第17話 室内を覗く者
「この男に関しては、画像をさっき長良に転送しました。あっちでもっと画像を鮮明にできるかもしれない。それと同時に、中洲への立ち入りをもっと厳重にするよう命じるつもりです。近日中に改善できるでしょう」
「……はい」
「それで明日、もう一度わたしと一緒に中洲に行きましょう。今日はご神体を……」
「また行くんですか!」
つい言葉を遮って、素っ頓狂な声で叫んでしまう。
石堂はぐるりと椅子を回して、座ったまま翠を見上げた。
「もちろんです。今日は社を発見しましたが、ご神体を見ることはかなわなかった。我々の目的は、ご神体の移設と、竹藪の安全な撤去。その後の販売です」
暖色系の室内の明かりを受け、硬質さを増す黒い瞳をすがめて石堂は続ける。
「これは契約内容にも書かれていたと思いますが」
「わ……、私は足手まといではないですか?」
指を組み合わせ、翠は眉を下げる。
「今日だって、完全に副社長の邪魔しかしていない気がしますが」
腰を抜かし、動けなくなったのだ。
「とんでもない。あなたがいたから、わたしは今、こうやって仕事をすることができているんですよ」
心底驚いたようだ。石堂は目を丸くし、その拍子に眼鏡が鼻からずれる。
「これも前にお伝えしましたが……。たぶん、わたしはこの物件で命を落とす可能性が高かった」
眼鏡は不要と思ったのだろう。石堂は外し、つるを丁寧に畳んでテーブルの上に置く。
「わたしひとりで中洲に入り、あんなものに遭遇していたら……。今頃、長良が通夜の準備に走っていたでしょう」
「そんなこと……。ないと思いますが……」
もごもごと翠は言う。
正直、もう一度あんな目に遭うのは嫌だ。
だいたい、石堂は怪異にうまく対処しているように見えた。翠こそ、あんなところに、のこのこひとりで出向いていたら、どんな結末を迎えていたか。少なくとも身体中ダニまみれになっていたに違ない。
「……その。今からでも、その契約というのを解除していただいても構いませんけど」
いや、むしろ解除してほしい。
「何度も言いますが、感覚的なことを人に伝えるのは難しい。自分では普通だと思うことを誰かに伝えるのですから。うまくあなたにお伝えできているかわからないのですが……」
石堂は、ぐずぐずと煮え切らない翠に対して、声を荒げることはなかった。むしろ、丁寧に言葉を選ぼうとする。
「わたしは、あなたと行動を共にしてから本当に体調がいいのです。お疑いなら長良か、わたしの担当医を紹介するので聞いてもらっても構いません。
あなたに出会うまでは、日中に仕事をするだけで疲労困憊していた。へどろのようなものが血液の代わりに身体を巡っているのかと、疑うぐらいでした。とにかく身体が重く、呼吸をするだけで胸が痛い。そんな有様だったのです」
それが今はどうだ、とばかりに、石堂は両腕を広げて見せた。
「あなたはわたしの救世主だ。どうか、お力添えをいただきたい。一緒に行動をしてほしい」
「……………その。こういってはなんですが…………」
翠は上目遣いに石堂を見る。指を組んだり解いたりしていたら、ごろり、とまた不穏な雷の音が部屋に響いてきた。
「まだそんなに悪評が立っていないのなら……。その土地をどこかの不動産会社に売って、もう手を引いてはどうですか? そんな死にそうな目に遭ってまで、どうしてなんとかしようと思うのです」
どおん、とさっきより近くで雷鳴がとどろいた。
翠は肩を震わせたが、石堂はしばらく黙ったまま自分を見上げている。
「この土地を、誰かに押し付けろ、と?」
静かに問う。
「ありていに言えば……、そうです」
翠が頷く。
「行政が絡んでいるのなら、それなりの値段で売れるのでは? その……、もう放っておいてはどうでしょう」
翠はいままで怪異など存在しないと思っていた。
もちろん、エンターテイメントとしてのホラーは好きだ。ひとを怖がらせるのは、笑わせるのと同じぐらいに難しい。だから面白い。
だがそれはあくまで技巧の問題であり、「実際にあり得る話」を語るのとは違う。
そして、それは「実際にない」という前提に提供する娯楽だ。
だが。
あそこは変だ。
ざくざく、と。
葉を踏みしだいて近づくのは。
意思があるのに、形を伴わないなにかだった。
「布士さんは、つい先月まで本業がおありでしたね?」
突然そんなことを問われた。
「……ええ。前職は工業系塗料を販売する営業職でした」
なるほど、と石堂は頷く。
「では、布士さんが今から売ろうとする商品に、重大な欠陥があったとします。その塗料を使用すれば人体に重大な影響を与えることは明白だ。だけど、会社には大量にその塗料がある。改善する方法はあるものの、それをするためには多大な損害が出る。それで、布士さんは」
石堂は首を右に傾けた。
「これは毒だと知りながら、笑顔で工業塗料を売るんですか? 会社のために」
静かに尋ねられ、翠は唇を噛んだ。今更ながら失言だと気づく。
「わたしは、わたしの会社が扱うものに責任があると思っています。土地は安い買い物ではない。人の一生を左右するほどの金額を求める。ならばわたしは、それに見合うだけのものを提示したい。それが石堂家の長男の……、少なくとも矜持だとは思っています。このままではあの地は売れない。売ることができない。危険すぎる」
落ち着いた声を最後まで翠は聞けなかった。耳まで真っ赤になって俯き、頭を下げた。
「ごめんなさい。浅はかでした。……その、私……」
