第37話 尊と嗣治
亮太は50がらみの男性のお供として来ているのか、つまらなそうな顔をしてグラスの酒を飲んでいる。翠の視線に気づいたのかもしれない。ふと顔をこちらに向け、目を真ん丸にしていた。
「どうしました」
石堂が耳元で尋ねる。
「いやあの……、ほら、むかし婚約していた亮太が……」
呆気にとられた顔のまま答えると、石堂は翠の瞳を追う。
「あの濃紺のスーツに、太めの
「そうです。あのグレイヘアの男性と一緒に立っていてグラスを持っている……」
「白石不動産会社の社長さんと一緒ということは……、静香さんのご夫君でしたか……」
呟く石堂を思わず見上げたのは。
彼の声にやけに険が混じっていたからだ。
「どう……」
したんですか、と翠が問う前に。
「副社長」
背後から声をかけられた。
石堂が翠に視線を向ける。副社長、と石堂を呼ぶということは仕事関係なのだろう。
返事をしてもいいか、というような目線だったので、翠は無言で頷いた。
「これは、真鍋測量さん。先ほどは、弟のためにありがとうございます」
振り返るや否や、石堂はわずかに笑みを浮かべて会釈をする。
翠たちより先に壇であいさつをしていた人だ。
「いや、とんでもない。うちの方こそこんな盛大な式にお招きいただき、ありがとうございます」
真鍋が頭を下げる。若干、頭頂部分が薄くなり始めていた。
石堂もいずれこんな風に頭髪が薄くなったりするのだろうか、と翠はじろじろと見上げる。
「こんばんは、副社長」
真鍋が声をかけたことを皮切りに、気づけば五、六人の経営者らしき男たちに囲まれた。
石堂は彼らをにこやかに迎える。ちゃんと名前や企業名を覚えているのだから大したものだ。
通り一遍の挨拶を聞きながら、翠は視線を巡らす。
実際に石堂に声をかけてきたのはこの人数だが、経営者らしき人物たちは、遠巻きにこちらの様子をうかがっているようだ。ゆるく、輪になっている。
(……本日の主役は、あちらじゃないのかな)
ちらりとひな壇をみるが、やっぱりそこには、主役ふたりの友人たちしかいない。
「まだ、わたしも弟に挨拶に行っていないのです」
石堂の声に、翠は我に返り、意識を隣に集中させる。
「みなさん、一緒にどうですか? よろしければ弟に皆さんを紹介させていただきたいのですが」
石堂が穏やかに告げ、ひな壇の方に手を差し伸べた。
そこには、同じ年頃の男性たちと写真を撮っている嗣治がいる。
「いや、そのことなんですが……」
真鍋が口ごもり、ちらちらと、一番年かさの男性を見た。80間近のようにも見える高齢の男性だ。
「まあ、ここはわしから言おう。この中じゃ、失うもんが一番少ないからな」
大袈裟なことを口にする。翠は苦笑いしたが、冗談ではないようだ。経営者たちは真剣な顔で頷いているから、表情を引き締めた。
「副社長」
「……どうされました、芳田さん」
石堂も若干緊張しながら返事をする。
「そこの綺麗なお嬢ちゃんは、あんたの恋人かね」
石堂が芳田と呼んだ高齢の男性は、翠を真正面から見てそんなことを尋ねた。
「え。わ、……私、ですか」
まさか矛先がこっちに向くとも思わず、翠は
「ええ、そうです。〝わたしの可愛い子猫ちゃん〟です」
石堂が真顔で返事をしたため、場が凍り付いた。
しばらくの間、会場内の音楽だけを、ただただ皆で共有する、という時間を経たあと、誰も彼もが一斉に口を開き始めた。
「ですよね、ですよね!」
「いや、そうかな、と思ったものの、子猫ちゃんときたかっ!」
「副社長、今まで女っけ全くなかったし!」
「うちが紹介した見合いもすげなく断るもんだから、どうなんだろうって!」
怒涛の如く言葉をあふれさせた経営者たちだったが、最年長の芳田が、はあ、と大きく息をつくことで終わりを迎えた。
「いや、よかった。そしたらあれだ、副社長。あんたが、社長になる可能性もあるってことだろう?」
「……それは、どういうことでしょうか」
石堂が表情を消し、言葉を選びながら丁寧に尋ねた。
「いや、このお嬢ちゃんを嫁さんに迎えて、ほんで……」
芳田はそこでいったん口を閉じた。
ぐい、と石堂に顔を近づける。といっても、身長差が大分あるので、顎が上がりっぱなしだ。
「あのな、わしの家とて戦前からあんたんとことつきあいがある。噂は知っておる」
声を潜めた。
「親愛さんのところは、長男が継がん。死ぬからだ」
反射的に翠は視線を走らせた。
一番近くにいる経営者たちは、無言のまま首を縦に振った。
『今の時代、ググればなんでもわかる』
出会ってすぐ、石堂は翠にそう言っていたが。
業界では有名な話なのかもしれない。
