第76話 山姫
「ぎゃあっ」
悲鳴が上がった。まるで熱湯でも浴びせられたかのように正雄の手がただれていく。
「まったくなにごとじゃ」
半眼の榊が唇を動かした。
翠は咄嗟に耳を手で塞ぐ。
榊が発した音が、妙な音波に聞こえる。
ぼわり、と。
榊の声はまるで水の中で聞いたかのように歪み、くぐもって聞こえた。車で走行中にトンネルに入り、鼓膜が圧迫されている感じに似ている。
「のけ」
榊は目を細め、悠里を見ている。
「……え?」
短い息を吐きだしながら胸骨圧迫を続けている悠里だったが、榊を見上げて異変に気付いたらしい。
「誰……」
愕然と呟く。
悠里の表現は的を射ていた。
そう。
これは。
誰なのだ。
「
榊は抑揚のない声音で悠里に命じると、彼を押しのけて石堂の側に座った。
そして大きくひとつ息を吸い込むと、迷いなく石堂の唇に自身の唇を重ねる。
呼気を吹き込んだのだろう。
ふう、と。
大きく石堂の胸が膨らんだ。
同時に彼の身体からコールタールに似た漆黒の液体がにじみ出てくる。
「……ふ……っ。く」
榊が唇を離すと、石堂が呼気を漏らし、喉を掻きむしる。
「尊!」
悠里が腕を伸ばして横向きにしてやり、その背を撫でると激しくせき込み始めた。
「なんと汚いところか」
榊は小さく息を漏らして立ち上がり、右手を大きく振るった。
突風が山から川に向かって吹き荒れる。
川上から水がけば立つようにして川下へと流れていく。
悲鳴を上げる彩を咄嗟に翠は抱きしめ、堅く目を閉じた。蘆屋はその場でしりもちをつき全身を風に嬲られる。悠里は石堂の頭を抱え込んで風から守った。
中洲の竹だろう。
ごおおおおおおおお、と風を切って音を鳴らす。きぃぃぃぃぃぃぃぃ、と甲高い音を立てているのは
「ほほ、この身体はよく動くの。たいしたものじゃ」
榊の声にそっと目を開くと。
そこにはさっきまでの澱みや
河原は。
月光が澄み渡り、川は静かに流れ、さやさやと竹の葉が鳴る。
清浄な。
きわめて清浄な、場所となっていた。
(ここ……。見覚えがある……)
幼いころの記憶。
自分は、法事だと思っていた儀式のあと、伯母とこの風景を見ていた。
そして。
とても美しいと子ども心に感じていた。
「な……。なんだこれは」
震える声は正雄のものだ。
その場にいた全員が彼を見る。
正雄は河原に蹲り、ただれた右腕を抱え込んでいたのだが。
その身体が保たれていない。
足元から、ぐずぐずと溶けだしていた。
「お前。やってはならんことをしたな」
榊が。いや、榊の中にはいった者が冷ややかに正雄を見据える。
「やってはならんこと……?」
正雄は睨みつけたが、その顔も半分とろけて蝋細工のように流れ落ちた。
「契約の変更じゃ。お前は『二番目に大事なものと引き換えに、一番大事な願いを叶えてやる』と自らを定義づけたはずじゃ。魂だけの存在であるお前がこの世にとどまるには、存在意義と定義づけが必要」
ちらりと翠に視線を走らせる。
「それなのにあの娘の身体欲しさに、勝手なことをした。それはならぬ。それは今までのお前と違うものだ。お前は今から形を変えねばならない」
目をすがめる。
そのころには、正雄だったものはすでに泥の山となっており、ギラギラした瞳だけがこちらを睨みつけていた。
「そもそも巫者は
言うなり大きく息を吸い込み、口をすぼめて呼気を正雄に吹き付けた。
きぃぃぃいぃぃぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぃ。
あまりの高音域に翠と彩は互いに抱き合って悲鳴を上げた。鼓膜が破れんばかりに震え、身体中に鳥肌が立つ。
「
だがそれも数秒だ。周囲はまた、川の流れる音や葉のこすれる音で満ちる。
そっと目を開く。
そこには。
もう正雄の姿はなかった。
「消えた……、んですか」
翠が誰ともなく尋ねる。
「いいや。形を変えただけじゃろう。まだどこかにおるのではないか」
興味なさげな声がこたえる。
「山姫様で……、らっしゃいますか」
翠の腕の中で彩が様子をうかがう。
「いかにも。妾はあの山の主じゃ。そちは巫者か。……おお、名を覚えておるぞ。サイ」
榊は艶然と微笑むと、翠に瞳を移した。
「うぬはスイか。大きくなったものじゃ」
「こ……、このたびは! このたびはありがとうございます!」
翠の手から逃れ出た彩はその場で
「よいよい。巫者の一族とは昔から馴染みじゃ。この巫覡に呼びつけられたのは不愉快であったが」
ふん、と榊は。
いや、山姫は鼻を鳴らした。
「腹の立つ巫覡じゃ。妾とて準備というものがあり、手順というものがあるのじゃ。それなのに呼びつけて、身体を貸してやるから早く穢れを祓えなどと命じおって……」
山姫は微かに首を傾げ、石堂を見た。
「どうじゃ、気分は。まだ身体に穢れがおるか」
石堂は悠里に支えられ、河原に尻を付けて胡座をしていた。辛そうにネクタイを緩めていたが、山姫に話しかけられ、ゆっくりと首を横に振る。
「ありがとうございます。助かりました」
「この地は穢れがたまるのじゃ」
山姫は川の北側にそびえる山を見上げた。中空に満月が上がり、夜空に穴が開いたように見える。
「むかしむかし、人が大勢やってきての。都を真似て碁盤の目をした町を作り、風水に頼ってもみたが……。やはり穢れはたまる。妾はこう見えても人が好きでの」
ふふ、と山姫は笑った。
翠は思い出す。榊や悠里が言っていたではないか。Googleアースで見ると、この町はしっかりと条里制を残しているのだ、と。
だがそれは。
区画整理によって崩されつつあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます