第56話 背後から命じる声

 声を漏らしたのは、榊だ。


 室内は真っ暗になったが、何も見えないというほどではない。

 窓のカーテンは閉めていたが、中庭に出ることができるガラス張りの扉からは、屋外照明の光が差し込んでいるからだ。


「この家だけ停電なんでしょうか。ブレーカーが落ちたのかな」


 翠も立ち上がる。

 石堂がいない今、どこにその設備があるのかはわからないが。


「なんかねぇ。この町に来た時から思ってたけど、ここ、百鬼夜行だよ」

 ちびりと飲んでから榊は立ち上がった。


「おふたりとも大丈夫ですか?」


 石堂が戻ってきた。

 薄暗いからはっきりとはわからないが、手にはあのワンショルダーを握りしめているようだ。


「ブレーカーですか?」

 翠が尋ねる。


「見てきましょう」

「いやいや。違う、違う」


 石堂の言葉を遮ったのは、榊だ。笑いながら、手をひらひらと振る。

 グラスを持ったまま、足音もなくガラス張りの扉に近づいた。


 ふ、と。

 室内の闇が急に濃くなる。


 榊がガラスの前に立ち、屋外からの光を遮断したせいかと思ったが。

 違う。


「あ……」

 知らずに、声が漏れた。


 ガラス扉の外側から。

 が覗いているからだ。


「これ、なぁに?」


 榊はグラスを口につけ、酒をまた一口飲むと、ガラス扉と相対した。


 そこにいたのは。

 いつぞやかに見た、あの案山子のようなヒトガタ。


 枯葉を寄せ集め、目の部分だけ空洞にしたような。

 歩けば、そして動けば。

 はらはらと葉は舞い散り、ぐずぐずと腐葉土の足跡を残す。


 そんな。

 ヒトガタ。


「モリゾー?」


 愉快そうに榊は笑い、窓越しにヒトガタをつついた。

 とてもそんな気持ちになれない翠は、心底顔をしかめる。


「それともキッコロかな」


 こんこん、と窓ガラスを鳴らしたあと、榊は振り返る。

 彼の表情は全く見えない。ただ、陽気で楽しそうな声だけが薄闇の中を揺蕩たゆたう。


「ねえ、知ってる? 町の中、こんなのだらけだよ。どうなってんだろうね、ここ」

「………都市計画のせいでしょうか」


 翠の隣から苦々し気な声が聞こえてくる。石堂だ。


「影響はあると思うよ。来る前にGoogleアース確認したけど、この町、条里制がしっかりした町並みだったみたいじゃない。それを、あっちを動かし、こっちを留めて……。挙句の果てには、地域のシャーマンを追い出したんだからね。そりゃ澱むし、不安定な人は影響を受けるんじゃない?」


 くつくつと榊は笑う。その語尾に石堂のため息が混じるのを、翠はどこかぼんやりと聞いていた。


(……私……酔っぱらった?)


 なんだか変だ。

 身体が思うように動かない。


 翠は右手を上げ、自分の額に触れようとした。熱でも出たのだろうか。


 だが、緩慢にしか動かない。

 まるで拘束具でもはめられたかのように、筋肉が、関節が、皮膚が動かない。


(なんなの……)


 まさか脳梗塞の前触れじゃないかと、額に冷や汗が浮かんだ。



『願いは、成就させねばならない』



 背後からの声が耳朶じだをなぞり、翠は悲鳴を上げた。


 あげた、つもりだった。


 だが、喉は痙攣したように震えるのに、口から声がほとばしることはない。

 翠は必死に瞳だけ背後に向ける。もう、首さえ動かせないほど、全身が硬直していた。


「あ。石堂くん。ほら、また別のへんなのが来たよ。わあ、いっぱいいる。まあ、ここには入れないけどね」


「まるでウォーキングデッドだな」


 場違いに呑気な声が、リビングに響いた。

 榊と石堂にはこの声が聞こえないのだろうか。


 翠は全身を小刻みに震わせる。


 声は。

 自分の真後ろからする。


『あの男は、死なねばならない』


 翠の視界が拾ったのは、闇の中で蛍光色にさえ見える〝白〟。


(開襟シャツ……)


