第41話 長良からの電話
笑い声を立てるとやっぱり痛んだ。
眉根を寄せたところを見た途端、石堂がしょんぼりと肩を落とす。
「もう、こんな時間だからあれですが……。サンドイッチと紅茶なら、冷蔵庫に入れています。よかったら召し上がってください」
すまなそうにリビングを指さした。そういえばワインセラーの隣に合ったあの四角い箱。あれがそうかもしれない。
「わかりました。副社長は?」
「わたしはもう」
あいまいに言って、石堂は立ち上がった。丸テーブルにスマホを置き、断りを入れてバスルームに向かう。
「さあ……て」
翠は壁時計に視線を向けた。
23時。確か、会場に入ったのは19時だから、そこまで長時間失神していたわけではないらしい。
きょろきょろと見回し、ウォークインクローゼットをみつけた。
開けると、自分の鞄とスーツケースが置かれている。
鞄の中からいつも持ち歩いている痛み止めを取り出した。頭痛生理痛に、というやつだ。
(基本、痛み止めだし)
翠はリビングに行き、冷蔵庫を開けた。
ミネラルウォーターからジュース、ソフトドリンクまでずらりと並んでいる。
言われたまま、紅茶のペットボトルを取り出し、キャップをひねった。薬を口に含んで冷えた液体を飲み込むと、口の中も切っていたらしい。ずきりと
「うへえええ」
石堂が過剰に気にするから彼の前ではできない表情で、ベッドルームに戻ろうと足を向けると、聞き覚えのある着信音が鳴った。
「ケータイ」
これは自分の呼び出し音だ。
小走りに戻り、クラッチバックを漁ってスマホを取り出した。
パネルに現れている文字は、長良。
「もしもし?」
珍しいと思って通話ボタンを押す。
「ああ、良かった。目が覚めましたか、布士さま」
心底ほっとしたような声が聞こえてきて、翠は笑う。
「ご迷惑をかけました。もう大丈夫ですので」
「こちらこそ副社長を守っていただき、ありがとうございます」
姿は見えないが、きっちりと長良が頭を下げている姿が脳裏に浮かぶ。
「意識がないので、救急車を呼ぼうとしたんですが、それより先に副社長が抱えて部屋に戻ってしまわれたので……」
苦笑いの滲んだ声で長良は言う。
「普段なら、絶対救急搬送を要請しそうなのに……。気が動転したんでしょうね。ホテルの専用コンシェルジュには、『誰も部屋に近づけるな』と厳命したようなので、我々さえ近づけず……」
「動物じゃあるまいし。一番安全だと思う自分の巣に連れ帰るなんて」
呆れたような声は、沙織のもののようだ。
「お怪我のほどはどうです?」
長良が尋ねる。
「腫れているだけです。さっき薬も飲みました」
「そうですか。まあ、副社長が一緒ですから心配ないと思いますが、なにかありましたら、受診なさってください」
「ありがとうございます。あの……、おふたりも、ホテルにご宿泊ですか?」
尋ねると、「いいえ」と返答が来て驚く。
「自宅が近いので。今は、沙織さんが運転しています」
「あなたの運転は信用ならないもの」
沙織のうんざりした声に、翠は笑ったが、ふと彼に尋ねてみることにした。
「副社長、服がボロボロになっちゃってるんですけど……。かなり弟さんとやりあいましたか?」
「力量に差がありすぎて……。ぼくと沙織さんとで必死に止めたところです」
「尊が嗣治をタコ殴りよ、タコ殴り」
はあ、と翠は息を漏らす。
「副社長、身長はありますが、ひょろひょろなのに……。本人は、キックボクシングをやってた、って」
「嗣治くんは知らなかったんでしょう。大学進学時に別居しましたからね。それに、ここ数年の副社長は本当に病人のようでしたから。まさか、あんなにボコボコにされるとは思わなかったんでしょう……」
くくくく、と長良が笑いを堪えている。
