第44話 みる太

 まだ、夢から完全に冷めていないからだろう。


 ぶぅぅぅぅん、ぶぅぅぅぅん、と、低く唸る音を耳が拾った時、翠はすぐ側の誰かにしがみついた。


「伯母さん。音がまた聞こえてくる……」


 顔を寄せると、温もりというには熱い体温。


 そして、意外にも筋肉質で硬い感覚に、翠は顔をしかめた。


 途端に右頬に痛みを感じ、うめいて目を開く。

 視界に映ったのは、見慣れないパジャマ。


 その胸元に入れられた金色の刺繍に、翠は一気に覚醒した。


「ご、ごめんなさいっ!」


 がばり、と上半身を起こす。

 自分が抱き着いたのは、石堂だった。


「ん」


 右を下にし、翠と向かい合うようにして横になっていた石堂は小さく声を漏らすと、不意に腕を伸ばして抱き留める。


「うひぃぃ」


 変な声を上げて翠は石堂に拘束され、またもやベッドに引き倒されて抱きしめられた。


「副社長、副社長、副社長!」


 ひたすら副社長を連呼し、うつぶせになって逃れ出ようともがく。だが、この細い腕のどこにそんな力があるんだ、と思うぐらい、しっかりと抱きしめられた。


 石堂はそのまま翠の首筋に唇を寄せるから、くすぐったくてしかたない。


「ちょ、待って! 副社長!」


 背中から石堂にのしかかられる。

 首筋を彼の唇が這い、彼の細い指がパジャマの中に入ってくる。直接胸を触られて、「副社長!」と怒鳴りつけた。どさくさに紛れて、この男はどこを触ろうとしているのか。


「スマホ、鳴ってます! 仕事じゃないんですか⁉」


 そう叫ぶと、ぱちりと石堂は目を覚ました。


 翠から手を離し、ベッドサイドの眼鏡を装着すると、さっきまでの寝ぼけた様子など微塵にも見せず、テーブルまで歩いて行ってスマホを取り上げる。


「悠里め」


 その後、パネルを一瞥して舌打ちする。

 パネルをタップしてテーブルに放り、ペットボトルのミネラルウォーターを喉に流し込む。


「ちょっともう、早く出てよ! どれぐらいコールしたと思ってんの!」


 スピーカーにしているらしい。苛立ったような悠里の声が翠のところにまで聞こえて来た。


「寝てた」

 ぶっきらぼうに石堂が応じると、あからさまに悠里がまた不機嫌になる。


「優雅で良いですねー」

「ホテルのスイートだ」


「ああ、殺したい」

「それはこっちのセリフだ。朝早くから連絡寄こしやがって。何の用だ」


「腹立つなー。こっちは夜勤のバイト明けだってのに」

「あれ。悠里君、そんなバイトしてるんですか」


 つい口をついて言葉が漏れる。


「病院の看護助手をしてるんですよ。悠里、看護科だし」


 石堂が言い、昨日封を切ったままの、翠のペットボトルを放ってくれる。両手でキャッチしたころには、スマホからマシンガン並みに悠里がしゃべっている。


「なになになになに‼ スイートにふたりで泊ったの⁉ ちょっともう、やだ! 一線超えちゃった感じ⁉ 悠里、今から赤飯炊かなきゃダメ⁉」


「残念ながら超えてない」

「残念⁉ いま、尊……、残念って言った⁉ 尊が残念だって思ってるだけ、悠里感激するよっ! お姉さん、ちょっと! ガード硬すぎだよ⁉ 尊が可哀そうだって思わないのっ」


 どんどん悠里の口調が非難めいてくるので、翠は慌てて方向性を変える。


「で。悠里くんは何の用があって連絡してきたのよ」

「あ。そだ。あのね、そっち新聞ある? もう朝刊に載ってるかなぁ」


 悠里の言葉に、翠と石堂は顔を見合わせた。


「取ってきます」

 壁時計を見ると、もう8時を過ぎている。きっと部屋にも届いていることだろう。


「ありがとうございます。……で、なんの記事が載っているんだ?」


 石堂が尋ねている。翠は足早に向かい、部屋の扉を開けて、新聞受けにはまっている朝刊を掴み、ベッドルームに戻る。


「昨日、急患で運ばれてきた人がいてさ。

 いや、ぼくほら、療養棟担当で、単なるおむつ変え要員なんだけど、救急が忙しくなると呼ばれるんだよねー。急患の入院準備とか、移乗の手伝いとか。医療以外でできることを、ばんばん言われるわけ」


