第58話 伯母からの電話
「いや、そうじゃなくて! これはね! っていうか出て行って! また、副社長を襲ったらどうするんですかっ」
ひとりで過ごすために自分なりに努力したというのに。
石堂は可笑しそうに笑ったあと、翠の意見を無視してベッドに近づく。
「本物の方がいいでしょう?」
ひょい、と翠の手から枕を取り上げて床に放ると、ベッドに腰かけた。
そのまま両腕を広げ、すっぽりと翠を抱きしめてしまう。
「また、あの男がやってきて私にとり
翠は苦々し気に言ったが、石堂の囲いから逃れようとは思わなかった。
「来ませんよ。榊さんが追い出してくれましたから」
「わかりませんよ。だって、副社長は呪われてるんですから」
悪態をつくが、石堂は軽やかに笑う。
「だとしても、あなたがわたしを殺すことはないし、わたしもあなたに殺されることはない」
「随分と確信めいているんですね」
「だって、わたしはあなたと結婚して幸せに暮らすんですから。こんなところで死ぬわけがないでしょう」
翠は呆れて、彼を見上げる。
「まだそんなことを仰ってるんですか」
「わたしは本気ですよ」
翠が身じろぎしたせいだろう。石堂は腕を緩め、彼女を見下ろす。
「あなたと出会って身体が軽くなったせいか、いろんなことを望むようになりました。結婚生活とか、会社の今後の展望とか」
「まるで、私のせいだと言いたげですね」
「ええ、責任をとってください」
石堂は笑い、また翠を引き寄せて抱きしめる。
翠は彼にもたれかかる。抵抗する気も、この腕から逃れ出る気もない。
「副社長なら女の人はよりどりみどりでしょう。昔、襲われかけたって言ってませんでした? なにも私じゃなくっても……」
「体調の悪い時に、抱き着かれたりベッドに忍び込まれたりしたら、沸くのは愛情や欲情ではなく、殺意です」
きっぱりと明言され、翠は笑い声を立てた。
「昔のわたしを、布士さんはご存知ありませんからね。三日に一回は点滴して、移動中は車の後部座席で横になってたり、貧血起こして倒れたり……。それなのに、よくわからないお嬢さんたちが夜になると集まって来るんです」
「ホラーですね」
「ホラーですよ」
ひとしきりふたりで笑っていたものの、石堂は不意に翠の身体を強く抱きしめる。
「わたしは、本当にあなたと生涯を共にしたいと思っています」
「それは、道具として便利だからですか?」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「側に置いていたら、副社長の穢れを浄化できるなにかだからでしょう」
自覚はないが、彼も、そして彼の周辺にいる異能者だの巫覡だのは、揃って口にする。
『その女は、はじく』『いい女をみつけた』『石堂尊にとって、いいものだ』と。
ならば。
自分はその価値のためだけに、選ばれたのだろう。彼にとって利用価値があるから。
そして。
自分が昔、亮太から見切りをつけられたのは。
利用価値がなかったからだ。
「単純に、あなたが興味深い存在だからですよ」
だが。
石堂から返ってきた言葉は、翠の予想とは少々違った。
「前にも言ったでしょう? 初めて会ったときはクールだなぁと思ったものの、次に出会ったときはひどく幼くて。一緒に暮らしてみたら、無防備な酒飲みだった」
後半は笑いを含み、石堂は翠をしっかりと抱きしめた。
「このままずっと生涯を共にしたいと思った。それ以外、なにもありません」
言葉にされてなお。
それでも、翠は尋ねる。
「私が、あなたの子を産めなくても?」
「わたしはまず、あなたと夫婦になりたい」
身体を拘束する腕を緩められ、翠は顔を上げる。すぐに石堂と目があった。
室内照明を受けて、つるりと輝く瞳。
そこには純粋に疑問の色が浮かんでいる。
「前にもお伝えしたでしょう? あなたが子どもを欲するならば全力で協力しますが……。あなたが必要ないと考えるのであれば、わたしはそれで問題ない」
石堂は小首を傾げると、柔らかく笑んだ。
「よく考えれば、妊娠出産というものは、そもそもそういうものなのでしょう。女性に主導権があり、男性は唯々諾々とするしかない。産む、産まない。あるいは、誰の子を
失礼、と石堂は断りをいれ、翠を囲う腕に力を入れた。
そのまま、ごろん、とベッドに共寝する。
「男なんて、所詮女性に選ばれなければ子孫さえ残せない。わたしは、あなたが望むなら家族が欲しい。望まないのであれば、ふたりで
石堂が顔を近づける。
こつり、と額同士が合わさった。
睫が触れ合う距離で、石堂は幸せそうに目を閉じている。
何故だか。
翠の唇が震え、嗚咽が漏れた。
驚いたのは石堂だ。
「なにか気に障りましたか」
目を開き、不安そうに声を震わせる。
翠は首を横に振り、石堂に抱き着いた。
「全然。まったく。むしろ逆」
身体をよじらせ、彼の首元に顔をうずめた。石堂がくすぐったげな声を漏らす。
「そういえば、布士さんの気持ちをお聞きしていませんが」
「私のなにを?」
「わたしばかりが、あなたへ求愛しているようです」
石堂は鼻を翠にくっつけんばかりに近づけ、唇に笑みをにじませる。
「御社におかれましては、弊社の申し出をどのようにお考えでしょうか」
