第16話 画像
翠は茫然としばらく見つめていたが、鼓膜を打つ雷鳴の音に我に返る。
スーツケースの蓋を乱雑に締め、手に持って浴室を出た。
そのまま、一番手近な部屋のドアノブを掴む。
石堂からは、二階であればどの部屋を私室に使ってもらってもいい、と聞いていた。
金属の冷たさに肩を強張らせながら、ノブを回して扉を押し開ける。
室内は真っ暗だった。
ごろごろとまた、空は不穏な音を鳴らす。
翠は壁際に手を這わせた。パネルスイッチに触れる。
押した。
途端に闇は駆逐され、白く煙るほどのライトが満ちた。
翠は幾分落ち着きを取り戻し、辺りを見回す。
八畳ほどの部屋だ。
壁際にベッドがあり、いずれもカーテンがしめられた窓がふたつ。
ウォークインクローゼットと、簡易なデスクとイスがある。無個性といえば無個性な部屋だ。研修施設なのだから仕方ないが、非常に素っ気ない。
翠はスーツケースを持ち上げてウォークインクローゼットの前まで移動する。転がすと、階下にいる石堂に迷惑をかけそうな気がした。
「よいしょ」
わざと声を出し、クローゼットの前でスーツケースを下す。
ふうと息を吐き、把手を掴んだ。
引くと、くの字に曲がって開くタイプの扉だ。
スーツケースごと、とにかく中に置いて、そして石堂のいるリビングに移動しよう。
ワンピースなど、すぐにハンガーに吊るしたいものもあるが、中身を仕分けするのはこのあとだ。
翠は勢いよく把手を引いた。
がしゃん、と音を立て、扉が折れる。
クローゼットの高い部分に、横向きに通されたポールがある。いくつか木製のハンガーがかけられていた。
「あ。助かる」
少し嬉しくなる。最低限しかハンガーを持ってきていない。
これを使えば、他の衣服もしわにならない。
翠はスーツケースを押して、中に入れようとしたが。
「ん?」
なんだか抵抗を感じる。
スーツケースとウォークインクローゼットの壁にはまだ余裕があるのに、奥に入らない。
「なんか、つっかえてる?」
翠はスーツケースの上部を押さえ、中腰になって覗き込む。
向こう側になにかあるのだろうか。例えば、除湿器のようなものが。
だが。
翠の目が捕らえたのは。
足だった。
ズボンをはいた、二本の足。
翠は男だと思った。
ゆっくりと視線を上げる。
裸足の足。膝の出たズボン。使い古された革のベルト。真白な開襟シャツ。のどぼとけのある首。
そして。
まっすぐに自分を見つめる顔。
青白い皮膚。白い部分がない真っ黒な目。濡れたのか、張り付いた髪。
「…………‼」
翠は悲鳴を上げて尻餅をついた。
どおん、と。
落雷の音がそれに重なる。
ウォークインクローゼットの奥に。
男がいる。
「布士さん⁉」
悲鳴を上げ続けていた翠だが、肩を揺さぶられて我に返る。
顔を上げると、石堂が両膝をついて後ろから翠を支えてくれていた。
珍しい。眼鏡をかけている。
「どうしました」
慎重に尋ねられ、翠はまだ荒い呼吸で身をよじる。
彼の胸にしがみつき、堅く目をつむって叫んだ。
「クローゼットになにかいる!」
「クローゼット?」
石堂は翠の両肩を抱えるようにして、一緒に立ち上がった。ふわり、と彼の呼気が翠の髪を滑って首に落ちていく。
「大丈夫です。なにもいませんよ」
囁かれ、目を見開いた。
「そんな! 男が……っ」
きつくシャツを握ったまま、翠は視線をクローゼットに向ける。
半開きになった扉には、中途半端にスーツケースが押し込まれていたが。
その奥には、誰もいない。
「ここは安全です。布士と石堂の者しか入れないようにしてありますから」
石堂に背を撫でられても、翠は信じられない思いでクローゼットを見ていた。
そこにいたのだ。
男が。
手にも感覚が残っている。
押しても入らなかったスーツケース。
それは。
奥に、男がいたからなのだ。
「大丈夫です」
石堂に声をかけられ、ようやく翠はゆっくりと彼から手を離した。
「……すみません、なにかを見間違えたようで」
