第65話 スマホの相手

 □□□□


 次の日。

 翠は研修施設のリビングでひたすら小説を書いていた。


 出版社と契約したものではない。無料小説サイトに掲載する予定の作品だ。


 耳にイヤホンを挿し、YouTubeからミックスリストの曲をひたすらかけ続けて書いていく。不意に耳に届いて思考を停止させる音を消すために意識的に耳に流し続ける音楽だ。


 歌声が入っていると書けないという人が多いが、翠は歌声が入っていないと無理だ。


 世界は人の声であふれている。

 現に今も、Zoomで会議している石堂の声が時折もれ聞こえてくる。

 それを消すには予測された声が一番いい。


 歌には歌詞がある。その歌詞どおり人は歌う。予測された声であり内容であればなにも驚かないし不穏に思わない。


 だから翠は好きな音程で歌う人の曲をかけ続ける。無名でも有名でも問題ない。

 翠はネットに流れる彼らの声に満たされながら文字を打ち続ける。


 今は、新作の序盤部分を書いていた。

 もともと依頼されなければプロットは作らない。

 頭の中に浮かんだストーリーをひたすらアウトプットしていく。浮かんだ風景を機械的に文字化してキーボードに打ち込むことが翠は好きだった。


『あなたの作品は紙芝居のようですね。静止画だ。ブツブツ切れている』

 それは、以前担当編集者に言われた言葉だ。


 確かに翠が一番にすることはキーとなるシーンを脳内から吐き出していく作業だ。

 次にそのシーンとシーンを文字でつないでいく。

 いうなれば物語に動きをつけていく感じだ。

 そして最後に細かくキャラクターに感情をのせ、伏線を押し込んでいく。


 紙芝居と指摘されればそれまでだが、翠は心に浮かんだ場面を大事にしているつもりだ。


 ぶー……と、太ももに置いていたスマホが振動した。


 我に返って耳からイヤホンを抜き取る。

 書き始めて二時間。時刻は十八時。

 翠が目覚まし機能に指定した時間だ。


「今日はここでおしまい」

 呟いてYouTubeを閉じる。


 放っておいたらいつまでも書くのだが、疲労は確実に蓄積されていて次の日にとんでもない目に遭う。


 眼精疲労からくる頭痛。肩甲骨の張り。鈍い腰痛。結局数日はなにもできない状態になるので、最近はコンスタントに活動ができるようにあらかじめ時間を決めていた。


 ついでにメールボックスを確認する。

 相変わらず担当編集者から連絡はない。まあ、「○日までに原稿をチェックし、お返しします」とメールがあったとしても、その期日に返信はない。だいたい、その2か月後ぐらいに原稿が戻って来る。そこから毎度怒涛の作業が始まる。働いていたころは睡眠時間しか削るところがなく、期限内に原稿をおさめた時にはいつも体重が減っていた。


(……仕事、辞めててよかった……)


 今回も同じパターンだろう。

 現在、出版時期が決まっている。この時期に連絡がないということは、どんどん予定が押していくということだ。


 ひどいときには、「この時期は出張なので」と前もって言っていたのに、がんがんメール連絡がきて、移動の新幹線内で返信をしたり原稿をチェックしたり電話でやり取りをしたことがあった。編集者も必死なのだろうが、翠だって必死だ。当時は本職と同時並行でタスクをこなしていかねばならない。これで本当に間に合うのか、と真っ青になったことがある。

 結果的に「……日本の流通と印刷会社って優秀なんだ」と感動した。


「さて、夕ご飯を作りますか」


 天井に腕を突き出し、伸びをする。肩甲骨が大きく動いて周囲の筋肉が動くのが心地よい。


 いつも料理を作ってくれる石堂は、まだZoom会議中らしい。


 榊が結界を強化したせいなのか、それとも開襟シャツのあの男がウロウロしなくなったせいなのか。


 研修施設にいても音声や動画が外界とつながるようになった。


 これ幸いに会議を押し込んできたのは長良だ。


 コンテナの手配や蘆屋建設とのやり取りを報告しているときに、ついでのように石堂が伝えた途端、怒涛のように分刻みのスケジュールを送り込んできたのだ。


 フリーランスで、かつ、原稿が来ていない今、急ぐ仕事など皆無の翠とは違い、石堂は本来忙しい立場なのだと思い知らされる。


 翠が気づかなかっただけで、彼は夜間静かに文書作業をこなし、翠の知らないところで長良や会社の担当部署とやり取りをしていたようだ。


(そりゃあ、私と一緒に日中のんびり行動しているような人じゃないのよね……)


 伯母の彩が外出を禁じたためにできた空白を埋めるように長良がスケジュールを組むのを見て翠は反省した。


『今日の晩ごはんは私が作るのでお仕事に専念してください』

 朝食の席でそう伝えると、石堂は嬉しげに笑った。


『布士さんの手料理が食べれるとは。楽しみですね』


 ハードルを上げてしまった翠はその後、しばらく何を作ろうかと悩みに悩んだ。

 結果まだ答えは出ていないのだが、廊下からは石堂の低い声が聞こえてくる。


 さすがに内容までは分からないが、朝からずっとこの調子だ。昼食時に声をかけたが、『手が空いたら』と言われたまま出てこない。政治家もそうだが企業のトップも本当に体力勝負だ。


(なんだかんだで、お肉が好きなのよね、尊さん)


 肉料理がいいかもしれない。


 翠は酒さえあれば夕食は必要ないが、石堂はそうじゃない。買ってきた総菜や彼が作る料理を合わせて考えると、肉料理が多い。魚料理もあるがそれは彼にとってメインではない気がした。


(だから体力あるんだろうなぁ)


 椅子に座ったまま背もたれに上半身を預け、足をプラプラさせる。そうすると太ももや腰のあたりの筋肉がまだ痛む。


 昨晩も、翠など息も絶え絶えになっているというのに、石堂は余裕な顔でまだ愛撫を続けようとする。もちろん翠の意向を汲んでやめてはくれるのだが。


 あの細い身体のどこにあんなスタミナが、と考えて翠は硬直する。


(……そんなことはどうでもいいのよ)


 顔を熱くさせながら慌てて冷蔵庫の中身を思い出しながら椅子から立ち上がる。


 夕食。

 とりあえず夕食を作ろう。


 できればなんかこう……、あっさりめのやつを。


 気づけば石堂が耳元で囁く甘い声まで思い出し、翠は顔を両手でぱちぱちと叩く。

そんな翠の耳に振動音が聴こえて来た。


 当初、アラームを切らなかったのかと思った。自分は停止をタップしたつもりだったがスヌーズになっていたのかもしれない。


 そう考えてスマホに視線を移動させて。

 身体の動きを止めた。


 パネルに表示されているのは亮太の文字。

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