「馬鹿にしてた報いよ。だいたい、嗣治は鍛えているっていっても、たかだかジム行ってる程度でしょ? 尊とポテンシャルが違う」
はん、と沙織が笑い飛ばしている。
「その……大丈夫ですか? 対外的に」
将来の社長になると目されている嗣治の婚約式。
そこで兄弟が大乱闘だ。
親戚や友人。ましてや取引先はどう思うか。
「親戚は、めちゃくちゃ怒ってたわね、尊に」
沙織の、まったく意に介していなさそうな声が聞こえてくる。
「まあ、もともと尊くんのことをよく思っていませんから。ただ、取引先の皆さんは……。ここだけの話、大盛り上がりでした」
「……大盛り上がり?」
ついオウム返しに尋ねてしまう。長良は笑った。
「副社長、強いじゃねえか、って芳田さんなんかが中心になって、歓声送ってましたよ」
あのおじいさん、確かに喜んでそうと翠は頭を抱える。
「布士さまが思うほど、副社長にとって不利ではありません。むしろ副社長健在、ここにあり、って感じでしたね。布士さまのこともあって、好感度ダダ上がりです」
「逆に、嗣治はだめだわ。あんなに取引先に嫌われてちゃね。うちに入ったとしても、しばらくは隠しておくか、関連会社にでもやってるほうがいいわね」
冷淡な声がスマホを通して聞こえてくる。
「だいたい、尊は礼儀正しく挨拶しに行ったのよ、ひな壇に。そしたらあのクソガキ」
「沙織さん」
「失礼。紫苑とかいう小娘が、『不吉ですから近寄らないでくださいます?』とか言いだして……。そこから、酔っぱらった嗣治が絡んで来たの」
お前が死んでりゃ、おれは副社長の肩書でここに座ってたんだ。
嗣治は、そう怒鳴りつけたらしい。
最早絶句だ。
「で。最終的に胸倉掴んで、あの騒ぎだからね。最悪よ」
知らずに吐息が漏れる。
「嗣治くんの友人の中で動画をとっている者がいるかもしれないので……。しばらくは、ネット周辺を警戒しておきます」
長良の言葉に愕然とする。そうだ。一方的に殴っている姿だけを切り取られ、『副社長ご乱心』とか騒がれたら大変だ。
「まあ、その辺は任せて頂戴。うちの部署が素性と顔は押さえたから」
「沙織さん、本当に頼りになりますねぇ」
ほくほくとした長良は、その声のまま翠に告げた。
「それでは、どうぞ今晩は副社長と仲良く。怪我してますから、ほどほどに」
「あんまりしつこいようだったら、殴ってもいいからね」
意味ありげに沙織が笑って、通話は切れた。
「………いや、そういうのありませんから」
はは、と乾いた笑い声が漏れた。
暗転したスマホを、テーブルに置く。石堂のスマホと並ぶのを見るだけで、なんか照れ臭くなってきた。
ちらりとベッドを見やる。
「……………」
つい、言葉を失った。
キングサイズだ。たぶん、外国人仕様なのだろう。日本人なら、大人でも三人は余裕で眠れそうだ。
それが、部屋にひとつ。
さっきまで自分が寝かされていたから、真ん中あたりがよれているが、まだ糊の利いたシーツが眩しい。
「……………まあ、ね。いつも一緒には寝ているわけだし」
自分に言い聞かせる。
そう。研修施設では、同じ部屋で寝起きしている。自分はベッドで。石堂はマットレスで。
(……よく考えたら、対応が悪すぎるな)
床に直置きマットレスで副社長を寝かせている。しかも、料理まで全般任せてしまっていた。長良が聞いたら卒倒するかもしれない。
石堂の生活環境を改善させねば。
元凶である自分がそんなことを考えていたら、シャワールームの扉が開く音がし、翠と同じパジャマを着た石堂が、バスタオルで頭を拭きながら現れた。
「どうかしましたか?」
立ったりベッドの端に座ったり、意味なくペットボトルの紅茶を飲んだりしていたら、怪訝そうに尋ねられる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます