第73話 穢れ

 からり、と。

 横開きと扉を開き、翠は右手と左手にそれぞれ空いた一升瓶を抱えたまま、河原を歩き出す。


(伯母さん、汁物を出すって言ってたけど……)


 もう温めなおしは終わっただろうか、と顎を上げた。

 調理用のコンテナはテントの奥にある。

 テント内はLEDカンテラがつるされているせいで、そこだけくっきりと明るくみえた。


 悠里がはしの方でうずくまっているが、簡易テーブルの側に榊と蘆屋がいて、それぞれクーラーボックス内を物色している。石堂の差し入れだろう。


(尊さんは?)


 どこだろうと見回す。

 彼は悠里と少し離れた場所で、三人に背を向けるようなかたちで電話をしているらしい。


 悠里がうずくまったまま振り返り、石堂に何か言っている。

 石堂がそれに反応しかかったのだが、凍り付いたように動きを止めた。


(どうしたのかな)


 歩き出した翠の耳に、いきなり足音が飛び込んできた。

 顔を音の方に向ける。


 薄暮に沈む土手から河原に向かって、男がひとり駆けだしていた。


「……え?」

 身体を竦ませ、目を凝らす。


 それはみのを被っているように見えた。

 動くたびに葉や小枝、落ち葉が男から舞い落ちる。


「みぃ」

 ほがらかな声。


「りょーた」


 声がこわばったのは陽気に笑う彼の手にナイフが握られていたからだ。


 土手を駆けおりるというより、前のめりになりすぎて途中で転んだ亮太は、だがすぐに立ち上がって、笑いながらナイフを持つ手を翠に向かって振る。


「おれと一緒になろう!」

 大声でそう言うと、翠に向かって突っ込んできた。


「布士さん!」

 視界の隅にテントから飛び出してくる石堂が見えた。


「尊⁉」

「尊くん!」


 悠里と榊の声が追いすがるが、石堂は足場の悪さをものともせずに翠に向かって走ってくる。


 翠は足を動かして逃げようとするのだが、身体がぴくりとも動かない。

 逆に鈍い痛みと重さが背後にあった。


「動くな」


 男の声。

 震えながら視線だけ後ろに向ける。


 そこには。

 開襟シャツの男がいた。


 布士正雄だ。


「あ……、あ……」


 意味のない声が漏れ、額から汗が噴き出す。動こうと思うのに、後ろから正雄に抱きすくめられているから身じろぎさえできない。


「か……」

 風が吹くわよ。


 そう言おうと思うのに舌がもつれ動かない。唇が痺れた様に痙攣した。


 動けない。

 声すら発せられない。


「あああああああああ!」


 最早雄たけびのようなものを上げて亮太がナイフを構え、突っ込んでくる。

 翠はきつく目を閉じ、来るであろう痛みに備えたのだが。


「布士さん!」


 石堂の声と同時に横からどん、と衝撃が来た。

 同時に身体が揺れ、転倒する。


 こめかみに痛みが走るが、想像していたような切りつけられたものではない。


 ぎゅ、と自分を抱きすくめる腕。首にかかる荒い息。

 翠は目を開ける。


「尊さん!」


 悲鳴を上げた。

 自分にのしかかるように倒れている石堂の端整な顔は歪み、痛みのためか食いしばった歯から荒い息が漏れている。


「あんた、なんなんだ!」


 蘆屋の怒声が間近で聞こえたと思ったら、血の滴るナイフを持つ亮太に掴みかかっていた。もみあっている。


「尊さん! 尊さん!」


 翠は震えながら石堂の腕から逃れ出る。着物の裾をはだけたまま、河原にうつ伏せに倒れこむ石堂を見た。


「尊っ、刺されたのか!」


 膝立ちになり、石堂の傷を確認しようとしていると、悠里が駆け寄ってきた。さっきまで翠が持っていた空き瓶を蹴り飛ばし、場所を確保する。


「これだ……っ。止血………っ」


 悠里が出血箇所を見つける。どうやら傷は右肩らしい。

 おびただしい血が溢れ、スーツと言わず河原の石や土を汚していた。


 がちがちと顎を鳴らしながらも翠は帯揚げを引っ張り出し、悠里に渡す。


「尊、ちょっと触るよ」


 顔を近づけ、痛みをこらえている石堂に話しかける悠里の側で、蘆屋がトラロープで亮太を拘束しているのが見えた。亮太は無抵抗だ。ただ、天を見上げて「あははははは」と虚ろな笑い声をたてている。


 その笑い声を潰したのは、榊の声だった。


「悠里くん! だめだ、そこから石堂くんを移動させろ!」


 テントから榊が飛び出して来た。


「え?」

 悠里と翠は声をそろえて彼を見た。


「血の匂いに穢れが寄ってきた! 石堂くんが飲まれるぞ!」


 血相をかえた榊が翠たちの背後を指差す。


 コンテナだ。

 彼の視線はコンテナに釘付けだった。


 翠は不揃いの石の上に膝をつき、腰をねじるようにしてコンテナを見る。

 宴席が開かれているコンテナ。


 そこから。


 一斉に漆黒のもやがあふれ出していた。

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