第11話 中洲
「以前はお仕事しながら書いておられたんでしょう? 〝カスタネット連打〟のときは忙しかったのでは?」
「そうですね。繁忙期と重なると辛かったです。他の作家さんはどうやっておられるんだろうと思っていました」
翠は苦笑する。
この日に打ち合わせしましょう、と言われて仕事を段取りし、後輩に引継ぎの指示を出して仕事を休むのに、約束の一時間前に「すみません。リスケでお願いします」とメール連絡がくる。しかもそれが一度や二度じゃない。時間変更も頻繁にある。いったい、他の作家は本業との調整をどうしているのだろうと真剣に悩んだこともあった。
「それに火星に事務所があるとしか思えない速度でメールの返信がきますからね。私、前職は営業でしたから、お預かりした文書や予定表などがメールや郵送で届くと、すぐ返事するほうなんです。そうじゃないと、先方も心配なさるじゃないですか。『届いたのかな』とか」
窓越しに大きな駐車場を兼ね備えたスーパーが見えた。新規入居者を見越しているのかもしれない。
「私にとっても先方さんにとっても大事な書類をお預かりし、お届けしているわけですから……。拝受しました、届きました、送りました、は当然だと思っていましたが……。
まあ、所属する社会によって常識は違うので仕方ないのでしょうし、私の存在とはその程度なのでしょう」
自嘲気味に笑う。
「今度、ご著書を拝読させていただきます」
石堂の言葉はどうせお愛想だろう、と笑ってやり過ごす。なにしろ今の担当編集者は翠の過去作を読んでいないし、内容も知らなかった。
担当編集者さえ読まないのに、数回しかあったことのないこの男が読むことはない。
そんなことを考えている間に車は右折をした。
見覚えのある道路と、小学校の校舎が見えてくる。
「あ。このあたりですね」
声を上げて身体をねじり、窓に張り付くようにしてみた。
整備区画と従来通りの住宅街が混在しているのかもしれない。なんだか、ちぐはぐな風景だ。
顔をフロントガラスに向けると、信号の向こうに橋が見えてきた。
「この川がそうですよね」
橋の下を流れる浅瀬の川。
それが宇津川のはずだ。
「ええ。くだんの中洲はもう少し下流です」
石堂の説明通り車は信号で左折をし、川沿いを走る。
しばらくは住宅が続いたが、次第に駅前で観たような砂利敷きの風景が広がり始めた。
「ちょっと失礼」
石堂は路肩に車を停める。
ハザードをつけて車を降りると、三角コーンを移動させ、再び運転席に乗り込む。そのまま、三角コーンの間を車は抜けたのだが、下は砂利敷だったらしい。タイヤが小石を踏む音が続き、車はそのまま停止した。
「ここから川に下り、中洲に移動します」
石堂に告げられ、翠は頷いてシートベルトを外した。扉を開けて車を降りると、川に沿ってかなりの広範囲が更地になっている。ところどころ区画を示しているのか、杭が打ち込まれていて、資材かなにかをくるんでいるらしいブルーシートの山が見えた。
「これを履いてもらえますか?」
オートドアが開閉する音がした後、石堂が長靴を二足持って近づいてきた。
「社の者に聞いてもサイズがアバウトで……。一番小さなサイズのものを持ってきましたが」
石堂に礼を言って受け取り、車に片手をついてスニーカーから長靴に履き替えると、親愛コーポレーションのロゴが入った作業用上着を手渡された。
「蚊がすごいので、半袖は危ない。ポケットに軍手を入れていますから、必要に応じて使ってください」
言われて作業着に袖を通すが、男性用なのかもしれない。袖口から手が全く出ない。仕方なく折って巻き、なんとか手首を出したら、今度はヘルメットを手渡される。
「念のため」
石堂に言われて、かぶる。
顎下のベルトをかちゃりとはめるが、ぶらん、と隙間が空いた。まあ、いいかと放っておいたら、同じくヘルメットと長靴姿の石堂が近づいてきて、きっちりと締め直された。
「……やっぱり犯罪者に見えたらどうしよう」
されるがままに顎を上げて石堂を見ていたら、視線を逸らせてそんなことを言われる。
ぶかぶかの上着に、寸が大きすぎて膝まである長靴を履き、黄色のヘルメットをかぶった自分は、彼の眼には幼稚園児にでも見えるのだろうか。
「なにかあれば、自分で自分の身分を提示しますから」
「そうしてください」
力強く頷き合ったあと、石堂は一旦車に戻り、今度は虫よけスプレーを二缶持ってきた。
「気を付けるのは蚊だけで良いと思うのですが……。このあたりは今、鹿やイノシシが増えていまして……。ダニがすごいんですよ」
「ダニ、ですか」
進められて虫よけスプレーを受け取る。
「獣に付着してダニは移動するので……。まあ、中洲ですからね。竹藪しかないし、イノシシも渡らないとは思いますが、念のため」
言いながら、石堂はスーツの上から虫よけスプレーを吹き付ける。
アウトドアなどまったくしない翠も、見よう見まねで虫よけスプレーを吹き付けたが、「もっとしっかり」「長靴の上も」「左手だけじゃなくて右手も」と言われ、最後には結局石堂からスプレーをあちこち振りかけられた。
「こんなに振るんですか?」
半信半疑で尋ねると、目をすがめて睨まれる。
「喰いつかれたら、なかなか取れませんよ。それにマダニによる感染症で熱を出した場合、対症療法しかありません。特効薬はないんです。潜伏期間2週間、怯えて過ごすよりはましでしょう?」
「……ひょっとして、ですが。副社長、マダニにやられたことが?」
なんか真実味があるな、と思って話を向けると、深く首を縦に振られた。
「マダニだけではなく、ヤマビルにもやられたことがあります。うちは山地も取り扱っていますから」
うひい、と声を上げると、石堂はざっと翠を見やり、「まあ、こんなもんでしょう」と虫よけスプレーを車に戻し、代わりにワンショルダーのバッグを取り上げて背負った。
「では、参りましょう」
声をかけられ、翠は彼のあとをついて歩く。
砂利の上を長靴で歩く。足に合っていないから、ぼっこぼっこと、妙な音がした。
石堂が向かっているのは、土手だ。
砂利が終わると踏み固められた土の道が現れ、そこから川が見下ろせる。
川幅は300メートルといったところか。
深さはない。底が見えるほど浅い。
水も澄んでいて、魚の姿は見えないが、水草や瑞々しい苔のむした岩がいくつもある。
そこに。
唐突に、竹藪があった。
中洲だ。
そろばんの珠のような形をした中洲いっぱいに竹が生い茂り、川に近いところでは、重そうに頭を下げて葉を水につけている竹もある。
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