第74話 ここには、あいつがいる
「な……」
翠は息を飲む。
窓や扉。コンテナのつなぎ目。ありとあらゆる
「血だ」
「血の匂いがする」
「ごちそうだ」
「たまらんな」
突如沸き起こったざわめきは、虫の羽音に似た不快さを伴っていた。翠は咄嗟に両耳を塞ぐ。
だが。
「お姉さん! 尊を移動させる! 手伝って!」
真っ青になった悠里が石堂の左腕を掴み、立ち上がらせようと必死になっていた。
翠は無言のまま首を縦に振り、手を伸ばす。
その瞬間。
月が、陰った。
それまでほのかに明るいほどだったのに。
いきなり周囲が闇に包まれる。
悠里のヘーゼルナッツ色の瞳が大きく見開かれ、真上を見ていた。
つられて翠も顎を上げる。
そこには。
空を埋め尽くさんばかりに広がった黒い粒子があった。
「なんだあれ……。霧……? 蚊柱……?」
蘆屋が震える声で呟くのが聞こえた。
「逃げろ、悠里くん!」
榊が叫ぶ。
だが誰も動けない。
一拍ののち。
重力に引き寄せられるように、その黒い粒子は翠と悠里、それから石堂めがけて落ちてきた。
「みどり!」
彩の悲鳴と、手持ち花火が爆ぜるような音は同時に聞こえた。
肩に力を籠めて首を竦ませていた翠だったが、破裂音というよりなにかを弾けさせている音にそっと目を開く。
「……な……っ」
ぎょっとする。
自分の周囲がうっすら
「あ……、あんた、光ってるぞ」
声の方に顔を向けると、蘆屋がトラロープの先を持って自分を指差している。
(光る……?)
いや違う。
間断なく聞こえる爆ぜる音。
それは黒い粒子が自分に触れ、はじける音だった。
消滅する間際、黒い粒子は白い光を放つ。それは滝が飛沫を飛ばす様子に似ていた。
『お姉さん、はじく人だからなぁ』
悠里が以前言っていたことを思い出した。
(……これ、はじいているの……?)
茫然と自分の手の平を見ていた翠だが、苦しそうに咳き込む悠里に気づいて慌てて這いよる。
悠里は河原に四つ這いになり、ヘドロのような黒い液体を身体中にまとわせて咳き込んでいた。
「悠里君、悠里君!」
必死になって彼の背をバチバチ叩くと、そのたびにヘドロは千切れて霧散した。
「ぼ……、ぼくより、あっち……っ」
いがらっぽい声で悠里は言うと、顎を拭って指を差す。
翠はその先を見た。
石堂だ。
墨汁でもぶちまけられたかのように真っ黒に濡れている。
「尊さん!」
翠は片手で身体を支え、手を伸ばす。ぐらり、と支えた手の下で石が動き、バランスを崩して顔から転んだ。したたかに顎を打ったが、それでも這いながら石堂の元に行った。
「尊さん、尊さんっ」
必死になって真っ黒な液体を拭う。
手で触れると静電気のような火花を散らしながら液体は蒸発し、服や皮膚は元の色を取り戻した。
しゅうしゅうと湯気のような粒子が宙に舞うその奥に。
布士正雄を見た。
「願いは成就した」
目が合うなり正雄は表情を変えずに翠に告げた。
「……どういうこと」
問いただしたいのに唇から洩れたのは情けない囁き声だ。
『石堂尊が死にますように』
あの日見た紙切れが脳裏に浮かぶ。
中洲の
紙に記されて供えられたあの願い。
翠はゆっくりと石堂に目を向ける。
ぴくりとも動かない。
「尊さん! ねぇ、尊さん!」
翠が悲鳴を上げた。
悠里が駆け寄り、うつ伏せに倒れている彼を強引に仰向けにする。
腕の傷に視線を走らせたものの異変に気付いたのか、口元に耳を近づける。
「……悠里君」
慌ただしく動く悠里とは逆に、翠は全く動けない。河原に尻をつけ、声を震わせながら悠里に尋ねる。
「ねえ……。なにしてるの」
「尊が息してないっ!」
怒鳴りつけるなり、悠里は石堂の胸部を圧迫し始めた。
「やだ……。ねえ、なんで……っ」
翠の口から情けない涙声が溢れる。
「穢れを寄せすぎたんだ。君に出会うまでは瀕死に近かったからね」
気づけばすぐ側には榊と彩がいた。
榊は竹の枝先をぶらぶら揺すりながら石堂を見下ろしている。
「もともとほら。スポンジのように彼、穢れを吸い込んじゃうし」
しゃらしゃらと榊の振る竹の葉が鳴る。
「お姉さん、時間見て! 心停止からの時間計って! 誰か救急車!」
胸骨圧迫を続けながら悠里が叫んだ。
「お、おれが呼ぶ!」
トラロープを握ったまま蘆屋は挙手をしたものの、スマホ自体はテントだと思いだしたらしい。捕縛した亮太を引っ立てるようにしてテントに戻っていく。
「みどり、あなた大丈夫……?」
彩が涙声で尋ねる。だが翠は返事すらできない。痺れたように動けない。そんな翠を彩は跪いて抱きしめた。
「彩さん、山姫様の息吹はまだなのかい?」
ごう、とひとつ大きな風が吹いた。
榊が見ているのは自分が持つ竹の枝だ。風にはためき、よじるように動いていた。
「一か八か……。姫神様の息吹で石堂君の穢れを吹き飛ばせないかな」
「まだ時間が……。まだ早い」
彩が涙声で首を横に振る。
「どうすんのさ、じゃあ!」
荒い息で悠里が尋ねた。
「救急車! 救急車あと30分はかかるって!」
蘆屋がスマホを耳に押し当てながら怒鳴る。亮太はテントの脚に括り付けてきたらしい。河原の石に何度も足を取られながら戻って来る。
「救急車全部出払ってて……、隣の区から呼ぶらしい。心肺蘇生を続けてくれって!」
「こんなの医療につなげなきゃ無理だよ!」
悠里が汗を滴らせながら怒鳴り返す。
「これは、無理かな」
ひとりだけ場違いなほど冷静に榊が呟く。
「石堂くん、もともと長くなかったしなぁ」
「榊さん……っ。笑えねぇ冗談だよっ」
噛みつかんばかりに悠里が牙を剥いた。
「無理じゃない……」
翠の口から言葉がこぼれ出た。
そうだ。無理じゃない。
翠は彩の手を振り払って立ち上がった。
「ここは禁足地……。あいつが……。あいつがいる」
呟いた直後。
「願いを告げる、覚悟はあるか」
すぐ真後ろから低い男の声が響いて来る。
布士、正雄だ。
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