第75話 願いを告げる覚悟はあるか

「ある」

 翠は振り返った。


 足裏で石が動き、ぐらりと体勢を崩したがなんとか踏ん張った。

 帯はすでにほどけて大きく歪み、おはしょりは伸びて裾を大きく崩してしまっている。その端《はし〉から襦袢が見えているが、そんなの気にもならない。


 さっき声は真後ろから聞こえた。

 だが、そこに布士正雄の姿はない。

 翠は周囲を慎重に見回し、声を張った。


「願い事を叶えて!」

 大声で呼ばわる。


 ひ、と小さく叫んだのは蘆屋だ。

 正雄、と険のある声を発したのは彩。

 翠は目を細めてすがめる。


 いた。

 出てきた。


 布士、正雄。


 白い開襟シャツに、膝の出たズボンをはいた青年。

 青白い肌に闇夜にとろけそうな黒髪を持った彼は、真っ直ぐに翠を見据えていた。


「石堂尊を生き返らせて!」

「代わりにお前の身体をもらうがいいか」


 淡々とした布士正雄の声に、翠は間髪入れず答えた。


「いいわ、持っていけばいい」

「みどり!」


 彩が悲鳴を上げ、よろけながらも立ち上がると、翠と正雄の間に割って入った。


「願い事の代償は、二番目に大事なモノのはずでしょう! お前から指定することはできないはず!」


「願いを叶えるかてとなるなら、なんでもいい。その娘の身体なら、俺は無敵だ」

 

 睨みつける彩を見て、片頬をゆがめて嗤った。

 その後、翠を一瞥する。


「後悔はないな?」

「生き返らせてくれるのよね、この人を」


 翠は河原に横たわる石堂を指差した。そのすぐそばでは荒い息で悠里が胸骨圧迫を続けている。


「ああ」

 ぞんざいに正雄は頷いた。


「なら……」

「あいつに身体の主導権を握られたら、廃人になって死ぬだけよ!」


 彩が翠の両肩を掴み、必死になって訴える。


「もう、石堂さんにも会えないし、小説だって書けない! それでもいいの⁉」

「小説……?」


 伯母の口から飛び出した予想外の言葉は、つぶてになって翠の心を打った。ようやく翠に言葉が届いたとばかりに彩は掴んだ肩を揺さぶる。


「そうよ! あなた……、あなたずっと夢だったんでしょう!」


 翠が文章を書き始めたきっかけは単純なものだった。

 高校時代、現国の教師に褒められたのだ。

 そんなことが、きっかけだった。


 一年生の時、くじびきで翠は図書委員になった。

 主な仕事は図書室にある本の整理と貸出管理。それと、毎年夏に書く読書感想文の提出だ。


 高校生にもなれば必須の課題でもない読書感想文は図書委員以外誰もやらない。翠はこれも仕事だと割り切って書いたのだが、思いのほか教諭に褒められた。


『あなた、小説書いてみない?』

 教諭はそう言って帰宅部だった翠を文芸部に引っ張り込んだのだ。


 今から考えれば、万年部員不足の補充をする教諭の上手い手口だったのだろう。

 だが文章を書く面白さを教えてくれたのは確かにこの教諭だった。

 技巧や創作論を教えてもらった覚えはまるでない。そういったことは翠の場合デビューしてから編集に仕込まれたようなものだ。


 教諭が翠に伝えたのは、頭に浮かんだ物語を文章化し、誰かに伝える楽しさだった。


 新人賞に応募しては落選を続ける翠だったが、友人で部員でもある美佳とは笑いながら言ったことがある。


『おばあちゃんになってデイサービスに通っても、私たちノートパソコン持ち込んで書いている気がする』と。


 翠にとって「文章を書く」というのは高齢になっても続けているものだった。

 生きてる限り、やり続けることだった。


 たとえそれが誰の目に触れずとも、翠は翠の考えた世界を創造し、紡ぎ続けるものだと自然に考えていた。


「覚悟はあるか」


 低い声が聞こえてきた。

 翠は顔を動かす。

 伯母の後ろには、布士正雄がいた。


「みどり!」


 叫ぶ彩の腕を解いて、翠は彼の前に立った。

 布士正雄のぬばたまの瞳をみつめ、頷く。


「ある」

 断言した。


 デビューしたものの、何度も何度も否定的なことを言われた。

 あなたの物語のなにが面白いのかわからない。これでは売れない。

 書籍化したものの、落ち込む言葉しかもらわなかった。


 起承転結もしらないのかと指摘され、あなたには勢いだけしかないと吐き捨てられた。

 君だけにかまけている時間はないんだ、と舌打ちされて、眠れないぐらい落ち込んだこともある。


 翠が大事に紡いできた文字は、他人にとっては価値がなかったのかもしれない。必要とされなかったのかもしれない。はっきりとは言われなかったが、満足いく結果を残せなかったのだろう。


 だけど。


「私にとって文章を書くことは価値がある」


 翠は正雄に言い切った。

 文字を書かない自分など今では想像ができない。


「だけど、彼の命ほどではない」

 翠は言う。


「持っていけばいい。私のすべてを」

「いい覚悟だ」


 正雄は頬をゆがませた。

 嗤ったのかもしれない。


 その後、手を伸ばして翠の頬に触れようとしたのだが。


「その覚悟、気に入った」

 榊の声が聞こえた。


「山姫を呼んでやろう」


 同時に鞭のように竹の枝がしなり、正雄の手を打つ。


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