第62話 本当の名前
◇◇◇◇
その日の10時。
時間ちょうどに、研修施設の玄関チャイムが鳴った。
「はい」
ドアフォンの通話ボタンを石堂が押して応答する。キッチンカウンターから翠も背伸びをした。
画面に映っているのは、なつかしい伯母の顔だった。
「
目線を下げるようにして頭を下げる。
「お待ちしておりました。すぐに開錠します」
石堂は言うなり、翠に目配せをして玄関に向かう。
その間に、翠はティーセットをリビングの方に運んだ。
玄関扉が開く音に続き、石堂の低い声と、伯母の穏やかな声が聞こえてくる。
「久しぶりね、みどり」
石堂の後に続き、リビングに姿を現した伯母は、昔の記憶とほとんど変わらない。
ぴんと伸びた背筋に、若々しい肌。絹のような黒髪を今はひとつに束ね、後ろに流していた。
「伯母さん」
翠はトレイをテーブルに置き、彩に近づいた。
目があってにこりと笑った瞬間、伯母はほんの少し困ったように眉を下げるから、
だが、すぐに笑顔に戻った。
「そうそう。あなた本を出してるんですって? 夢がかなったのね。おめでとう」
翠に対して両腕を開いて見せた。
(ん? ハグ?)
こんなことする人だったかなと戸惑いつつも、欧米人のように伯母を抱きしめたのだが。
「首もと。キスマークが残っているから、人に会うときは気をつけなさいよ」
抱きしめた瞬間、耳元で囁かれた。
「どうぞ、こちらへ」
何も気づいていないらしい石堂がにこやかに対応しているが、翠は顔を真っ赤にして慌てて、ブラウスの
「ありがとうございます」
伯母も素知らぬふうを装って席に着く。翠だけがゆでだこのようになって、身を小さくした。
席には誘導したものの、先に挨拶をするらしい。石堂が名刺入れから名刺を差し出す。
「改めまして、わたしは親愛コーポレーションで副社長をしております石堂尊と申します」
「電話ではいつも失礼しております。名刺を頂戴いたします」
石堂が名刺を渡し、彩が受け取る。
肩書と名前を見て、顔を上げた。
「初めてお電話いただいた時は、なんだか不穏な空気がありましたが……。うちの姪が吹き飛ばしました?」
「そのようです。彩さんは布士さんのことをご存じなんですね」
「そりゃあもう。私が手塩にかけて仕込んだ子ですもの。というか……苗字で呼んでいるんですか? えっと……。うちの姪と、そういう関係なんですよね?」
石堂に勧められ、椅子に座った彩は、戸惑いながら尋ねる。彩の向かいに座りながら、石堂は、ひょいと肩を竦めてみせた。
「名前の響きがいやだ、と。呼ぶことを許してくれません。なので、他の人の前では、『わたしの可愛い子猫ちゃん』と言っていますが」
彩はお腹を抱えて笑う。翠は相変わらず顔を真っ赤にしたまま、石堂を叱りつけた。
「それやめてって言ってるじゃないんですか!」
「じゃあ、なんと言えばいいのか、あなたが決めてください」
心底困ったように石堂が言うのを見て、彩はまた大きな声で笑った。
「ああ、
目じりに浮かんだ涙を指で拭い、彩は椅子に座ったまま翠を見上げた。
「私はさっきから恥ずかしい」
ぶすりとした顔で、翠は石堂と彩の前にカップをサーブする。研修施設に備え付けられているお客様用のものだ。普段はマグカップを使っている。
「みどり、という名前はもともと、祭事用でした。なのでこの子にとっていい印象はないんでしょう」
彩は瞳に少しだけ陰りをにじませた。
「祭事用?」
翠はトレイを胸に抱えたまま、ぽかんと伯母を見下ろす。そんな話は初めて聞く。
「あなたはまだ小さかったから。
彩は苦い笑みを浮かべ、ソーサーの縁を指でなぞった。
「私の本当の名前は〝あや〟ではなくて、サイ。あなたは〝みどり〟ではなく、本当はスイと呼ぶのよ」
顔を上げ、彩は翠と石堂を交互に見比べた。
「祭事に関わることがある布士の家の者は、本名を隠す。でないと、
「……布士……、正雄?」
聞いたことのない名前だ。
繰り返す翠に、石堂は声をかけて自分の隣の椅子を軽く引く。おずおずと頷き、翠は腰を下ろした。
「どこから話したらいいのでしょうか」
呟き、どこか遠い目でカップに視線を落とす彩に、石堂が穏やかな声をかけた。
「あの中洲の中にある
「ええ、そうです。もう今は、中洲から山姫さまを見ることはできないでしょうね。あんなに竹が生い茂ってしまって……」
ほう、と彩は息を吐き、額に片手を上げた。
「北と南を
「あの……、ひょうたんみたいのが鳴るの?」
翠が尋ねると、彩は微かに笑った。
「ええ、そうよ。覚えてる?」
「……ごめん。それはあんまり……。だけど、この前、社を開けて中を見たの」
翠は済まなく思いながらも正直に答えた。
「そう。あの
どこか懐かし気に彩は言う。
「あの音が聴こえる、というのが巫女や
彩はゆっくりと顔を起こし、石堂に視線をむける。
「いつの時代から私たちの先祖があそこで、
「ああ、なるほど。分家が増えなかったんですね」
石堂の言葉に、彩は頷く。
「女子は嫁げば苗字が変わる。だから、潜在的には布士の血を引く者はいるのかもしれないけれど……。それでも、神意を聞く耳を持つ者は少なかったと思います」
「ですが、どうして彩さんは実家を継がなかったんですか? 話の流れ的には、妹さんは能力を持っていないようですが……」
「妹の方が先に結婚したのです。そしてそのまま、入り婿をとって実家に居座ってしまって」
恥ずかし気に彩は目を伏せる。翠はそんな話は初めて聞いた。
「あの子は、私のことを嫌っていましたので、たぶん居場所を奪うことを考えたのでしょう。それを恐れた母が、私に急ぎ縁談を持ち込みまして、横尾を姓に。ですが」
ほう、と彩はため息をこぼした。
「あの子には、神意を聞く力はありませんから。吉凶の判断については、変わらず私のところに持ち込まれました。長老さん方からの相談には私が
ああ、それで、と翠は納得がいく。
伯母の家にはいつも誰かが来ていた。
あれは。
相談に来ていたのだ。
(法事……。そうだ、法事……)
毎年行われた法事。
伯母が取り仕切っていたなにか。
あれは、なんなのだ。
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