第7話 契約

「……私が、なにか出来るとは思えないけど……」


 だからだろう。

 ぐらり、と心を動かされた。


 自分にすがる人を、突き放すほど翠は冷淡になれない。

 気づくと言葉が口からこぼれだしていた。


「一緒に中洲に行くぐらいな……」

「ありがとうございます。長良、契約書を」


 石堂が食い気味に長良に指示を飛ばす。呆気にとられる翠の視線の先で、長良がテーブルの上に次々と書類を並べていくのが見えた。


「ちょ、ちょちょちょちょちょ」

「印鑑はお持ちですか? なければサインで構いません。いやなに、最近は役所でも不要になってきましたからね。本日の打ち合わせ内容については、早急に長良の方から文書化し、メールにて送信させていただきます」


 石堂は、翠の手を掴んだままグイグイとテーブルの方に引っ張って行こうとする。


「待って、待って!」


 翠は踏ん張って堪えた。まるで詐欺のようだ。なんとなく石堂家の強引さが分かった気がする。


「本当に力になれなかったらどうするの! 私になんの力もなかったら⁉」


 勝手に石堂は翠に浄化の力だの、禁足地に入るための能力があるように思っているようだが、なにより翠自身が信じられない。


 もし、そんなものがなかったら。石堂の勘違いだったら。

 彼は無為のままに、死ぬのではないのか。


「大丈夫です」

 石堂は翠を見下ろし、わずかに口元に笑みをにじませた。


「その後のことを、あなたが気に病むことはない。すべてはわたしが負うのだから」

 ぎゅ、と、さらに手を強く握りこまれた。


「ありがとう。本当にありがとう」

 石堂はそう言って頭を下げるから、翠は慌てた。


「いや、その……。ほんと……。もう……。その……。一緒に、行くだけでいいんなら……、ええ」


 もごもごと言い終わらないうちに、気づけば翠は再びソファに座らせられ、長良から滔々とうとうと書類の説明を受ける。


 主に雇用条件についてだ。

 石堂と同行したときだけではなく、もし中洲の禁足地について親族や知人に質問等の調査を行ったときも、日時を報告してくれれば報酬を支払う旨を説明された。


(お母さんは日給二万とか言ってたけど……。これ、それ以上になったりしないの?)


 拘束時間をざっと計算しても、ちょっと考えられないほどの金額が発生する。


「ここと、ここにサインと、本日の日付を。一部は控えですから、布士ふしさまがお持ち帰りください」

 長良に促され、翠はおっかなびっくりサインをした。


「ところで、不躾な質問をしますが」

 ペンを長良に返すと、再び向かいに座った石堂と目が合った。


「はい」

「年はおいくつですか」


「二十八です」

「指を見る限り、ご結婚はされていない?」


 言われて、なんとなく自分の左手薬指を見る。

 数年前に婚約指輪は飾ったのに、結婚指輪をはめることはなかった薬指。


「そうですね。副社長さんも?」

 問い返すと、石堂は頷いた。


「いつ死ぬかわかりませんから」

 なるほど、と相槌をうつのも変だ。返事に困っていたら、石堂がさらに続ける。


「恋人は?」

「……いません、けど」


 翠はちらりと長良に視線を向ける。彼も多少困惑したような顔で石堂を見ていた。


「性的嗜好は異性ですか?」

「……副社長」


 さすがに長良が言葉を差し挟む。だが石堂はきょとんとした顔で、翠と長良を交互に見た。


「いえ。わたしの知り合いに同性愛者がいるもので……。その、例の巫覡ふげきがそうなんです。性的嗜好は人によって違うだろうし、と」


「……一応、以前の恋人は性別男ですが……」


 自分はいったい何を答えているんだと戸惑う。長良からは「それ以上答えなくていいですよ」という目で見られた。


「ではよかった。設定上、あなたはわたしの恋人、ということにしましょう」


 石堂は晴れ晴れと言う。

 翠は、いったいなにが良かったのかさっぱりわからない。


「え……。ちょ……。は?」


 翠は立ったり座ったりを繰り返し、長良は打って変わって嬉しげな表情で、石堂に前のめり詰め寄った。


「副社長。それは布士さまに興味を持ったというか、お付き合いをしたいというようなことを婉曲えんきょくに表現されたわけですか?」


「いや、単純に弟に邪魔されそうだな、と思ったから」


 きっぱりと言い切り、長良は目に見えて肩を落とした。だが翠は彼の言っている意味がわからない。


「弟さんに邪魔されるって……、え。それ、どういう……」


「弟は、早くわたしに死んでほしいのです」

 相変わらず真意の読めない顔で石堂は翠に告げた。

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