第42話 石堂尊は死なない
「いや、さっき長良さんから電話を貰って……」
そこまで言って、発言内容を思い出して顔が熱くなる。
「長良? なにか言っていましたか」
「…………けがは大丈夫か、と」
ああ、と石堂は声を漏らし、一旦リビングに戻ってペットボトルを片手に戻ってくる。
封を切って喉に流し込むと、石堂は自分のスマホを取り上げた。
「こっちには、みる太の個人情報を送ってきました。電話番号もあるので、明日にでも連絡してみましょう」
「彼、なににつきまとわれたんでしょうね……。名田さんと同じものなのか。そのあたりが知れれば……」
翠が見たのは、葉を寄せ集めて作った案山子のようなものだった。
彼もそれに付きまとわれているのだろうか。
「あ。芳田さんからも、蘆屋建設の若社長の名前と連絡先が来てます」
石堂はタオルを椅子に放り、スマホを両手持ちして返信している。ぷ、と小さく笑うからなんだろうと小首を傾げる。
「ナイスファイト、だそうです。褒められてしまった」
石堂がスマホ画面を見せてくれる。
LINEのトーク画面だ。パンチしている絵文字付きで、そのあと、『ナイス』と拳を突き上げたスタンプが続くから驚く。なかなかに使いこなしておられる。
「その……、長良さんからうかがいました」
翠はベッドの端っこに座り、石堂を見上げる。
「一方的に暴言を吐かれて、つかみかかってこられた、って」
「暴言というか。まあ、いつものことです」
石堂はなにかまた返信をすると、スマホをテーブルに置いて翠の隣に座る。
ぎ、とほんの少しだけ軋み音を上げ、ベッドは石堂の体重分沈んだ。
「さっさと死ねよ、今死ね、と言われたので。それは無理だ、と」
何とも言いようがない。
翠は深い息を吐く。
石堂の表情は淡々としたものだ。そこに深い悲しみも、泣き出したくなるほどの辛さもない。
ただ、無表情に。
寒風が止むのを待つように、じっとしている。
「あまりに強烈な言葉をもらうと、思考停止しますよね」
それはついさっきの自分だ。
二年前。
亮太に心無い言葉を投げつけられ、きっと翠は思考停止していたのだ。
なにも考えられず、自分の感情がそこに追いついて行かなかった。
そんな翠を見て、亮太は「俺の考えは普通」であり、「俺は正しいことをした」と思ったに違いない。思考を強化させた。
だからまた、翠に平然とあんな言葉を吐きつけたのだ。
吐きつけられるのだ。罪悪感などなく。
「私もそうでした。でもね」
石堂が「それはおかしい」と言ってくれたから、ようやく感情に血が通った。止まったままの脳が動き出した。
だからこそ、怒りを覚えたのだ。
亮太に。
翠はそっと石堂に手を伸ばす。
「そんなこと言うな、とか、黙れ、って怒鳴っていいんですよ」
彼の緩く丸められた拳に触れる。
シャワーの後だからなのか。いつもより体温が高い。よく見ると、若干赤くなっているのを見て、ああ、素手で殴ったからか、と気づく。
「怒っていいんです。副社長に対するご親族の対応は……。とてもひどい」
誰もが彼の死を願っている。
死ぬことで、自分たちが繫栄することを知っている。
だからこそ、しつこく死を願う。
自分たちが安心したいがために、石堂の心臓が止まることを望んでいる。
「大学生になるまで、叔母夫婦の家と実家を行き来してわたしは育ちました。そうしないと、弟がわたしに対して暴力を振るうからです」
石堂は緩く笑う。
「わたしは、
闇が深すぎると、と翠は額に手を当てる。石堂はそんな翠を見て、一度だけ、まばたきをした。
「弟の気持ちもわからなくはないのですよ。わたしがいるから、彼は表舞台に立てない。公式の場には連れて行ってもらえない。
なので、怒りに任せてよく殴られていたので、まあ、別にいいか、と、さっきも思ったのですが」
石堂は翠が掴んでいない方の手を伸ばし、翠の右頬を撫でた。
「あなたが飛び込んできて、わたしの代わりに殴られた時、頭の中が真っ白になって……。気づけば馬乗りになって弟を殴っていました」
つるりとした黒瑪瑙の瞳が潤んでいる。
「痛かったでしょう、怖かったでしょう。本当に申し訳ない」
「痛かったのも、怖かったのも、副社長でしょう?」
右頬を石堂の手に包まれたまま、翠は彼を見つめる。
「今まで、ひどい目にあって辛かったでしょう」
潤んでいた彼の眼には、はっきりと涙が盛り上がり、一粒だけ頬を流れる。
いや、実際にはもっと流れていたのかもしれない。
だが、翠には確認しようがない。
気づけばベッドに両膝立ちになり、石堂を抱きしめていた。
「絶対、死なない。副社長は死なない」
胸に石堂の顔を抱え込むようにして、翠は繰り返す。
「死なない。大丈夫。石堂尊は死なない」
今まで石堂が言われてきた「死ね」のぶんだけ、翠は言ってやりたい。
死なない、と。
ちゃんと生きていける、と。
「誰がなんと言おうと、副社長は死なない。だから大丈夫」
せめて今日吐きつけられた「死ね」の分だけは取り消してやろうと、翠は必死になって「死なない」を繰り返した。
「不思議ですね」
すん、と洟をすする音がしたあと、腕の中で、ふふと石堂が笑う。
「あなたが言うと、本当にそんな気がする。それに」
石堂が腕を伸ばし、翠の腰を抱いた。
「あなたにこうやって包まれていると、自分の中の
ぎしり、とベッドが軋む。
石堂が体勢を変えて、翠を正面から抱きしめた。
「お願いがあるんです」
石堂が翠を見上げる。目元は赤いが、もう涙の痕はなかった。
「なんですか?」
ほっとして翠が尋ねる。
「今日はこのまま、あなたを抱きしめて眠ってもいいですか?」
「いやです」
「返事が早い」
石堂はまた、翠の胸に顔をうずめて笑うから、くすぐったい。
「よく、こんな顔の腫れあがった女を見て、そんなことを言いますね」
翠が呆れる。石堂はきょとんとまた翠を見上げた。
「布士さんは、布士さんじゃないですか。というより、あの背中の大きく開いたドレス。あれを見てから、なんかこう……、だめだ」
「そんなにセクシーじゃなかったでしょう。私、つんつるてんだし」
「わたしが気に入ったんだからいいでしょう」
「だったら、あのドレスでよかったのに!」
「だめです。あれはだめです。他の男が寄ってきたらどうするんですか、だめです、だめです」
頑なに言い張った後、石堂は翠を見上げる。
「なにもしません。手を出しません。我慢します。だから」
いいでしょう、と石堂が甘えた表情で翠に言う。
「…………………はあ……………、まあ」
曖昧に返事をした翠は、そのまますぐ、ベッドに押し倒された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます