第13話 社
「
「ひゃい!」
不意に名前を呼ばれ、変な声が出てしまった。翠は肩を跳ね上げたまま石堂を見上げる。
「軍手、しますか?」
「ああ、いえ……。あ。した方がいいのかな」
翠が戸惑っていると、握っていた手を離された。
「すみません。よく考えたら、ずっと手を握ってもらってて……」
ようやく気付く。それぐらい、なんだか自然にふたりで手をつないでいた。
「いえ。わたしは、あなたにふれているほうが、体調がいいものですから」
ふわりと石堂が笑う。
初めて会った時よりも、随分と表情が動くようになった。
彼の顔を見上げてそんなことを思う。
同時に。
本当に彼は体調が悪かったんだな、と改めて感じた。
翠自身、婚約破棄の影響で食欲が落ち、常に頭痛に悩まされたときは、石堂と同じように無表情だったらしい。
らしい、というのは、自分では自覚できなかったからだ。取引先に指摘され続けてようやく気付いた。
『どうしたの、怖い顔して』『珍しいね、しんどいの』『不機嫌そうだな。なにがあった』
そんな風に言われ、慌てて取り繕った。ああ、表情を動かすのもエネルギーがいるのか、と疲れた覚えがある。
「あなたの周囲の人はいいですね。きっと毎日過ごしやすいことでしょう」
石堂に言われ、翠は苦笑いだ。
「今までそんなことを言った人はいませんけどね」
ポケットから出した軍手を手にはめる。やはりこちらも指先まで届かず、手首側を持って、ぐいと引っ張った。
「確か恋人がいらっしゃったでしょう? 過去に」
「ええ、まあ」
「彼はなにも言いませんでしたか?」
「言いませんでしたね。だからでしょうか、彼は今、別の女性と家庭を築いて……。望んだ生活をしていますよ」
翠は周囲を見回し、手近な竹を両手でつかむと、「よいしょ」と足をかけて中洲に上陸した。
翠の目の前に広がる竹藪は、やはり深い。
しょせん、中洲の竹藪だ。
そう思っていたが、細く切り開かれた道は、奥に長く伸びている。
せいぜい、竹二本分ぐらいを伐ってつけた作業道だ。
その先が、見えない。
この奥に社があるというが、どこなのだ。
奥行きだけじゃない。中洲には幅もあるのだろう。
みっしりと地面に竹が根を張り、下草などないに等しい。竹の葉影となり、育たないのだ。
一歩踏み出してみると、ふかり、と長靴が沈む。地面じゃない。これは積み重なった竹の葉だ。
同時に、もわり、と。
生温かい何かが這い上がり、羽虫のようなものが顔に向かって飛んできた。
『手伝ってくれないか? なあに、難しいことじゃない』
聞き覚えの無い男の声がざらりと鼓膜を撫でる。
「わ! え⁉」
思わず顔を両手で覆った。新品の軍手だからなのか、独特の匂いがする。
だがそれよりなにより。
首筋の周りに違和感がある。
『お前の』
不意に背後から声がかかったようで、翠は大声を上げた。
「大丈夫ですか?」
ざぶり、と水音がして、すぐ背後に石堂が立った気配があった。
「な、なんか虫が……」
おそるおそる顔を覆う手を下し、振り返る。
真後ろにいるのは石堂だ。肩を支えてくれている。
だが、聞こえた声は彼のものじゃない。
虫の羽音を聞き間違えたのだろうか。
「なんか……、虫が。足元から、飛び上がってきたみたいで」
「カナブンとかでしょうか? ムカデなら這うでしょうし」
石堂が翠の前に出て、膝を曲げた。
そのまま地面を見つめて、しばし動きを止める。
「いました? なんか変な虫」
「いや……。足跡が」
石堂は膝を伸ばし、翠に見えるように身体を
彼が指さしている先には、確かに足跡があった。
獣じゃない。靴裏だ。
なんらかの理由で足を滑らせたのか。つま先部分をめり込ませるようにして、いわゆる〝げそ痕〟というものがはっきりと残っていた。
「工事の人のじゃないんですか?」
翠が首をかしげると、石堂は困惑したまま首を横に振る。
「一か月近く止まっています。その時についたとしても、やけにはっきりしている。誰か侵入したのかもしれません」
言うなり、石堂はぐるりと上部を見回した。
「あった」
石堂は小道を離れ、竹が乱立する中に身体を滑り込ませる。
なんだろう、と翠も後を追う。
彼は両腕を伸ばし、一本の竹にとりついていた。
「なんですか、それ」
翠は尋ねる。
石堂がつま先立ちになって触っているのは、四角く黒い箱のようなものだった。
「モーションカメラです。一応、うちの物件ですから。不法侵入者がいたときのために、取り付けてあるんです」
彼は薄暗い中でも器用にロックを外し、長方形をしたプラスチック製の箱のようなものから、何かを抜き出した。
「帰って確認しましょう」
振り返り、石堂が翠に見せる。SDカードのようだ。ワンショルダーを胸側に回し、中にカードを仕舞う。
「それ、電源はどうなってるんですか?」
電線でも引いてきているのだろうか。
「これですか? 乾電池です。単三電池で動きますよ」
石堂はバッグの中からコンパクトカメラを取り出し、中からSDカードを引き出した。代わりにそれを入れるらしい。
「カメラとかも持ち歩いてるんですか」
驚いて尋ねる。スマホのカメラが高画質になってから、翠などカメラ自体持ち歩かない。
「備えあれば、というやつです」
石堂は言い、モーションカメラにカードを差し込むと、ロックをかけて竹藪から出て来た。
「進みますか」
ワンショルダーバッグを背中に戻し、石堂が促す。翠は頷き、細い道を先導した。
竹の根のせいだろう。
葉が降り積もって、ふかふかとしているのだが、時折
「あれが……、そうですか」
道の途中に、それは確かに突如現れた。
ただ、翠には〝養蜂箱〟に見えた。
長方形の木箱に、屋根と
そんな感じだ。
社の周囲だけ、不思議と竹が生えていない。
ぐるりと円を描くように根すらはびこっていなかった。
ただ、茶色い葉だけが降り積もり、まるで朽ち果てる前に見える。
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