翠は噴き出した。
「えー……。当社といたしましては」
その後を考えたものの、翠は笑って、石堂の唇に自分の唇を押し付けた。
「このように考えております」
すぐ側に見える黒瑪瑙の瞳を見つめて伝える。
「なるほど」
くすり、と石堂が笑う。
次の瞬間には、ぐるりと、翠の視界が回った。仰向けに組み敷かれる。
そのままゆっくりと真上にいる石堂の顔が近づいて来た。
「では、合意文書に署名を」
再度、ふたりの唇が重なった。
甘く、緩い重なりに翠は目を閉じる。
ぎしり、とベッドが軋んだ。石堂が身じろぎしたのか、彼の重みが少しだけ翠に移動する。
「ん」
声を漏らしたのは、彼が唇を
「あ」
身を逸らせたのは、彼の武骨だけどしなやかな指がTシャツ越しに翠の胸に触れたから。
「は……」
呼気を吐いて彼にしがみついたのは、彼の唇が翠の
「…………っと」
だが、ふと我に返る。
頭のすぐ側で、スマホが通知音を軽やかに鳴らしたのだ。
「…………えーっと……副社長………」
「それは、いま絶対にとらなければならない電話ですか………っ」
押し殺した石堂の声を耳のすぐ側で聞いたが、翠は苦笑いのままスマホに手を伸ばす。
諦めたのか、呆れたのか。
石堂は小さなため息を漏らして、のしり、と体重をかけてきた。
そのまま、べたり、と翠の上にかぶさって来るから、「重い、重いっ」と翠は笑ってスマホを取り上げた。
「あ!」
だがパネルに表示された文字を見て、翠は声を上げる。
彩伯母さん
黒の背景に、その文字がくっきりと浮かび上がる。
「伯母さん!」
つい呟くと、石堂は反射的に身体を離す。同時に翠は上半身を起こすと、タッチパネルを叩いて耳に当てる。
「もしもし?」
伯母さんなの、という問いももどかしく尋ねた。
「みどり? ああ、ようやくつながった」
電話越しにもわかるため息は、純粋に自分を心配したものだった。
「もう、生きた心地がしなかったわ。全然連絡がとれないし、妹に問い合わせても『仕事でしょう? 放っておきなさいよ』とか呑気なこと言うし」
ぶつぶつ文句を言ったあと、彩は声を和らげた。
「あなたまだ八川町にいるの? 大丈夫? なんともない?」
立て続けに問われ、翠は笑った。
「もちろんよ、伯母さん。ごめんなさい。私こそ、あれから何度か電話したんだけど、つながらなくて」
話しながら、ちらりと石堂を見る。
彼はベッドにうつ伏せになったままだが、翠を見上げていた。
「あなたから連絡をもらって……。久しぶりに伯母さん、八川町に来たの。そしたらもう……。随分と変わってしまって……」
ほう、と重い息が語尾をぼやかせる。
「あなたのお母さんからも、事情を聞いてね」
「ねえ、伯母さん。この電話をスピーカーにしてもいい? 私が八川町に関わることになった人がすぐ側にいるの」
翠がそう申し出ると、数瞬の間を置いて、「ええ」と返事が聞こえて来た。翠は石堂に無言で頷いて見せると、ベッドにスマホを置き、スピーカーにする。
石堂も身体を起こす。別にカメラにしているわけではないが、律義にベッドの上で正座をした。
「まさか、あの中洲を潰すなんて、想像もしなかったものだから……。
後悔を多分に滲ませた声がスマホから洩れる。
「あの……初めまして。親愛コーポレーションで副社長をしております、石堂と申します」
「妹から聞いております。面会をお断りして申し訳ありませんでしたね。まさか、こんなことになっているとは」
はあ、と再度伯母の彩は息を吐く。
「あんな中洲……。放置してくれているものだと、てっきり……」
「その中洲のことと、それから対処方法を、我々にご教示いただけますでしょうか?」
石堂が申し出ると、彩は慌てた。
「こちらこそ、最大限協力させていただきます。なにしろ、すでに姪が御厄介になっているようですし……。電話ではなんですから、明日にでもぜひお会いしたいと思いますが」
翠と石堂は視線を交わす。
「願ってもないことです。明日、ご自宅に」
石堂が意気込む。
「ええ、そうね……。いえ、やめておきましょう」
同意しかけたものの、彩はすぐに否定した。
「翠は、いまどこにいるのかしら。あの子が一番無事な場所がいいわ。まだ私の準備が万端ではなくて」
石堂はちらりと翠に視線を走らせた。なにか返事を期待されているようだが、翠だってどう答えるのが一番いいのかわからない。
そもそも、伯母が言う、準備とはなんだ。
「住所を教えてくださる? 車で伺うから」
伯母はさっさとそんなことを言い出した。石堂はためらいながらも、研修施設の住所を伝えた。
「では、朝の十時にお邪魔します。私が行くまで、姪を外に出さないでください」
「承知しました、お待ちしています。それでは」
彩からの通話はそこで終わる。
つー、つー、と平坦に続くのは話中音だ。翠はスマホをタップする。
見計らったように、ベッドに押し倒され、驚いて声を上げた。
「ちょ……っ! 危な……っ」
いでしょうが、副社長、と続くところを、唇で塞がれる。
「それでは」
少しだけ唇を離し、石堂が微笑む。
「続きと参りましょう」
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