7


「――そろそろ時間だ。少しの間だが、話せて楽しかったよ」


 指の間に挟んだ煙草は残り半分。時間切れだと言うにはまだ早いが、その強い不安と胸の痛みにはもう耐えられそうに無かった。

 どうせ抱いたこの感情の正体を解き明かした所で、彼女にはもう二度と会う事は無いのだ。ならば、知って自身を決壊させるより、知らずに終える方が賢明だろう。


「じゃあな」


 ひらりと手を振り、彼女に背を向けた。 

 強く感じた名残惜しさが、自身をこの場に引き止めようと疼く。それを掻き消す様に、咥えた煙草の煙を深く吸い込みドアハンドルに手を掛けた。


 ――だが、5秒、10秒と経っても、その手に力は籠らない。


「……待って」 


 背に感じた、小さな衝撃と彼女の気配。

 縋る様にジャケットを掴んだ小さな両手は、僅かに震えている。


「行かないで」


 今にも破裂してしまいそうな程、鼓動が激しく脈打つ。これでは背後の彼女にも伝わってしまいそうだ。

 だが、幾ら心を鎮めようとしても、その鼓動は収まるどころか激しさを増していく。


「――此処にはもう、居たくないの」


 ドアハンドルから手を離し、ゆっくりと振り返る。


「――貴方と、一緒に行きたい。私も連れて行って」


 射貫く様に俺を見つめる彼女の瞳と、弱々しくありながらも芯の通った声。

 ホールの煩い笑い声も、グラスがぶつかり合う音も、まるで時が止まってしまったかの様に自身の耳へ届かなくなる。


 これはただの、貴族の気まぐれだろうか。退屈を凌ぐ、新しい玩具おもちゃ欲しさだろうか。

 そうであって欲しいと思う反面、このまま彼女を連れ去ってしまいたいと思うのは、自身が取るに足らない人生を送ってきたからなのか。


「――お前、正気か」


 圧倒される程の真剣な眼差しに、答えが分かっていながらも問う。それは彼女への問いでもあり、自分自身への問いでもあった。


「冗談なんかで、こんな事言ったりしないわ」

 

 その答えは、やはり想像通り。

 だがどうしても、今の自身には彼女が正気だとは思えなかった。そして、そんな彼女にどうしようもなく惹かれてしまっている自分自身も、きっと正気じゃない。


「――俺は、お前が思っている様な人間じゃない。外に出たいだけなら他を当たれ」


 僅かに残った理性で突き放し、彼女の手を払いのけた。その拍子に、彼女の手がジャケットから離れる。


「――貴方以外の人に、こんな事言ったりしない。それに、私は貴方がどんな人だって構わないわ」


 再び、彼女が此方へと手を伸ばす。だが、彼女が掴んだのはジャケットでは無く俺の左腕。逃がすまいと抱き着く様に掴まれた腕から、彼女の柔らかい身体の感触や熱が伝わる。


「――貴方と行きたい」


 耳や脳を刺激する彼女の甘い囁き声に、自身の中に残った僅かな理性が壊れていくのが分かった。

 脳内に響く今は亡き“彼”の言葉も、胸の痛みも不安も消えず、それは主張する様に加速し苦痛が重く伸し掛かる。だが彼女を奪い去りたい欲望も、それと同時に急速に増していった。


 ――これが間違いだって、分かってる。

 だがもう、どうせ何を言っても無駄だ。俺と彼女が出逢ってしまった時点で、こうなる未来はきっと避けられなかった。


「――仕方ねぇな」


 自嘲を漏らし、時間切れを表す短くなった煙草を柵の外へ投げ捨てた。

 バルコニーの柵に足を掛け、そのまま外側に身を乗り出し下の芝生へと飛び降りる。


「それなりの覚悟があるなら来い」


 此方を見下ろす彼女にそう告げ、手を差し出した。


 こうなる未来を止めたかった筈の彼は、今の自分を見てなんと言うか。馬鹿な奴だと笑うか、浅はかだと憤るか。それとも、自身の言葉は届かなかったのだと嘆き悲しむか。

 彼の性格をよく知った自分でも、彼の言葉を予測する事は出来ない。だが、好意的な反応を示さない事は確かだ。


 そう思いながら、ドレスの裾が美しく弧を描き風に舞うのを眺め、柵を飛び越えた彼女の手を取った。

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