掠れた声で言うと、なんでもないことのように石堂は首を横に振った。
「疲れたのでしょう。一緒に下りましょう」
促され、揃って部屋を出た。
飴色の廊下を、裸足で進む。冷たさや不快な感じはしない。
階段を降りて、灯りが煌々と輝くほうに足を向けた。
リビングダイニングらしい。
かなり大型の暖炉が備え付けられ、部屋の中央には一枚板を使ったテーブルと、北欧製と思しき椅子がいくつか並んでいる。
そこに、石堂は座る。ノート型のパソコンを開いてキーボードを叩いた。
彼も風呂に入ったのか、スーツ姿ではなく、Tシャツ姿だ。その前部分がくしゃくしゃだ。さっき、自分がしがみついたからだと気づき、恥じ入った。石堂の髪はまだ濡れていて、ただざっくりと後ろに撫でつけられたままだ。
「すいません、ご迷惑をかけまして……」
小声でそう言うと、石堂は顔を上げ、ノートパソコンの画面越しに、にこりと笑ってくれた。
「とんでもない。そうそう。マダニもケガもなかったですか?」
はい、と頷きながらも、どんどん顔が熱くなる。
よく考えたら、泣いたり腰を抜かしたり、震えて動けなくなったところを抱え上げてもらうなど、とんでもない失態を繰り返している。
「いま、モーションカメラのSDカードを確認しているところなんですが……」
手招かれ、翠は足早に彼に近づく。それまでに、真っ赤になっているであろう顔を振ってなんとか熱を飛ばす。
「まあ……。まさか本当に誰か侵入者がいるとは思わなかったので、安いカメラを使ったのが失敗でしたね。画像が悪すぎる」
ふう、と石堂が息を吐く。
翠は椅子に座っている彼の後ろに回り、ノートパソコンの画面を見た。
画面の下にはいくつか小さな写真が横一列に並んでおり、中央には選択した写真が大写しになっている。
「……男の人、ですかね」
翠は呟く。
石堂は『画像が悪い』と言っていたが、それでも小太りで手にハンドカメラらしいものを持った男を横から撮った白黒の写真があった。
確かに、表情まではまったくわからないし、服装もぼんやりしすぎているが、暗視カメラでここまで撮れているのなら十分ではないだろうか。
「動画にすればよかったな。このモーションカメラ、写真だけらしい」
かちかちと、石堂はマウスをクリックして別の写真を選択するが、もっとブレブレのものばかりで、さっきの写真が一番明瞭だ。
「この男が、今から一か月ほど前のもので……。これが、二週間前の侵入者です」
石堂は写真をスクロールしていき、一枚を指定する。
画面に現れた人物を見て、翠は目を丸くした。
「これ……。中学生ですね」
さっきと同じく画像は白黒だが、襟のついた飾りっ気のない長袖のジャージは、どう見ても体操服だった。
女の子らしい。
長い髪を一つに束ね、懐中電灯を持っている。へっぴり腰になっている姿を横から撮影されていた。
懐中電灯を持っているせいか、こちらの写真は映りがいい。横顔とはいえ、はっきりと輪郭や目鼻立ちが確認できた。
「この子については、体操服から学校が判明できるでしょうし……。写真を学校に持ち込んで、生徒を特定します」
ぎしり、と軋み音がして、翠は目を石堂に向けた。
「なんのために?」
「保護です。禁足地に入ったわけですから、なんらかの影響を受けている可能性がある」
もちろん、と不機嫌そうに石堂は口をへの字に曲げた。
「変なものを見た、とか、おかしなものに遭遇した、ということを口外しないよう、口止めするためでもありますが」
そっちが本音なのだろう、と翠は再び、ノートパソコンの画面に視線を移す。
完全に腰が引けた姿勢で、突き出すように懐中電灯をかざす少女。
(こんなに怖がりながら……、なにしに行ったのかな)
興味本位、というわけではないだろう。
そもそも、中洲の竹藪に何の用があるのだ。
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