第6話 浄化の力

「先ほど伝えた巫覡ふげきですが……、わたしにひとつ、伝えてくれたことがあります」


 石堂はソファのひじ掛けに頬杖をつき、翠を見上げる。


「とにかく握手をして回れ、と」

「握手?」


 そういえば彼はさっき、日本人にしては珍しく握手を求めて来た。


「手で触れて……、それでわたしの身体のおりを浄化できる人間がいるはずだ、と。その人物がわたしを……、ひいては石堂家の長男を救う人だ、と」


「浄化? 救う?」

 だんだん話がスピリチュアルというか宗教がかかってきて理解が追い付かない。


「あなたこそ、わたしを救う人だと思っている」

 長良、と秘書の名を呼んだ彼は、上機嫌で笑ってみせた。


「こんなに体調がよくなるとは。今なら、大学時代のようにビールを樽ごと飲めそうだ。とにかく身体が軽い」


「……それはその……。副社長のおっしゃる、澱のようなものが浄化された、ということですか? 布士さんが触れることによって」


 狼狽する長良の声に、翠はかぶせる。


「そんなばかな! そんなことあるはずない!」


「感覚的なことを人に説明するのは非常に難しいものですが、本当に入社前に戻ったようだ。あなたの手から何かが流れ込んできて、へばりついていたものが一掃いっそうされた気分なのです」


「それはもう、心の持ちようではないですか?」


 きつい言葉を翠は発する。


「私には、あなたが期待するような力はありませんし、布士がその……、なんだっけ、とにかく中洲に関わっているとは思えません。ああ、禁足地きんそくちか。そこに立ち入ったこともないですし」


 言い切ってから。

 ふと。

 鼓膜をなにかが撫でた。


 さやさやさや、と。


 それは空気を振動させないのに。

 翠の耳に直接音を吹き込んできたようだ。



 記憶の中で、なにかが眩しく自分を照らす。



 咄嗟に目をすがめた瞬間。

 暴風に身体を揺すられた。


『この子に触るな。風が吹くぞ』

 叱責する伯母の声。


「わっ」

 思わず手で顔を覆うと、「布士ふしさん?」と声をかけられた。

 指の間から様子を窺う。そこには、訝し気な石堂がいた。


「……これで失礼させていただきます」


 顔にまとわりつく虫を払うように身震いすると、翠は足早に扉前まで移動する。


「わかりました。それならそれで構いません。わたしは死ぬだけだ」

 冷ややかで硬質な声が翠の背中を打つ。かちん、ときて振り返った。


「脅してるんですか」

「いいえ。正直に申し上げただけです。長良」


 石堂は秘書を見る。


「はい」

「わたしが死んだら、布士さんにご連絡を。いや、香典は無用ですよ。ただ」


 するり、と石堂はソファから立ち上がった。ゆっくりと翠に近づいて来る。ちょっとたじろぐぐらいの背丈だったが、翠は腹に力を込めて彼を睨み上げた。


「わたしは、あなたのせいで死ぬんです」

 そんな翠を見下ろし、一言一句丁寧に石堂は発音した。


「あなたが、あなたの力をわたしに貸してくれないから」

 スーツの前ボタンを合わせ、石堂は微笑む。


「残念です。これが今生こんじょうの別れとなるでしょう。ああ可哀想に。わたしの次は、わたしの甥が犠牲になるだろう。あなたが力を貸してくれないから。

 きっと甥だってもっと生きたかったに違いない。わたしが力及ばず、あなたを説得できなかったばっかりに。甥が短命でないことを願うばかりだ」


「それが脅しではなくてなんなの!」

 つい怒鳴りつけると、石堂は驚いたように目を見開いて見せた。


「脅し? 事実です。なあ、長良。そうだろう?」

 上司に促され、秘書は恭しく頭を下げた。


「その通りかと思います」

「ちょっと待ってよ!」


 遮る翠に、石堂は笑う。


「あなたは、わたしの身体が吸収した呪いを信じない。そして布士の浄化する力を信じない。それならそれで結構。ただ、わたしは死ぬ。そのことを伝えただけだ」


 しゅる、と黒い瞳を細め、わずかに石堂は顎を上げた。


「わたしと、そして甥の死亡通知があなたの元に届いたところで、あなたは信じなければいいだけでしょう? 自分には助ける力などないのだ、と」


「そんな後味の悪いことされちゃ困るのよ! あのね!」


 翠は石堂を指さした。ただ、指さしてから彼の身長がかなりあることを思い出し、指先を上方修正する。


「ほんとにそんなものはないの! 私は力になれない!」

「ただ、一緒に中洲に行ってくれるだけでいいのです」


 自分を指弾する手を、石堂は両手で包み込んだ。


 びくり、と翠の肩が跳ね上がったのは。

 いきなり手を握られたからじゃない。

 その手が。

 さっきよりも温かく、そして生気に溢れていることに気づいたからだ。


「ほら。さっきと全然違う」

 翠の反応に気づいたのだろう。石堂が目元を緩めた。


「あなたは何もしなくていい。ただ、わたしの側にいてくれれば」


 低い声が真上から降って来る。

 淡々としていると思っていたのに。

 その声音の奥には切実な願いがあった。


「お願いです。力を貸してほしい。禁足地に一緒に入ってほしい。わたしはここで死ぬわけにはいかないんだ」


 冷徹に見えた黒い瞳には、恐れと悲しみがあった。

 動かない表情だと思っていたのに、それは彼の怯えを隠す仮面だと知る。


 ようするに。

 彼には、翠が力を貸すしか、実は方法がないのだと気づいた。

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