「いえ、わたしが意地悪でした。布士さんは、ただ、怖いだけなんですよね」
柔らかな声を差し伸べられ、翠はおそるおそる顔を上げる。
穏やかな光を湛える瞳を細め、石堂は微笑んでいた。
咎めたり、怒ったりはしていない。そして、憐れんでもいなかった。
ただ、彼は翠を落ちつけようとしてくれていた。
「あの中洲ですが……。わたしに害を加えることはあっても、布士さんを傷つけることはないと思いますよ。現に、あなたの苗字を出せば、近づいてはこなかった」
ゆっくりとした口調に、翠はおずおずと口を開く。
「だけど……。追いかけてきましたよね」
竹藪を出ようとした翠と石堂に、ぴたりとついてきた足音を思い出し、身震いする。
同時にまた、どおん、と落雷の音が響いた。
「追いかけてきたというか……。本当に外に出るかどうか確かめていたんじゃないですか? 少なくとも襲う気はなかった気がします」
石堂は宙に視線を彷徨わせて、当時のことを思い返しているようだ。
「随分と冷静なんですね……」
ついそんなことを言ってしまった。石堂は気を悪くしたふうでもなく、苦笑いして見せる。
「場数が違いますから」
石堂の語尾に、屋根に打ち付けるような雨音が続く。
「ああ、降ってきましたね。夕飯を外に食べに出ようと思っていたんですが……」
石堂はまた、椅子を回転させる。
眼鏡をかけ、スリープモードになったパソコンを起動させた。ネットにつなぎ、検索エンジンを立ち上げる。
翠も手近な窓を見た。
窓にはすべてカーテンが引かれていたが、一か所だけ、全面ガラス張りになった両開きの扉からは、庭の様子が見えた。
芝生が広がった庭は一面薄暗い闇に没していたが、リビングから漏れ出る光に照らされえた出入り口付近は、比較的はっきりと見えた。
コンクリうちされた靴脱ぎ場に、雨が礫となって降りしきり、白く煙ってさえ見える。
「夕立でしょうか」
翠は呟き、壁にかけられている振り子時計を見た。
時刻は夕方の六時過ぎ。もうすぐ半になろうかとしている。
「雨雲レーダーの動きを見ますか。たぶん、もうすぐ止むでしょうから」
雷鳴と雷光の間隔が短くなっている。
ぴかり、と両開き扉全面が発光したかと思うと、すぐに腹に響く重低音がとどろいた。
反射的に翠はすくみ上り、石堂の肩を掴む。
「大丈夫ですよ」
その手をぽんぽんと撫でられ、翠はぎこちなく唇の両端を上げて見せた。
「あれ?」
石堂が小さく呟く。
翠はその声に促されるように、パソコン画面を見た。
モーションカメラの映像だ。
さっき、石堂は閉じたと思ったのだが、何かの拍子にフォルダが開いたらしい。
そこには。
三枚目の写真があった。
「これ……、私、ですね」
翠の声に、石堂は頷く。端に記された日付は今日。
翠が先に立って中洲に入ったとき、モーションカメラが作動したのだろう。
ぽつん、と立っている自分。
その背後に。
「これ……、誰ですか」
翠の声が震える。
パソコン画面には。
自分の真後ろに。
張り付くように、白い開襟シャツを着た男が立っていた。
耳元に口を寄せ、何か言っているようだ。
『お前は』
あの声が蘇る。
「これ……っ。なにっ」
悲鳴になりかけた声を必死で押し殺す。
画面を指差した。
だが。
ぷぃん、と。
羽虫が飛び立つような音を立てて、パソコンの電源が落ちた。
次いで室内の照明が消える。
どおん、と。
落雷が空気を振動させ、窓ガラスを揺すらせた。
がたがたがたがた。
がたがたがたがた。
風もないのに、窓が鳴る。
カーテンが揺れる。
「ふ、ふふふふふふ、ふくしゃ……」
副社長と呼びたいのに、舌がもつれて上手くしゃべれない。
「大丈夫です」
椅子から立ち上がり、石堂が翠の身体を引き寄せた。腰を抱き、闇に飲まれた室内を見回した。
「ここには、まじないをかけてありますから」
閃光が両開き扉から差し込む。
稲光だ。
同時に。
銀色のそれは。
リビングに影も伸ばした。
長く長く長く長く長く長く。
伸びた人影。
それは。
両開き扉に立っていた人物を浮かび上がらせたものだった。
「…………っ!」
声にならない悲鳴を上げて、翠は石堂にしがみつく。
どおおおおおおおん………。
落雷の音が続いたが、途中から翠の悲鳴がかき消した。
室内は再び闇に沈み、激しく降りしきる雨の音が窓越しに聞こえた。
ごろり、と。
空が不穏に唸る。
前触れもなく雷光が照らす。
両開き扉の前に立っているのは。
枯れ葉を寄せ集めて作った、案山子のようなものだった。
細く長く、そしてつるりとした表面の、特徴のある葉は、朽ちかけた竹の葉だ。
それを乱雑に押し固め、強引に人型にしたようなものが。
ガラス面に手を突き、こちらを窺っている。
「ここには、布士の者と、石堂の者しか入れない」
硬直した翠の腰を片腕でとらえたまま、石堂は淡々と声を発した。
枯れ葉を寄せ集めた人型は、ただ、穴が開いただけの眼窩をこちらに向けた。
拍子にばらばらと枯れ葉が散る。
そしてまた、その姿は闇に飲まれた。
ととととと
ととととと
雨音に交じり、小刻みにすべての窓が揺れた。
カーテンが震えている。
「……叩いている……?」
翠はすぐそばの石堂を見上げた。
途端に彼の眼鏡が、雷を反射する。
翠は反射的に両開き扉を見た。
だがそこには。
もう、あの人型はいなかった。
「あ」
石堂が呟き、天井を見上げる。
いつの間にか。
照明が復活していた。
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