第67話 もうすぐ行くよ

「嘘だ!」

 ひきつった声がスマホから聞こえてきた。だが石堂はしゃべり続ける。


「その不倫相手から結婚を迫られているとか。自分たちの子どもが欲しい、と」

「でたらめだ! なにを根拠に……! 名誉棄損で訴えるぞ!」


「訴えても結構。どちらが真実なのか法廷で明らかにしましょう。静香さんもそれを望んでおられるのでは?」


 冷ややかに告げてから黒瑪瑙の瞳を翠に向けた。


「静香さんは子育てについて全面的に実家を頼りました。そのことが悪かったのだとひどく反省されておりまして……。夫の居場所を奪ってしまった、と」


 端的な説明ではあったが翠は何となくわかる。


 初めての育児。しかも重責を担う仕事をしながらのことだ。

 頼りにするのは自分の実家になるだろう。結果的に亮太は育児や家事の戦力から外された。


 いや、そもそも妻の目から見ても亮太は戦力外だったのだろう。


 付き合いがあった翠ならわかる。


 彼は口だけなのだ。

 理想と現実は違う。


 子育て中は毎回計量カップや計量スプーンで計って料理ができるわけではない。臨機応変に対応しなければならず、かつ、その日の子どもの気分や体調で予定は変わる。


 亮太にはそれがわからない。理解できない。


 きっと妻である静香の努力不足だと指摘したことだろう。


 亮太はなにもしないのに。


 この男はなにもわかっていない。

 妻からそう判断を下されたことも彼にとってはショックだったのだろう。


 だから。

 妻以外で自分の承認欲求を埋めてくれる女を探した。


「でも、もう子育てはりだと思ったから、私に連絡をしてきたってこと?」


 翠は尋ねる。

 考えているよりも冷ややかな声が口からもれた。


 妻とうまく行かなくなった決定打は‶育児〟だ。


 子どもは欲しい。欲しかった。

 だけど、もうこれ以上の子どもはいらない。


 今の不倫相手はそれなのに、亮太との間の子を望んだ。


 彼にとってはさぞかし迷惑なことだろう。

 その時にふと思い出した。




 翠の存在を。




 布士翠は。

 子どもができない。


 望まなければ。


「最低」

 吐き捨てると、「違う!」とスマホから悲鳴が上がった。


「俺は本当にお前ともう一度やり直したいんだ! 俺が間違っていた! あの時みぃを手放すべきじゃなかった!」


「ですがあなたは手放したんです。そして今はわたしのものだ」

 きっぱりと石堂が告げる。


「みぃ、騙されるな! その男は玉の輿でもなんでもないぞ! 弟とだって仲が悪くてあの婚約式でも暴行騒ぎを起こしたんだ! お前だって被害者だろう⁉ 結婚しても苦労……」


「玉の輿なんて思ったことないし」

 翠は言葉を断ち切った。


「あなたは玉の輿だと思って静香さんと結婚したのよね。だからって私も同じだと思わないで」


 きっぱりと告げる。


「……みぃと幸せになるのはおれだ」


 亮太の声に不穏な音が重なる。


 かさかさかさかさかさ。


「……ねえ、りょーた。あんたいまどこにいるの?」

 翠は眉根を寄せる。


 かさかさかさかさかさ。


「いま? どこだと思う?」


 含み笑いが濁る。


 かさかさかさかさかさかさ、という音に。


「この音なに。りょーた」

「おれにはみぃしかいないんだよ、ふくしゃちょーさん」


 ぞんざいに亮太は石堂に声を投げつけた。


「ねえ、りょーた。あんた今どこに……」

「この町って、みぃが生まれ育った町なんだってな」


 その言葉を最後に通話は切れた。


「……まさか八川町に……?」

 眉を曇らせて翠は石堂に尋ねる。


「そのような口ぶりでしたが……」

 石堂も険しい顔で暗転したスマホを見つめた。


 ざああああああああ、と。

 風が木々を揺らす音がした。


 咄嗟に窓に顔を向ける。

 ガラス張りの観音扉。


 そこに一瞬。

 葉で覆われた男の姿が映った。



 かさかさかさかさかさかさかさ。



 葉擦れの音を立ててぽかりと口部分が開く。



 かさかさかさかさかさかさかさ。



 音を立てて葉を落としながら、その男は。


 みつけた


 そんなつぶやきを漏らす。


「………な……っ」

 反射的に石堂にしがみつく。



 ざああああああああああ、と。



 大きく風が吹き、密集した葉はあっという間に元の枯葉に戻り夜の闇に散って行く。


「大丈夫です」

 石堂は翠の肩を抱く。


「この研修施設にいる限り、我々は大丈夫」


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