「あんたがどことも縁つなぎせず、女も近寄らせなかったのは、自分の命運に他人を巻き込みたくなかったからだ、とわしらは思っていた。ところで、だ。副社長さんよ」
「はい」
石堂が、促しを兼ねた返事をした。
「あんた、どっか悪いのかね? 末期がんとか」
はっきりと言われ、石堂は噴出した。
「そのように見えますか? 一応定期健診は受けていますが、異常はどこにも」
「だろうなぁ。おまけに、あんた。ここ数年で一番いい顔しているよ」
ふん、と芳田は腰を伸ばした。
「わしより長生きしそうだ」
「それは、どうかわかりませんが」
石堂が笑うと、ようやく芳田も頬を緩ませた。
「縁というのは、良縁もあれば悪縁もある。それは、結んでみんとわからんが、この嬢ちゃんとの縁は、良縁ではないかね。嫁に
「わたしもそう思うのですが……。現在、返事待ちで」
石堂は目を細め、翠を見やる。
なんだか焦った。
昨晩の話は、本気なのか。
そもそも、これは偽装だったはずだ。
それなのに。
当の石堂は、緩く、柔らかで。少しだけ甘えたような表情をするから、まるで翠だけが、結婚に反対しているように見える。
「なんだ。お嬢ちゃんが渋ってんのか」
案の定、芳田が呆れた声を出す。
「いや、そりゃ怯む気持ちもわかりますよ、お嬢さん」
「ですが、これは優良物件」
「我々は副社長と長い付き合いがあるが、このひとは、本当に身持ちが堅い」
「決めておしまいなさい」
いつの間にか、経営者たちが翠を説得し始める。
「ほんで、あんたは社長になれ」
芳田が低い声で断言した。
「わしらは、そりゃ、あんたんとこから仕事を貰って生活している部分もあるが……。なあ、副社長よ。ありゃ大丈夫か」
ちらり、と芳田がひな壇に視線を向けた。加齢のため垂れた、
「あんたんとこみたいな大きなところが潰れたら、でっかい波が来るんだよ、こっちにも。どばーっと」
失うものが少ないから、と腹をくくって伝えたい内容とは、このことらしい。
翠は芳田以外の経営者たちを見た。
彼らは固く口を閉ざしているが、気持ちは芳田と同じらしい。
そして、それは遠巻きに様子を窺う他の経営者たちも。
(……確かに……。まあ、学生気分が抜けきってない、と言われればそうなのかも……)
突如耳をつんざくトランペットの音がして、翠は小さく悲鳴を上げた。
ひな壇付近で、嗣治の友人が吹き鳴らしている。
音楽関連の仕事をしていると言っていたが、その仲間だろうか。
「大丈夫ですか」
石堂が肩を撫でてくれるので、ぎこちなく笑ってみせた。
いきなり悲鳴を上げたりしたから、変な目で見られているかと、翠は慎重に視線を巡らせる。
だが。
(……冷ややかだな……)
翠は顔が強張るのを感じる。
というのも、友人たちは盛り上がっているが、経営者たちは冷静に嗣治という人物の品定めをしているのだ。
以前、石堂は『弟への引継ぎは父に任せている』的なことを言っていた。
それを信じるならば、見た目はチャラくて頼りなく見えても、経営学や会社の内情についてちゃんと勉強がなされている、と思うべきなのだろう。
だが、そうは見えない。
そして芳田の言う通りなのであれば、「親愛コーポレーションがつぶれるだけでは済まない状況」というのもあるのだろう。
「あんたは、死なん」
芳田が立てた人差し指で、石堂の胸を突いた。
「この嬢ちゃんを嫁に貰って、社長になれ。じゃないと、わしらかて被害に遭う」
「わたしだって、死にたいわけじゃない」
石堂が静かに口を開いた。
「できれば、芳田さんぐらいの年齢まで生きてみたい。だけど代々長男が
ふわり、と微笑んで見せる。
それは、滅多に浮かべない表情なのかもしれない。芳田を筆頭に誰もが息を飲んで、年若い副社長を見た。
「その
「その意気だぞ、副社長!」
ばしり、と力いっぱい芳田は石堂の背を叩いた。周囲でも、男たちが深く縦に首を振っている。
「その時、わたしの肩書がどうなっているかはわかりませんが……。どうぞみなさんの力をお貸しください」
頭を下げる石堂に、誰もが温かいまなざしを向けたり、小さく両手を打ち鳴らしたりしていた。
気づけば、遠巻きに見ていた経営者たちの何人かも近づき、石堂に対して「これからも末永く」と声をかけている。
これでは、どっちのお披露目会かわかったものではない。
(大丈夫なのかな……)
ひな壇の様子を用心深く見ながら、翠は冷や汗をかく。
今はまだ、トランペットが鳴り響いているだけだ。
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