 ふう、と。

 翠の首筋を呼気がかすめた。


『お前はきっと、助けてくれるよね』


 言われた瞬間、フリーフォールに乗ったような、あの奇妙な浮遊感に包まれた。

 絶叫したというのに、やはり声は出ない。


 不意に。

 右手が動いた。


(え……)


 翠の意思とは全く関係なく、右手は乱雑にテーブルの上を掻きまわした。耳障りな金属音が室内の闇を割く。


「布士さん?」

 驚いたような声で石堂が翠を呼んだ。


 戸惑いよりも、絶望を覚えたのは。

 右手がカトラリーのナイフを握りしめたからだ。


「逃げて」


 翠は泣きながら叫んだのに、唇から洩れたのは、耳を澄まさなければ聞こえないほどの小声だった。


 だが、異変には気づいたのだろう。

 石堂が後ずさる。


 それに反応したのは、翠の身体だった。


 大きく前に飛び出し、石堂の肩を掴む。ぐいと勢いよく押すと、予想外だったのか石堂の身体は大きく後ろにのけぞった。


 そのまま押し倒す。


 ごん、と鈍い音がした。翠を腹に乗せたまま石堂は仰向けに転倒した。

 翠は石堂の胴を脚でしっかりと挟み込み、ナイフを握る手を振り上げる。


 目からは涙がこぼれ、薄く開いた口からは、荒い呼吸とも喘鳴ぜいめいともとれるものがあふれ出す。


「逃げて」


 そう伝えながら、翠はナイフを振り下ろす。


「布士さんっ」


 だが、寸前のところで石堂に手首を掴まれて阻まれた。安堵する間もなく、翠の手はそれでも強引に石堂の首を狙おうとする。


「石堂くん、そのまま」


 ごとり、と物音がした。

 翠は石堂に馬乗りになったまま、視線だけ動かす。


 榊が椅子を抱え上げ、翠の頭に振り下ろそうと近づいてきている。


「待って、榊さん! そんなので布士さんを殴らないで!」


 悲鳴を上げたのは石堂だ。

 必死に翠の右手を掴んだまま、石堂は怒鳴った。


「風が吹くぞ!」


 石堂の声が空気を震わせ、翠の身体を揺する。


 細かく振動した何かが、ひとつひとつの細胞まで攪拌させたかのようだ。


 唐突に。

 眩暈めまいというより、渦の中にでも放り込まれたかのような感覚に飲まれ、翠はたまらず、床に突っ伏した。胃からさっき飲んだビールがせりあがって来る。


 う、と口から洩れる音に、自分の手がナイフを離したのだろう。からん、という軽い音が混じった。


「あ。電気ついた」

 榊のあっけらかんとした声に、薄く目を開いた。


 まだぐるぐると回る視界に、照明がまぶしい。咄嗟に顔を手で覆う。

 手で覆ってから。

 自分の身体がようやく自分の思い通りに動くことに気づいた。


「布士さん⁉」 

 石堂の声が聞こえ、肩が揺さぶられる。


 目を閉じていても。

 そして、顔を手で覆っていても、身体はまるで船に乗せられているように安定しない。


 そこに来て石堂に揺すられたものだから、反射的に嘔吐えづいた。


「洗面器、洗面器!」


 榊の騒ぐ声が聞こえたが、同時に身体が浮いた。

 吐く、と本気で思った。


「トイレ!」


 真上から石堂の声がする。一気に身体が前に動く。

 ようやく、横抱きにされて移動させられていると気づいたのだが、「やめて」も「動かさないで」も言えない。口の筋肉を少しでも緩めたら、喉まで上がってきた液体をふき出しそうだ。


 トイレの前で下ろされた途端。

 翠は便器を抱えて、盛大に吐いた。

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