第69話 祭事

□□□□


 次の日。

 翠と彩は河原に設置されたコンテナ内で着替えを済ませていた。


「さあ、これでいいわ」

 翠の向いに膝を立てて座り、おはしょりと裾の長さを整えていた彩が立ち上がる。


「私、ずっと伯母さんは赤のロングスカートを履いていたんだと思ってた」

「あら、そう」


 するりと立ち上がった彩の姿を見て、翠は自分の思い違いに気づく。


 袴だ。

 巫女姿だったのだ。


 翠が法事だと思っていた祭事。あれに彼女は緋袴で参加していた。


「私が若いころの振袖だけど……。まあ、なんとか丈があったわね」


 彩が目を細めて翠を見つめる。

 改めて自分の姿に視線を走らせた。


 翠が着ているのは深紅の振袖だ。金色の帯に桃色の帯揚げ。翠の年齢からすれば釣り合わない。そのせいで照れくささがあった。


「さあ、今から忙しくなるわよ」

 彩はコンテナ内を見回した。


 いくつも並べられた簡易長机には木製の折箱がずらりとならんでいる。一見するとまるで仕出し屋だ。中身は朝早くから翠と彩が作った料理だった。


 昼食も立ったまま、ふたりでおにぎりを頬張って済ませ、ただひたすら煮物や酢の物、てんぷらなどを作り続けた。


 つい一時間前、彩に命じられて買い物を済ませた石堂も手伝って、折箱に詰め終わったところだった。


「よくなびいている」

 窓に近づき、彩は外を見ている。


 もう暗いからだろう。窓が鏡面化している。

 翠は彩が見ているものを追う。


 河原に一本だけ立てられた竹だ。

 倒れないように石で固定され、縄を張って杭で留めている。


 音までは聴こえないが、山から吹く風に先端の葉枝を大きく左右に揺らしていた。

 あの竹は彩が選び、中洲から伐り出してきたものだ。


 つい数時間前までは二本あった。朝から夕方まで河原にはその二本の竹が立たされ、風を受けて盛大に揺れていたのだ。


 夕刻になり、彩の指示のもと蘆屋建設の作業員が一本だけ倒して先端を切り取った。その先端は彩が捧げ持ち、もう一基用意したコンテナの中に入れている。


「いままでずっと、伯母さんはひとりで続けてきたの?」

 ふと彩の背中に尋ねる。


 おぼろげな記憶だが、自分が法事だと思い込んでいた儀式には、伯母の姿しかない。


「そうね。あなたにとってはおばあちゃんにあたる人が死んでからはずっとひとりでやってきた」

 視線を翠に向け、彩は柔らかく微笑む。


「母も自分の母からその役目を受け継いでいたから、自然に自分もそうするものだと思っていた。昔は……私の跡を継ぐのはみどりしかいない、って考えてもいたのよ。だけどねぇ」

 ほう、と彩はひとつ息を漏らした。


「もう、そんな時代ではないでしょう? 祭りや自治会行事どころか……。いまは、自治会にも入らないというひとまででてきて……。おまけに、行政が立ち退け、でしょう? 立ち退いたあと、私たちの住んでいたところには新しく道路が作られて、ビルが建って……。だったら、もういいんじゃないか、って思ってね」


「もういいって?」

 翠が尋ねると、彩はほんの少し口端を下げた。


「面倒な手順や儀式を踏んでまでこの地を守る意味があるのかしら。だって、どんどん私たちの町じゃなくなるのに」


 伯母の言いたいこともわかる。

 布士家がしてきたことというのは、この地を浄化することと、住民たちを穢れから守ることなのだろう。


 だけど。

 土地の歴史も知らず、祭りに興味を示さず、共同体の一員であるということを放棄している人たちに、布士は必要ない。


 かたかたかた、と風に窓が揺れた。彩は再度窓に目を向け、「だけどね」と彩はつづけた。


「久しぶりに戻って来てみて……。よどんで不穏な気配を漂わせている町を見たら……。なんか、悲しくなってきてね」


 彩は翠と目を合わせると、苦笑を浮かべた。


「ここはもっといい町なのよ、空気もきれいで、川も美しくて、なにより山姫様が守ってくださる素晴らしい町なのよ、って……。言ってやりたい気持ちはあるのよ」


「伯母さん……」

「でも、だからってまた昔みたいにお役目をするつもりはないの」


 彩は慌てて手を横に振った。


「だって、誰にも求められていないんだもの」


 寂し気に彩は言う。

 そう、そこなのだろう。


 布士家はこの地の住民に必要とされ、自分たちの役割を果たしていた。

 だがいま、それは求められているのだろうか。


 ふと、翠は伯母が迷っているのだと感じた。

 昔のような町でいてほしい。そのための力はあり、手順なら知っている。経験値も持っている。


 だがそれをするべきなのだろうか、と。

 もし、したとしても、それを次に引き継がせるべきなのかどうなのか。


 いろんなことに迷い、ためらい、悩み、答えが出せないのだと感じた。


「……結果的にそれでこの町が平穏になるのなら」

 翠はそっと伯母に声をかけた。


「私、昔みたいに伯母さんを手伝うけど。ほら、いまは無職みたいなもんだし」

 わざと陽気に笑って見せると、彩も調子を合わせて笑った。


「ほら、そういうところよ、あなたの悪いところは」

 彩は苦笑する。


「おばさんのことはあなたにとってどうでもいいこと。もし時間的に余裕があるんなら、あんたはベストセラーをかきなさい、ベストセラーを」

 そう言って、軽く翠の肩を小突いた。


「長年の夢がかなったんだから。このチャンスを大事にしなきゃだめよ」


 彩は言うなり、ぱん、とひとつ両手を打ち鳴らした。これでこの話はおしまい。そんな気配だった。


「さあ、行きましょう」

 彩に促されて翠は草履をはいてコンテナを出る。


 二十時。

 外は月明りもあり、思っているよりも明度がある。いや、川面が月を反射しているせいかもしれない。夜というより薄暮だ。

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