第57話 怖いくせに
まどろんでいた翠は、控えめなノック音ではっきりと目を醒ました。
反射的に枕元のスマホを掴んだ。触って反応したのか、時刻が現れる。
22:45。
翠がトイレで嘔吐してから、三時間以上経っていることになる。
ゆっくりと上半身を起こすと、ぎしり、とベッドが軋んだ。
電気をつけたままの部屋には、翠以外誰もいない。
床にはマットレスがあり、たたまれた掛け布団がある。
朝、石堂がこの部屋を出るときに片づけたままだ。
本来であれば、その掛け布団の上に枕が乗っているのだが。
今は翠が抱え込んだままになっていた。
一度目が覚めたとき〝部屋に翠がひとりだけ〟という状況に気づき、恐ろしさに石堂の枕をひっつかんでベッドにもぐりこんだのだ。
まだどこかになにかがいるかもしれない。
そいつに身体を乗っ取られるかも。
そんな恐怖に震えながら、枕を抱きしめたのだが。
彼の香りがするせいか、安心していつの間にかまた眠ってしまったらしい。
「布士さん?」
伺うような声は、扉の向こうから聞こえてくる。石堂だ。
「すみません、寝ちゃって……」
スマホを片手に持ち、もう片方の手で枕を抱えたまま、翠はゆっくりと頭を振った。どろんとした眠気がまだ残っている。
「入ってもいいですか?」
「だめです」
石堂の申し出を断固として断る。
吐いたときに痛めたのか喉の表面が、いがいがする。視線を彷徨わせ、石堂が用意してくれていたはずのペットボトルを探した。
「またあの男にとり憑かれて……副社長を襲ったらどうするんですか」
この部屋に来て一度も使用していない折り畳み式のテーブルの上に、ペットボトルと、市販のジャムパンが置いてあった。付箋が貼ってあり、『お腹が空いたらどうぞ』と書かれてある。美しい字は石堂のものだ。
「榊さんは、もうあの霊は入ってこれないって言ってましたよ」
そんなのわかるものかと思っているが、石堂が信頼している男性のことを悪しざまに言うのは憚られた。
それに、実際石堂が安心できるように、術を張ってくれているのは彼だ。
☨☨☨☨
『おかしいなぁ。どこから入ってきて……というか、なんで入れたんだろ?』
数時間前、便器にしがみついて全身全霊で嘔吐している翠の背後からは、のんびりとしたそんな榊の声が聞こえてきた。
『あの男……ずっと、ここにいて……』
翠は、嘔吐の合間合間に言葉をつなぐ。
初日の浴室で見たこと。以降男をよく見ること。悠里もその存在に気づいていたこと。
さっきは、『願いは、成就させねばならない』『死ななければならない』と言っていたことを訴えた。
『この結界に入れるのは布士か石堂の血筋の者だ』
榊がなんでもないことのように言う。
『ってことは、単純に布士家の者なんじゃない?