 翠は石堂に朝刊を手渡しながら、感心する。


「すごいね、悠里くん」

「すごくないんだよ。すごかったら、医療行為ができてるの」


 ふん、と鼻をならしたあと、悠里は続ける。


「昨日、療養棟の患者さんが落ち着いてたからさ、ナースさんたちとお茶してたの。そしたら、救急が忙しいから、誰か来てって内線入ってさ。

 仕方なくぼくが下りたんだ。ほんで、酔っぱらって頭から血ぃ流したおっさんの話し相手しながら、保険証や入院手続きの紙を書かせようとしてたわけ」


 そうしたら。


 隣の処置室から悲鳴が上がったらしい。


「うちの病院の救急外来って、処置室はカーテンで仕切ってるだけなんだよね。で、ぼくが応対してた酔っ払いのおっさんは、研修医に頭縫われてて……。

 

 ぼく、その間に、おっさんと話しながら、おっさんの血まみれの服とかをビニール袋に入れてたわけよ。ほら、そのまま持って帰ってもらわないといけないから。


 そんで、おっさんに背を向けてたら、『おえええええ』って嘔吐する音が聞こえたから、やべえ、おっさん、吐いた、と思ってガーグルベースひっつかんで振り返ったら」


 酔っ払いのおっさんは、びっくりした顔で隣のカーテンを見ていたのだという。


 研修医も、額を縫う手を止め、目を真ん丸にしている。


 おえええええええ、という音は。

 カーテンの向こうから聞こえていた。


 同時に。

 変な匂いに悠里は気づいた。


「そのあと、ナースの悲鳴とか聞こえて。

 珍しいじゃん、医療者が悲鳴上げるなんてさ。そもそも救急のナースだよ? 消防のいかつい救急救命士に怒鳴りつけるような人ばっかりなのにさ。どうしたんだろう、って。おまけに、そのあと、『換気!』とか、『離れて!』とか言ってるし」


 あまり救急では聞かない単語が飛び交ったという。


 研修医が悠里に目配せをするので、悠里はガーグルベースを持って、こっそりカーテンをめくり、覗いたのだそうだ。


 そこには。

 小太りの男がいた。


 昇降処置台に四つ這いになり、嘔吐している。


 身体を震わせ、威嚇する猫のように背を丸めて、震えている。


 そして口から、ドロドロと緑色の液体を吐き出しているのだ。


「あとで聞いたんだけど、やっぱり嘔吐物から変な匂いしたんだって。

 それでみんなパニクって……。

 ほら、以前さ。服毒自殺した患者が救急で運ばれてきて、処置しようとしたら、嘔吐物から毒ガスが出てきて……。ドクターと看護師が暴露したことあったじゃん?」


「なにそれ」

 翠が目を見開く。ついでに、いたた、と呻いた。


「胃の中で胃酸と服毒したものが化学反応起こしてね。毒ガス発生したの。で、処置室で、盛大にげっぷしたもんだから、処置室ホットゾーンだよ。あれ、何人二次被害でたかな……。あれ? 知らない?」


「ひえ……。そんなのあったんだ……」


「だから、迂闊うかつにカーテン開けた、って師長にめちゃくちゃ叱られたけどさ。だったら、『逃げろ』って言ってほしいよ、もう。


 まあ、今回はそんな毒ガスじゃなくて、単純に食った草についてた除草剤の臭いだったみたい」


「喰った、草?」

「除草剤?」


 石堂と翠は声を揃えて尋ねる。


「その患者さん、公園で倒れてたんだけど、口いっぱいに葉っぱとか枯葉つっこんでてさ。事件も含めて調査してるんだけど……。今のところ、異食いしょく症じゃないかなぁ、って言われてるってさ。

 その時、口にしたのが除草剤交じりの草で……。前日、役場の委託を受けたシルバー人材センターの人が、除草剤撒いてたんだって、公園に」


「その記事が新聞に載ってるか、ってことか?」


 石堂は眼鏡を指で押し上げ、新聞を開く。全国紙なので地方欄を探して、ばさばさとめくって行く。


「多分ね、その小太りの男、ユーチューバーのみる太だと思うんだなー」


 悠里の声に、翠は呆気にとられる。


 みる太。

 あの、禁足地に入り、一旦は動画をアップした男。


「あった。これだ……」

 石堂はテーブルの上に新聞を広げ、翠にも見えるように身をかわした。


 彼が指をさしているのは、地方欄でも大きめの記事だ。


 昨日の日付と、彼が発見された公園名が記され、その公園の写真が載っている。倒れているところを発見された、と書いてあり、警察は事件と事故、両方で捜査中、とのこと。


 特に「草を口いっぱい頬張って」というような表記はされていないが、警察からなんらかの指示があったのかもしれない。


 そして、倒れていた人物の名前がはっきりと明記されていた。


「近所に住む伊藤翔太さん(35)で、自称ユーチューバー」


 翠が読み上げ、石堂を見る。

 彼は昨日、長良からみる太の個人情報を得ていたはずだ。


「彼です」

 石堂が短く答えた。


「なんかねー、新聞載ったこともあって、検索件数爆上がりみたいよ。めちゃくちゃ有名になっちゃった。あはは、あの願い、叶っちゃったね」


 スピーカーからは、悠里ののんびりした声が響いて来る。


「有名になりたい!!! って、あの馬鹿みたいな願い」


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