第61話 聴覚

「森川和幸さんはこうも言っていた。『布士の者は耳が良い』と。ある種の音域が聞こえるのかもしれない。布士さん、そういうところあるでしょう?」


「私ですか? ないですよ」


 びっくりして首を横に振るが、石堂は困ったように眉を下げた。


「あまり指摘しないほうがいいかな、と今まで言いませんでしたが……。聴覚過敏ちょうかくかびんではないですか?」


「聴覚過敏?」


「わたしには聞こえないものが……。というか、あなたにしか聞こえない音はありませんか? 高音で……。踏切の音や学校のチャイムのような」


「…………あ」


 思い当たる節はある。


 高音だけではない。雑多な音もそうだ。


 低学年までは、集団生活が苦手だった。同級生が立てる様々な音が耳になだれ込んできて、どの音を拾えばいいのかわからなくなっていたのだ。

 なので、高学年の子に叱られても集団登下校ができなかった。


 うるさすぎるのだ。


 学校生活で必須となる「放送のチャイム」も煩わしかった。どうしても、変な音が混じって不快になる。


 どうしてみんなはなんともないのだろう。

 ずっと不思議だった。

 ただ、それは年齢が上がるにつれて解消されていく。

 みんな「大人」になって静かに行動することを覚えるからだ。


 また翠は、予測不能な音も苦手だ。


 子どもが突然立てる大きな音が苦手だし、今でも赤ん坊の泣き声で心臓が止まりそうなほど驚くことがある。


 大人になると、集中したい時は、逆に音楽をかけることを覚えた。


 違う音で、別の音を消すのだ。


 今でも、文字を書く時は生活音や突如聞こえる高音に対処するために、イヤホンから音楽を直接耳に流し込んでいた。


「布士の者は、あの中洲で山から吹く風の音を聞き、神意を確かめていた。そういうことではないでしょうか」


「……では、あの開襟シャツの男は?」


 夢の中では、増水した中洲に取り残され、水に飲まれた彼。

 そして翠の周囲を彷徨さまよい、身体を乗っ取ろうとした彼。


「巫女や、もうひとりの女の人のことを〝姉〟と呼んでいました」


 そして、夢で聴いたあの高音。

 巫女と女性は気づき、顔を上げたのに。


「そういえば、彼は……音に気付いてなかった」


 翠は呟く。静かに石堂は言った。


「耳の良いものが、巫者としての役目を果たすのかもしれません。現に、あなたの伯母さんは中洲のことを知っていたが、あなたのお母さんはなにもご存じない」


 むしろ、ばかばかしい因習いんしゅうだ、と思っていた節がある。法事にも参加していない。


 それは。

 自分には聞こえないものを大事にする周囲への反発だったのかもしれない。


「夢の話は断片的ですが……。いろいろ補って想像するに、その弟はカネをもらって神託を偽装したのではないですか? 結果、姉たちの怒りに触れ、神意に問われた。いわゆる神明裁判しんめいさいばんを受けたのでしょう」


「そう……なのかもしれません」


 翠は、ぎゅと石堂を抱く。

 ぶるり、と震えたのは、あの中洲で水にのまれた時の感覚を思い出したからだ。


 それまで俯瞰で眺めていたのに。

 あの時だけは、違った。


 視点も感覚も、男のものだった。


 圧迫する水。

 肺から吐き出される呼気。

 濁流に混じる石や砂が自分をなぶり、目や鼻から一気に流れ込む。

 ごん、と大ぶりの岩が肺にぶつかり、口中の空気がすべてあふれ出た。


「ふ………っ」


 苦しくなって意識して大きく呼吸をする。それでも、喉から入る空気が少ない。


「ふう……」


 再度大きく息を吸い込んだ。ひぃぃぃ、となぜだかか細い喘鳴音が喉から洩れる。


 空気が入らない。


「布士さん?」

 石堂が自分から身体を離す。


 そのころには、翠は身体をくの字に曲げて、何度も何度も荒い息を漏らしていた。


 苦しい。息ができない。

 翠は目をつむり、短い呼吸を繰り返していた。


「大丈夫。ここは川の中じゃない。大丈夫。ほら、布士さん」

 石堂が自分の背を撫でているのがわかる。


「風が吹く。ほら、風が吹いた」


 耳元で囁いた石堂の声。


 それは一息に翠の身体に流れ込み、なにかを押しやった。


 そのせいなのか、喉につかえていたものが消し飛び、呼吸がスムーズになる。


「あ……。ありがとう……います」


 途切れ途切れに伝え、翠はベッドに仰向けに寝そべった。


 行儀が悪いと思いつつも、手足を伸ばし、おもいきり空気を吸い込む。

 胸が膨らみ、肺が酸素を取り込んだ。


 ゆっくりと吐き出すと、足の指までちりちりした痛みが走る。ようやく身体中に血が巡り始めた。


「大丈夫ですか?」

 翠の額に浮いた汗を指で拭いながら、石堂が心配げに顔を覗き込んでくる。


「大丈夫です」

 はっきりと答えると、石堂が安堵の息を吐いた。翠はそのまま何度か大きく深呼吸をする。


「……あ」


 不意に石堂が声を漏らした。瞳だけ動かすと、彼はベッド脇に置いたスマホを見ている。


 薄暗い中、ちかちかとなにか明滅していた。石堂は翠に断りを入れて上半身を起こすとスマホを取る。「長良」。小さく呟いてタップした。


「もしもし?」

「こんな時間に申し訳ありません。いま、史郎くんと連絡がとれまして……」


 スピーカーにしなくても、長良の声が翠のところまで聞こえて来た。


「禁足地のことや願いが成就したあとのことも含めて伺ったところ……」


 長良はため息交じりに言葉を吐きだす。


「知っていた、と。だからもし奇妙な男が尋ねてきたら『二番目に大事なものは石堂嗣治だ』と答えようと思っていた、意趣返しだ、と」


 語尾に、今度は石堂のため息が混じる。


「心中お察しします」

 静かに長良が言う。


「……嗣治は? あいつはいまどうしている」


 ふと石堂が尋ねる。しばしの沈黙の後、長良が口を開いた。


「同じことをわたしも考えました。史郎くんのところに行っていないということは、真の依頼者のところへ不審な男は直接訪ねている、と」


「嗣治は?」


 石堂の言葉に、長良は苦り切った様子で答えた。


「現在連絡がとれません。引き続き、捜してみます」


「……すまないが、よろしく頼む」

「とんでもありません。それでは失礼いたしました」


 長良からの通話はそこで切れた。


 石堂の重いため息が、室内にとろけて消えた。



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