第19話 ご破算の理由
言葉を濁してかわせばいいのだろうが、真っ直ぐに瞳を向けてくる石堂に、そうするのは
それに。
この人ならなんと答えるだろう、と好奇心が沸いたのも確かだ。
「結婚の最大の目的って、子どもじゃないですか?」
「子ども」
石堂が繰り返す。その語尾を、低くパソコンのモーター音が濁らせた。
「子どもをもうけようと思ったら、法的なこともあるから、籍を入れて……。いわゆる〝結婚〟という
「……そうですね、じゃないと
石堂は形の良い顎をつまみ、小さく頷いた。
「授かり婚という言葉もあるし……。とりあえず、結婚と子づくりって、なんかこう、セットだと私は思うんですよね。まあ、いまは事実婚とかありますけど……。あれって、子どもの権利が宙ぶらりんだと思うし」
翠が言うと、石堂はまた頷いて、視線をちらりとパソコン画面に向けた。ひょっとしたらなにか動き出したのかもしれない。
「だけど、私は子どもができないので」
できるだけさらりと伝えたが、キーボードに伸ばそうとしていた石堂が動きを止める。
「月経はあるんですけど、無排卵のようで……。ただ、薬を飲めば排卵はするんです。だから、絶対に子どもができないってわけじゃないんですが、こどもを望もうとしたら、治療と服薬は必要になってきます」
「そういうのって……、いつ気づくんです?」
てっきり「そうなんですね」とか「それはお辛いでしょう」とかいう返事が来ると思ったのに、石堂は目をまたたかせて翠を見ている。
「月経は普通に来ているのでしょう? でしたら、なんらかのきっかけがあったのですか」
尋ねる石堂を、翠は変な人だなぁと心底感じた。自分が石堂の立場なら強引にでも話題を変える気がする。
それぐらいナイーブで繊細な話題を、翠は口にしたと思ったのだが。
「当時の恋人が、婚約した途端、避妊をしなくなったんです」
だからだろう。
なんだか、はっきりと翠は言えた。
「私は営業職をしていましたから……。急に妊娠しても、引継ぎのことでばたばたしてしまいます。なので、計画的にしたかったんですが、彼は一日でも早く子どもが欲しい、と。それで、基礎体温を測って、排卵日を調べようと思ったんです。その日を避ければ、避妊しなくても妊娠しないわけですから」
ところが翠には、排卵日などなかった。
「基礎体温を書きとったグラフを持って婦人科に行って、医師に相談しました」
今でも、あの時の不安な気持ちをありありと思い出すことができる。
めちゃくちゃなグラフ。
高温期も低温期もなく、一定でもなければ、乱高下もしていないグラフ。
ネットで調べても、こんな基礎体温、どこにもない。
「排卵していない、と言われて薬を処方されました。その結果、無事排卵することは確認できました」
「それはよかったですね」
真顔で石堂が言うから、思わず吹き出してしまう。
「よくはないのです。薬を飲まなければ、またもとに戻りますし、なにより排卵痛がひどくて……。仕事どころではありませんでした」
それに、と翠は続ける。
「婚約者からは、『普通に妊娠出産できる人と結婚したい』と言われて、結婚はご破算です」
「ん?」
石堂の眉根が寄る。
「普通に妊娠出産、ってなんですか」
「たぶん、薬なんて飲まずに排卵している人のことじゃないですか」
翠は肩を竦め、枕を抱えたまま両膝をたてる。その膝の上に顎を乗せると、枕に圧迫されたのか、口から呼気が漏れた。
「普通に生理が来て、普通に性行為をしたら、普通に妊娠する女性のことでしょう」
あのとき、自分は普通とは違うのだと突き放された気がした。
「その後も……、まあ、営業の仕事を続けていましたが、ある日、同期の男性が私より先に昇進したんです」
無言の石堂に、翠は口角を上げて見せる。
「私より営業成績が悪く、私より実績が無いのにどうして、と。ちょっと……、上にかけあったんですが」
「なんと言われたんですか」
あはは、と翠は笑った。
「彼は結婚して、もうすぐ子どもが生まれるから、お金が必要になってくる、って。君もいずれ結婚して子どもを持てばわかるだろうし、次は君が昇進する番だから、少し待って、って言われて」
翠は膝に顎を押し付けたまま、自分のつま先を見た。
仕事をしていた頃は、しっかりとネイルしていた爪。
そこには今、なにもない。
「辞めました。だって、私は結婚もしないし、子どもも持たないから。きっとお金が必要になる普通の人たちの気持ちなんてわからないもの」
引き止められ「本当に次、昇進するから」とか「給料あがるから」と必死になって説得され、最後には社長までやってきたが、翠は退職願を下げなかった。
そのあと人事部担当者と、営業部の直属の上司は社長にこっぴどく叱られ、口頭処分を受けたらしい。
社長からはそれなりに評価されていたのだと知れて、ちょっとだけ嬉しかったことを思い出す。
「よかったじゃないですか、そんな男と結婚せず」
さらりとした声が翠の鼓膜を撫でる。
「価値観の違う人間と一生を共にするのはつらいでしょう。会社もそうです。同じ倫理観を共有していないと、のちのち割を喰う」
顔を起こすと、一瞬だけ石堂と目が合った。
彼は黒瑪瑙のような瞳に優しい光を湛え、翠を見つめてくれていた。
「良い決断だったと思います」
「……ありがとう、ございます」
なんとなく礼を口にし、それから恥ずかしくなって顔を伏せる。
「あ。動きましたね。メールボックスを開けてみましょう」
石堂の言葉の後に、かちかちとキーボードを操作する音が続いた。
翠はそっと顔を起こし、彼を眺める。
眼鏡をかけた彼は日中の雰囲気とはまた違うのに、真剣なまなざしは仕事中のそれだ。
「ああ、やっぱり送れていない。再送しましょう。今度は、布士さんのあの写真も添付しますので……。なにかわかるかもしれません」
長良までメールや写真は届いていなかったらしい。
背中を丸めてパソコンを操作し、送ったようだが。
「……だめですね。ネットはつながるのに、送受信してない」
エラーが出たのだろう。ふう、と息を吐き、背を伸ばした。
「しばらく、別の仕事をしていますが……。もう、眠りますか?」
首を傾げて尋ねられる。
「はい。あの、私、電気ついてても全く問題ないので……。ここで仕事して、一区切りしたら、ここで寝てくださいね」
きっぱりと告げると、石堂は苦笑して眼鏡を擦り上げた。
「わかりました。それでは、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
翠は言い、もぞもぞとベッドにもぐりこむ。
石堂には背を向け、壁に向かって背中を丸めた。少し低いと感じる枕に顔をうずめて目を閉じる。
石堂がキーボードをたたく音が優しく背中を撫でた。
小雨のようなその音を聞きながら。
翠は気づけば眠り込んでいた。
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