だけど明確に石堂くんを狙ってる、てことだよね。禁足地に関わる呪いの一部って布士家が関わってんのかな? 願掛けした人のところに行ってるやつは、その男かもねぇ』
『布士さん、とり
石堂が翠の背を撫でながら尋ねる。善意でしてくれているのはわかるのだが、その背を撫でる、ということがまた刺激になって胃が痙攣する。
『とり憑かれたっていうより、乗っ取りにあいかけたんだろうねぇ。可哀そうに……。なんかね、乗り物酔いみたいになるんだよなぁ、あれ』
苦笑いを含んだ榊の声が聞こえてきた。
『ぼくも昔はよくなったよ。降ろした神が、そのまま居座ろうとするんだよねぇ。それを無理に追っ払ったら、出ていくときに衝撃波みたいなのを残していくから……。もうしばらく彼女、そんな感じだと思う。風呂を先に用意してあげてたら?』
促されても、まだ石堂はためらいながら側にいるものだから、翠は呻いた。
『よろしくお願いします……。副社長』
がすがすの声で訴えると、石堂はようやく翠から離れた。
『ぼく、迎えが来るまで結界を強化してあげる。それで数日は大丈夫だと思うから』
榊はそう言い、石堂を伴ってトイレの前から去ったようだ。
そこからまた、翠はひとしきり吐いた。
吐いたと言っても、そもそもビールしか出るものはなく、ひたすら胃がうねるままに、胃液を吐くしかない。
ようやく落ち着き、よろめきながらもトイレを掃除して、這いながら廊下を進む。
そのあたりで石堂に発見されて抱え起こされ、二階の風呂へと連れて行ってもらった。
脱ぐ、というより、もがく感じで服を脱ぎ、四つ這いのまま風呂に進む。
どぼりと湯船に浸かると、ずるりと滑った。一気に頭まで沈んで溺れかかる。
慌てて手を突き、顔を上げた。ぷはりと息を吐く。浮力もあって案外簡単に座位が保てた。
(あ……)
湯から顔を出し、翠は茫然とする。
あの果実酒の香りに似た日本酒と、岩塩が含まれた湯が身体を包んだ途端、体の表面から泥が剥がれた様に、一気に楽になった。
よく石堂が『
靄のかかったような思考はクリアになり、藻の多い沼を移動するようなもどかしさは、どこかに吹き飛んだ。
雑に身体と頭を洗ったあと、最後にもう一度湯船に浸かって外に出る。
吐き気と倦怠感はおさまったが、今度は猛烈に眠い。
もそもそとTシャツとハーフパンツを履いたのだが、次の瞬間、ごんと両膝を床についていて、そこでようやく自分が眠気のために意識を失ったことに気づいた。
『大丈夫ですか、布士さん⁉』
扉の向こうで声が聞こえた。どうやら石堂が待機してくれているらしい。立ち上がるのも面倒くさくなり、翠はまた這いながら浴室から出た。
『貞子かと思った……』
引き戸を最小限に開き、ずるずると廊下に出た翠への第一声はそれだったが、石堂は担いで寝室まで運び、ベッドに寝かせてくれた。
『ペットボトルはそこです。なにかあれば……』
正直、はっきりと覚えているのは、そこまでだった。
☨☨☨☨
「榊さん、もう帰っちゃったんですか?」
石堂の言いぶりでは、迎えが来たのだろうか。
「ええ。恋人の明良さんが、さっき」
たったひとりいなくなっただけなのに心もとない。また、それが石堂も認めた
翠は枕を抱きしめる。
圧迫された肺から呼気が漏れ、たよりなく消えた。
「副社長、申し訳ないですが別のところで寝て下さい。寝具はまだあるんですよね?」
二階だけでも部屋が他に三室ある。開けて確認したわけではないが、同じ造りだろう。
今日のところは、用心して別々に寝た方がいい。
「でも、布士さん……怖いんでしょう?」
扉の向こうから聞こえる声に、翠は動きを止めた。
「本当は、ひとりじゃ心細いんじゃないですか?」
確認するような声。
翠は、黙ったまま扉を見つめる。
どうしよう、と迷ったのは確かだ。『そんなことはないです』。いつもの翠なら、はっきりとそう言っていたかもしれない。
「布士さん?」
「大丈夫です。平気です。怖くなんてありません」
翠はきっぱりと応じた。
枕を抱きしめ、閉じられたままの扉を見る。
「だから入ってこないで。またあの男が来て副社長に……」
「開けますよ」
石堂は翠の制止を聞かなかった。
薄く、それでも遠慮がちに開いた扉からは、Tシャツにジョグパンツというラフな姿の石堂本人が顔を覗かせる。
黒瑪瑙をはめこんだような目は、迷いなく翠をとらえた。
途端に。
破顔する。
「おれの枕抱くほど、怖いくせに」
混じりっ気のない笑顔と、普段は聞くことのない〝おれ〟呼びに、翠は顔を真っ赤にさせたまま、首を横に振った。
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