言って、製鉄所の中に戻っていった。

「確かに、非合法的なものは、一瞬だけものすごいものの様に見えるけど、非常に大きな犠牲を払うもんですな。有希さんが、それに気がついてくれたようで良かったですよ。じゃあ、また何かありましたら、いつでも電話をくださいね。」

と、柳沢先生は、にこやかに笑って、バス乗り場へ向かって歩いていくのだった。亮太は送りましょうかといったが、いえ、バイクは乗れませんと柳沢先生に言われてしまった。

一方有希は、無一文のまま製鉄所に戻ってきた。有希が四畳半に入ると、四畳半の畳は、しっかりと朱肉の様な液体で汚れていた。また畳代がたまらないとか、そういうことを言われることになると思うけど、水穂さんの隣で、由紀子が、汚れた布団カバーをせっせと洗っているのが見えた。こういうとき、電気洗濯機は役に立たないことは、由紀子も知っているようだ。その由紀子の顔を見て、有希は、自分のしたことは、何だったんだろうか、と、考えてしまった。

「結局私は、何をやってもだめなのかな。」

有希は小さな声で呟いた。まるで真昼の明かりに照らされている、蛍みたいだった。





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真昼の蛍 増田朋美 @masubuchi4996

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