第78話 その後のふたり

■■■■


 それから三か月後。


 テーブルにノートパソコンを置いて改稿作業をしていた翠は、スマホが振動していることに気づいた。耳からイヤホンを取り、YouTubeの画面を閉じる。


(尊さんかな?)


 昼前には戻ると連絡があった。もうすぐ到着予定時刻だ。


「………げ」


 ヒキガエルのような声が漏れる。手に取ったスマホの画面に表示された文字は、母。


 どうしようかと迷ったものの、一向に切れる様子がないため、ため息をついてタップした。


「もしもし? 何の用よ」

「何の用って……。引越したあと、あなた、なんの電話もメールも寄こさないから」


 初っ端から不満そうな母の声が飛び出して来た。


「住所は伝えてあるでしょう」


 他になにがいるのだ、と翠は眉根を寄せ、テーブルの上に散らかした原稿を片手で集める。丁寧に赤文字が入った原稿。時折、「このセリフ素敵すぎる!!!!!」と書いてあったりして、思わず口元がにやけた。


「いつ挨拶に来るのよ」

 ぶっきらぼうな母の声に、思わずきょとんと尋ね返す。


「なんの挨拶」

「あなたと同棲している人よ」


「あー……」


 引っ越すときに、母には「いまお付き合いしている人と一緒に住む」と伝えたのだ。


 なにしろ八川町に転居すると伝えた途端、「なんのために」「どうして」「意味が解らない」と母がパニックを起こしたのだ。


 そこで仕方なく、「一緒に暮らしたい人がいる」「いまのアパートじゃ手狭だから」「八川町が都合がいい」「まだ結婚とかは考えていない」と説明し、住所だけ告げて電話を切ったのだ。


「また時期が来たらそっち行くから」

「時期が来たらって……。あんた、今度もまた逃げられたらどうするの。だいたい、お父さんやお母さんに会わせられないような人なの? 無職なの? それとも売れない芸人とかミュージシャンとかじゃないでしょうね」


 なんでそうなるのだ、と翠は顔をしかめた。

 母には石堂の素性を一切伝えていない。だからこそ、妄想がはかどっているらしい。


「どれも違う」

「じゃあ、物書き仲間なの? 売れているの?」


「それも違う」


 うんざりして答えると、随分と押し黙ったあとに母はぽつりと言った。


「あなた、彩ねえさんには会わせているそうじゃないの」


 あ、それか、と気づく。

 八川町に引っ越すと聞いた途端、母はすぐに彩に連絡を取ったらしい。


『怪しげな姉さんの宗教活動に巻き込まないで』と鼻息荒く訴えてきたと、彩が苦笑いで教えてくれた。


『知恵、石堂さんのこと知らないのね? 私、うっかり「違うわよ。彼氏との新居にいい物件を見つけたからでしょ」って答えたら……』


 姉さん、会ったの? 私も会ってないのに、と怨めしそうに言われたのだそうだ。


『石堂さんの詳細は伝えてないから』と彩は言っていた。

 母は、その詳細がいつ来るのかと毎日やきもきしていたのかもしれない。


「なんでお母さんには会わせないわけ」

 ややこしいからだ、と怒鳴りつけたくなる。


「また逃げそうな人なの? 婚約破棄しそう?」

 聞いた途端、かちん、と来た。


「お母さんには、結婚式の当日に連絡するわ。それで安心でしょう?」

「ちょ……」


 まだなにか言いたげだったが、迷わずに電話を切る。

 ふう、と息を吐いた時、玄関扉が開く音に気付いた。


「ただいま戻りました」


 廊下から石堂の声が聞こえてくる。

 翠は慌てて立ち上がった。


「おかえりなさい」

 そう言って、とりあえず散らかったテーブルの上を片付ける。

 すぐにリビングダイニングの扉が開き、石堂が姿を見せた。


「ただいま。というか、スイさんもおかえりなさい」

 口元を柔らかく緩める。


 スイさん。


 対外的に翠を紹介する時は、「布士さん」と言うのだが、ふたりだけのとき、石堂は翠のことをそんな風に呼ぶようになっていた。


「弟さん、どうでした?」


 ぱたりとノートパソコンを閉じ、スマホをその上に置いた。手早くまとめたプリント用紙を揃えながら石堂の表情を見る。


「落ち着いている、というか……。静かに恨んでいる、というか……」

 石堂はネクタイの結び目に指を入れて緩め、翠の向かいの席に座った。翠もゆっくりと腰を下ろす。


「今度の病院でも診立ては同じだったようです。鼓膜自体は機能しているので……、失聴というより心理的なものではないか、と」


 彼は淡々としていた。

 憎悪も悲しみも感じられない。


 たぶん、もうずっと前から弟や両親に対して感情が動くことはなかったのかもしれない。他人事のように石堂は弟である嗣治の様子を翠に伝えた。


 石堂嗣治が意識不明で倒れた。


 その一報は長良を通じて入ってきた。


 河原で宴席を執り行い、石堂が心停止を起こしたあの一件の次の日だったと思う。

 亮太に関する事情聴取を警察で済ませ、さて研修施設に戻ろうかと思っていた矢先の出来事だった。


 その後、意識は回復させたものの。

 彼は聴覚を失っていた。

 音楽家として必要な機能を。


「やはり……。願いが成就されたからでしょうか?」

 翠が独り言ちる。


 真っ先に頭に浮かんだのはそれだった。

 息を吹き返したとはいえ、石堂の心臓は一度止まり、呼吸もしていなかった。


 いうなれば死んだ状態だ。


 石堂尊が死にますように。


 兄の死と引き換えに彼が差し出したものは、聴覚だったようだ。


「ですが、布士正雄はもう形を変えたと山姫は仰っていました。実際、目の前でドロドロに溶けて消えたわけですし。彼にそんな力が残っていたかどうか」


 石堂が訝しむ。

 彼は自らの定義づけを無視し、翠の肉体にこだわったために〝現状のかたち〟を留めることができなくなっていた。


「私とのやり取りを行う前に、尊さんの心臓止まってました。順番からいえばまだ呪いの効果はあったのでは?」


 翠は言うが。

 結局、真実はわからない。


 行方不明だった嗣治は、貸切スタジオで発見された。


 楽曲収録のために約束の時間にスタジオを訪問したギタリストが、昏倒している嗣治を見つけたらしい。

 すぐに救急車で病院に運ばれたが、原因不明のまま眠り続けた。

 意識を回復させたのは二か月後だ。

 認知機能障害や運動機能に障害はなかったが。

 音が聞こえない。


 嗣治は聴覚障害の原因を病院側に求めたが、そもそも「聞く」という機能に問題はなかった。


『あとは退院後心療内科でゆっくりと治療をしてほしい』


 担当医師からの説明に怒り狂い、暴力をふるった嗣治は強制退院させられたと聞く。

 その後も原因を求めて様々な専門家を訪ねたようだが、これといったものは見つかっていない。


 そこで、石堂の両親が長男である尊を呼び戻したのだ。


『嗣治も交えて今後のことを話しあいたい』と。

 石堂は実家に宿泊し、話し合いを終えて帰ってきたところだった。


「どうやら冬坂家が婚約破棄を申し出たようです。嗣治の結婚は一旦白紙に戻りました。将来的に弟に全事業を継承させる予定でしたが、いまから部分的に見直していき、わたしが徐々に会社を継ぐかたちになるだろう、と父は言っていました」

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