第12話 竹藪

「まだ階段はできていないようですね」


 石堂が周囲を見回す。

 確かに、土手から川まで降りる階段らしきものはない。


「ああ、でも。誰かがつけた道がありますよ」


 翠が指差す。

 草が生い茂る土手には、踏まれて葉が折れたり千切れている場所があった。明らかに誰か人が踏みしめた跡だ。


「……そう、ですね」


 石堂が不審げに呟く。なんだろう、と翠は顔を上げて彼を見る。工事の人間がつけた跡ではないのか。


「まあ、とりあえず行きましょう」


 言うなり、石堂は慣れた足取りで土手を降りていく。


 続こうと思ったが、長靴の中で足がぶかぶかと動き、思うように動けない。踏みしめようと思うのに、ずりり、と足裏が滑り、あわわ、と両手を動かして足を止める。なんとか転倒を防いだものの、次にどこに足を出せばいいかわからない。


 おっかなびっくりに、ゆっくりと足を踏み出していたら、先に川まで降りていた石堂が見かねて戻ってきてくれた。


「手をつなぎますか?」

 頷くより先に、ぐい、と握られる。


 温かく、大きな掌だった。そのせいで手首まで保定された。

 そのまま石堂は歩き出す。

 翠は足元だけを見て、彼が歩いた後を意識してついて行った。


「深い部分はありませんから。このままついて来てください」


 なんとか土手を降り、今度は岩や石が続く川べりを歩く。時折、踏みつけた石自体が、ごろりと動いて転倒しかけたが、しっかりと石堂が支えてくれて、ほっとした。


 ざぶり、と。

 水音がして視線を前に向ける。


 それまで自分の足元しか見ていないことに気づいた。

 石堂の長靴はすでに川の中に入っていた。


 ざあ、と。

 ようやく鼓膜が川音を拾う。


 顔を起こした。

 途端に、顔を風がなぶる。


 ごう、と腹に響く音に目を細め、風が吹きつける方に顔を向けた。


 視界に入るのは、山だ。

 宇津川の先。

 橋のその向こうに、山裾を広げて街を見下ろす山が見える。


「まだ、衣装替えをしてないんですね」

 口をついて言葉が出た。


「え?」

 石堂が訝し気な声を出すから、慌てた。


「いえ……、あの。伯母さんが言ってたんです。あの山にいるのは、女神さまだそうで」


 翠は、つながれていないほうの手で山を指した。

 季節は9月だが、まだ紅葉には早い。かといって、夏のころの若葉を残しているか、というとそうでもなかった。


 山は、ただ茶色と深緑色を身にまとうばかりだ。


「女神はお洒落だから……。四季折々に着物を変えるんだそうです」


 春は桜色。夏は若葉色。秋は紅葉色で、冬は真っ白に。


『あの山の姫様は褒められるのが大好き。だから、衣装を変えたら「きれいですね」って言うのよ』


 伯母は幼い翠にそんなことを言った。

 そうだ。また、伯母に電話をしなければ。


「女神、ですか。確かに山神は女であることも多いですね」

 かいつまんで石堂に説明すると、彼も山を仰いだ。


 まだ色づかず、一年の中で一番地味な服装をしている。


 石堂のような美青年にその身を見られるのは嫌だろうか。なんとなく翠は思い、気を逸らせるために、川に入る。


 ざぶり、と予想以上に大きな音がした。

 石堂も顔を山から翠に向け、手をしっかりと保持したまま、中洲まで移動する。


 一歩一歩踏み出すごとに、川底の石が移動して、灰色の土を吐き出した。そのまま川の水を汚すから、なんだか翠は申し訳なくなってくる。


 ざぶざぶと川の流れを足で割りながら前に進む。

 すり足歩行ができる分、土手をくだるより楽だ。


 ふと、日が陰る。

 また足ばかり見ていたようだ。


 顔を起こすと、中洲に近づいていた。

 大きな竹が首を伸ばし、顔を覗き込むようにして傾いている。


「さて。禁足地です」


 石堂が固い声で告げた。

 改めて翠は中洲を見やる。


 車の中で観ていた時は感じなかったが、大きい。

 密集して生えている竹の背丈も高いせいか、威圧感がすごい。それに温度が周囲と違うのだ。


「気を引き締めて行きましょう」

 石堂の言葉に、ごくりと生唾を飲み込んで頷く。


「ここから入れるようになっています」


 視線を向けると、確かに一か所だけ、竹株しか残っていない場所がある。切り出された竹部分は持ち去られて処分されたのか、竹垣のように積まれてはいなかった。


 細く長く。

 道は竹藪の奥に続いていく。


(暗いな……)

 怯みながら目を凝らす。


 いくら竹が日を遮らせているとはいえ、こんなにも闇が滞るものなのか。


 ぶわり、と。

 また山の方角から風が吹く。


 ざわざわと竹の葉が揺れたのに。

 竹藪奥の闇は一向に散らない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る