第66話 亮太のこと

(……何の用よ)


 嗣治の婚約式の日。翠は手ひどく彼を拒絶したはずだ。


 謝罪だろうか、と咄嗟に考えた。


(だったら……とるべき……?)


 手を伸ばしかけてためらう。その謝罪を自分は受け入れるのか、と。受け入れねばならないのか、と。


 惑う目の前で執拗にスマホは振動する。

 翠は下唇を噛み、仕方なくスマホをタップさせてみ耳に当てあた。


「もしもし?」

 できるだけ単調な声で問いかけてみた。


「みぃ? よかった。今大丈夫か?」

 明らかに安堵した声が耳に滑り込んでくる。


「大丈夫じゃない。今から夕飯作るの」

 答えると、くすりと笑った。


「みぃの手料理は目分量ばっかりだったよな。ちゃんと計った方がいいぞ」

「余計なお世話よ。世間話なら切るけど」


 淡々と告げると、電話の向こうでは戸惑った声と。


 かさかさかさかさ、と。

 なにかが擦れる音がする。


「待って、切らないで。この前のことを謝ろうと思って」

「この前って?」


「ほら。親愛コーポレーションの婚約式の……。あの時、おれ……お前を傷つけたよな」


「謝っていただかなくて結構。話がそれだけなら切るわ」


 耳からスマホを外したのだが「待って」と再度制止の声が上がる。


 かさかさかさかさ。

 やはり音がする。

 葉擦れの、音が。


「みぃとは昔の関係に戻りたいんだ」

 聞いた途端笑い声が漏れた。


「なにそれ。不倫したいってこと?」

「違う。妻とは別れる」


「それこそ不倫男の常套句でしょうよ」

 情けなくなってくる。自分が過去に付き合った男はこの程度か、と。


「本気なんだ。本当にみぃとやり直したい」

 切実な声が聞こえてくるが、翠の心はどんどん冷めていく。


「迎えに行く。一緒に幸せになろう」

「迎えに行くって」


 翠は吹き出した。


「知ってるでしょう? 私は今、別の人とおつきあいしているの」


 もう切ろう。

 指をパネルに這わそうとしたが。


「突然申し訳ありません」


 背後からいきなり声が聞こえてきて翠は小さく悲鳴を上げ、スマホを取り落とす。

 それを素早くつかんだのは石堂だった。


「誰」


 訝し気な亮太の声がスマホから聞こえてくる。


「白石不動産会社の亮太さんですよね? 会話させていただくのは初めてでしょうか」


 石堂だ。いつからそこにいたのかと翠は目を丸くする。


「え? 尊さん……。仕事は?」

「なんだか胸騒ぎがして早めに終わらせました。やはりわたしの勘は当たりますね」


 つかみ取った翠のスマホをスピーカーにすると、テーブルの上に置いてにこやかに話しかけている。


「親愛コーポレーションの石堂尊と申します。なにやらただごとではないお話のようで驚きました。ところで」


 ふふ、と石堂は笑う。


「布士翠さんの現在の恋人はわたしです。横やりをいれるのはやめていただきたい」

「あ……、あんたにっ」


 怒鳴り声がスマホから流れだした。

 語尾には。


 かさかさかさかさ、と。

 乾いた音が重なる。


「あんたにみぃの何がわかるっていうんだ!」


 焦る亮太とは逆に石堂は余裕の笑みを浮かべている。


「ええ、もちろん布士さんのすべてをわかっているなどと傲慢なことは思っていません。ですが、わたしは亮太さんのことであれば多少耳にしていることが」


「りょーたのこと?」

 つい翠は口を挟む。石堂は笑みを崩さない。


「ええ。亮太さんは布士さんと別れたあと、すぐに友人の紹介で白石不動産会社の社長令嬢であり、副社長でもある静香さんと出会いました。彼女とは副社長という立場もあって交流があるのです」


 スマホの向こうで明らかに息を飲む気配があった。


「あ……。婚約式のとき」


 翠は声を漏らす。

 そう。彼は亮太を知っている素振りだった。石堂は翠を見つめて頷く。


「社長であるお父様と静香さんは大変仲が良く、うちとは正反対で……。本当にうらやましい限りです。亮太さんはご存じないようですが、おふたりの結婚時にはわたしは祝電とお祝いの品をお送りしました。もちろん、お子さんが生まれたときにも」


 石堂は柔らかな声音で話し続ける。


「静香さんとはときどき近況報告を兼ねてお話をさせていただいているのですよ。もちろん、ご結婚のときも。家業については静香さんが全面的に引継ぎ、夫である亮太さんには迷惑をかけたくないとか。今の地方銀行の営業職を続けてほしい、とか」


 ふふ、と石堂は笑う。


「静香さんははっきりとは仰いませんでしたが、なんとなくピンとくるものがありました。彼女の伴侶となる亮太という人は仕事を辞め、舅の会社でなんの苦労もせず上位の職に就きたいのだな、と。

 そして、静香さんが冷静に判断した結果、その地位には満たない実力でもあるのだな、と」


 亮太は地銀の仕事を辞めていないと翠も聞いていた。


 あれにはそんな理由もあったのだろう。


「こんなことを伝えるのは心苦しいのですが……。静香さん、だいぶ悩んでおられますよ。あなたが子育てに非協力的であることと、どうやら不倫相手がいることについても」


「はあ⁉ なにやってんのりょーた‼」


 咄嗟に吐き捨てる。

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