第60話 ご神体のありか

 翠は、小さく声を上げて目を醒ました。


(ゆ……夢、か)


 肩を強張らせ、拳を握って荒い息を押し殺す。


 まだ周囲は暗い。


 昨晩。

 あれだけ毎日照明をつけっぱなしにして眠ったのに、暗がりからこちらの様子を窺う得体のしれないなにかよりも、石堂に身体を見られる羞恥の方が強かった。


 結局、この研修施設に来て初めて照明を落として眠ったことになる。


 夜はまだ明けていない。

 ということは、眠りに落ちて数時間しか経っていないのかもしれない。


「どうしました?」

 向かい合って眠っていたらしい。


 掠れた声が聞こえた。

 しゃを下したような薄闇の中でも、彼の端整な顔と均整のとれた肩や首筋がわかる。


 翠はTシャツだけかぶって眠ったが、石堂はなにも着ていないのだろうかと考えて顔が熱くなった。


「いや、なんでも……」

 口ごもると、細く、しなやかな筋肉がついた腕に引き寄せられた。


「なんでもなくないでしょう」

 さっきまで、耳元で甘い言葉を囁いていた声で問われる。


「どうしました」

 翠の身体を愛撫していた指が頬に触れた。


「ちょっと……混乱しそうです」


 見た夢のせいで芯まで冷えていたのに、急激に血圧が上がり、血が沸きそうだ。


「照れてるんですか?」

 なんだか意外そうに言われて、翠は緩く握った拳で彼の胸を打つ。


「副社長が服着てないからっ」

「だって、また服を脱ぐのは面倒でしょう」


「なんで脱ぐんですかっ」

「え。もう、おしまいのつもりだったんですか?」


 胸を小突いた手首を掴まれ、組み伏せられた。


「あなたの伯母さんが来るまで、まだ時間はありますが」

 鼻先がくっつくほどに顔を寄せ、微笑まれる。


「もう結構ですっ」


 じたばたともがくが、まったく逃げ出せない。こいつ、と翠は睨みつける。キックボクシングをやっていた、というが〝道〟のつく格闘技もなにかしている気がする。要所要所の関節をしっかり押さえられていた。


「もう結構と思うぐらい、いやでした?」


 だが。

 薄闇越しに見えるのは、不安そうで悲しそうな表情。


「あ、いや、そうではなく」

 慌てて首を横に振る。


「もう充分、というか、あの……大変満足というか……」


 しょぼんと耳を垂れる猫のような石堂に、翠は必死に言葉を続けた。


「なんかもう、途中で意識何回か飛んだ、というか……、あの」


 実際、あんなに気持ちがとろけるとは思わなかった。危うく、何もかもわからなくなりそうだった。


 元婚約者との行為が嫌いではなかったが、自分の欲望を押し付けられるているようで辟易へきえきしていた。ただ、こんなものか、と思っていたので口に出さなかっただけだ。


 翠は当時、彼しか知らなかったが、彼は翠に『ほかにもいろいろ知っている』的なことを言っていた。だから、満足しただろう、と暗にほのめかすのもいやだった。


「結果的に、その……。今日はもう、これで満足なんですが」

「そうですか。それはよかった」


 嬉しげな様子にほっとしたものの、すぐに不安になってきた。


「あの……、でも、副社長はまだご満足ではない?」


 おそるおそる尋ねる。

 そういえば、自分は大変満ち足りているが、彼はどうなのだろう。


「世の中の価値観が変わるぐらいの快感を得ました」


 きっぱりと石堂が言い切るから、呆気にとられる。


「ですが、まだもう少し、あなたとふれあいたいなぁ、と思っていました。だけど、あなたがそうおっしゃるなら」


 言ってから、石堂はごろりとまた、翠の横に寝転がる。


「抱きしめてもいいですか?」

 そんなことを言うから、翠は自分から腕を伸ばして彼の首を引き寄せる。


「こんなに柔らかくてあたたかい存在があるなんて知りませんでした」

 石堂が翠の腰に腕を伸ばして抱き返してくる。


「こうやってるだけで幸せなんです」


 囁くように石堂が言う。その声が翠の身体に染み渡った。細胞のひとつひとつが熱を持ちそうだ。


「私もです」

 そう返す声がなんだか涙で濡れそうだ。


「……怖い夢でも見ましたか?」

 しばらく抱き合っていたのだが、石堂がそっと尋ねる。


「怖い……夢なのか……」


 石堂を抱きしめたまま、翠はぽつぽつと語る。


「あの中洲にいました。でも、現代って感じじゃなくて……。巫女装束の女の人と、なんか昭和っぽい服装っていうか……。大戦前かなぁ。そんな感じの服を着た女の人が、あの開襟シャツの男の前に立っているんですよ」


 男は縄で縛られていたこと。

 やしろの前後が開かれていたこと。

 風が荒く吹きすさび、きんきんと音が鳴ったこと。


「あ。中洲の竹が伐られていたんです。山が見える方と、その反対。南北だけ、竹がなくって……」


「あの中洲の竹藪」


 石堂が呟く。翠の胸に顔をうずめているから、くぐもって聞こえた。


「あそこの竹藪を北と南を伐採すると……」

 ふ、と石堂が顔を離す。だが、緩く翠の腰は抱いたままだ。


「山が、見えますね」


「ええ、見えましたよ。どーん、と大きく」

 きょとんと翠が頷く。


 広く長く稜線を伸ばした山。


「それで、風が吹くんですね? キンキンと音が鳴る」


「え……、ええ。鳴るというか。なんか百舌鳥もずの鳴き声みたいなんですけど。きー、って。……うーん、こんな感じじゃないな……」


 真似してみせたものの、自分でも似てないな、と顔をしかめる。


「布士さん、以前おっしゃってましたね。あの山には女神がいる、と」

 石堂の真剣なまなざしに見つめられ、翠はおずおずと頷いた。


「ええ。伯母が」

「魔除けとして、『風が吹くぞ』と、あなたはおっしゃる。現に、わたしが発した途端、あなたにとり憑いていた男は逃げ出した」


 翠に聞いているようで、彼は自分で考えを整理しているようだ。


「どうしました?」

 目をぱちぱちさせてみせると、石堂はわずかに眉根を寄せた。


「あなたの伯母さんにお会いして確認をしようと思いますが……。社のご神体は、あの山なのでしょう」


「やま、ですか」

 素っ頓狂な声が漏れる。これはまた大きなご神体だ。


「そこから吹く風が、神意しんいなのでしょう。それを聴くために、あの中洲の社が必要だった。というか、社の中のものが」


「中のものって……。穴の開いたひょうたんですか?」


 石堂はまた翠の胸に顔をうずめて頷く。くすぐったくて身じろぎをしたが、石堂は特に気にしている風ではない。


「榊さんは、あれをうつろだと言った。自分のようなものだ、と。であるならば、あれは楽器です。神の意志を翻訳するための装置」


「楽器」


 呟き、翠は社の中に鎮座している、奇妙なひょうたん状のものを思い浮かべる。

 先端の穴が一番大きいところなどは、確かに笛に分類されるのかもしれない。


「あの社の前後を開け、風をくぐらせると、あのひょうたんが鳴るのかもしれない。実際、鳴ったんじゃないですか? あの日」


「あの日って、いつですか」

 石堂がまた視線だけ翠に向ける。


「初めて社を開けた時です。風が吹き込んだ時、わたしはなにも聞こえなかったが、あなたは耳を塞いでうずくまった」


「あ………」



 きぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃい。



 あの奇妙な高音。

 あれは。

 あの楽器が音を鳴らしたのか?


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