第2話 副社長

◇◇◇◇


 五日後。

 みどりは案内された打ち合わせ室の一室で、緊張しながら小さくなっていた。


(……本当に、親愛コーポレーションだった……)


 きょろきょろとせわしなく視線を周囲に彷徨わせる。

 翠が元いた会社の営業の打ち合わせ室とは、全く違う。主に高級感が。


 高層ビルの一室だった。

 壁面一杯を使った窓からは都会の風景が一望でき、夜景などきっと素晴らしいのではないかと思ってしまう。


 壁面には大型の液晶パネルが据え付けられ、パソコン資料を使ったプレゼンなんかをするのだろうな、とぼんやりと思う。しかし、でかいな、と。


 ローテーブルも、ソファも。

 よく知らないが北欧製とかいうものに見える。これがカフェなどであれば飴色の木材を見て翠もほっこりしたであろうが、今は緊張が全く和らがない。


(なんで、呼ばれたのか……) 

 翠の頭は疑問符でいっぱいだ。


 母の言う通り、次の日の午前中に石堂尊いしどうたけると名乗る男性から電話があった。

 詐欺ではないかと訝り、とげとげしい声音で対応した翠だが、男が言う内容は母と全く同じだった。


『弊社が所有する物件に同行してほしい』『布士家のかたに協力してほしい』『むろん、無料ではなく、それ相応の金額を保証する。今のところ、一日二万円。経費は別で考えているがどうだろう』


 そんな内容を淡々と低い声音で語った。


『なぜ、布士の家の者が必要なのですか?』


 翠が尋ねる。

 最大の疑問はそれだ。


『それは、会ってお話したい』

 石堂尊はそう言い、今日の日付と時間を指定してきたのだ。


 ふぅとため息をつくと軽快なドアノックが3回続く。


「はい」

 翠は音程のひっくり返った声で返事をし、慌てて立ち上がった。ついでにスーツの裾をひっぱり、しわがないかどうか視線を走らせる。


「失礼いたします」


 扉を開けて入室してきたのはタブレットを片手に持った五十代がらみの男性と、三十代前半の男性だ。


(……どっちが、副社長なのか)


 視線を彷徨さまよわせる。

 年齢から考えれば、五十代の男性だろう。


 だが、彼は扉を開いてわざわざに三十代の男性を先に部屋に通した。

 威風堂々とした長身の三十代の男性が通り過ぎるときわずかに視線を下げた様子を見ても、多分年若いこの男が副社長に違いない。


「お忙しいところ、お呼びたていたしまして」

 三十代の男が口を開く。首から下げたネックストラップには写真入りの社員証があり、そこには〝副社長 石堂尊〟とあった。


「石堂と申します。お電話では失礼いたしました」

 革靴の足音が消えるほど重厚な絨毯を進み、三十代の男が近づいて来る。

 一瞬名刺を渡されるのかと思ったが、意外にも男は右手を差し出したから仰天する。


(あ、握手か……)


 海外ならまだしも、この日本で初対面に握手を求められるとは思いもしなかった。

 翠はどぎまぎしながらも右手を差し出す。


 ぎゅ、と。

 力強く握られ、数年前に政治家と握手をした時のことを思い出した。

 別に支援をしている政治家ではない。たまたま街頭演説後の政治家に道で出くわし、なんとなく握手されてしまったのだ。


 一瞬だけ力を籠める感じは似ているが、質感や大きさはまるで違う。


 石堂の手は、あの時の政治家よりも大きく、ごつごつとしていて。

 そして。


 やけに冷たかった。


 まるで鉱石を握りこまされたような気がした。

 温度が低すぎるせいか、生物に触れた気がしない。


「冷え性、なんですか」


 つい、そんなことを尋ねてしまった。だが、それに対する返答はない。

 石堂は無言で翠を見つめている。


「ああ……、すいません。失礼しました」

 余計なことをなんで言ったのかと顔をしかめると、石堂はほんの少しだけ目元を緩めたようだ。


「あなたは、わたしの想像通りですね」

「想像どおり?」


 怪訝な声で繰り返した。なんだか変な返答だ。だが、石堂は手を離して後ろを振り返った。


「秘書です」

「副社長の秘書を務めております、長良ながらと申します」


 五十代の男は、きっちりと腰を曲げて翠に頭を下げて見せた。その際、ぺろんと首から下げた社員証が垂れる。そこには〝副社長付秘書 長良大輔〟とあった。


「布士翠と申します」

 翠は石堂と長良に向けてお辞儀をする。


「どうぞ、おかけになってください」

 声掛けはされたが、石堂は向かいのソファに座るのを見届けてから、翠は再びソファに座った。


「平日を指定してしまいましたが、ご迷惑ではありませんでしたか?」

 石堂がわずかに首を右に傾げて見せた。


 なんというか、不思議な顔立ちだ。

 無表情がいけないのかもしれない。端正なのに無機質に見える。

 もう少し口端を上げ、声に抑揚をつければきっと雰囲気が変わるのに、と翠は考えながらも首を横に振る。


「いいえ。現在、自由業のようなものですから」

「フリーランスですか。憧れます」


 石堂が小さく頷く。そんないいものじゃない。無職とほぼ同義語なんだとは言わず、無言でやり過ごす。


「なら、好都合です。ぜひ、我々の力になっていただきたい」

 石堂は、ちらりと長良に視線を向けた。

 彼は無言で頷き、タブレットに指を滑らせてから翠に見えやすいようにテーブルの上に置いた。


「現在、弊社が所有している土地です」


 石堂が淡々と告げる。

 翠は少し前かがみになってタブレットを覗き込んだ。


「川、ですか?」

 呟く。


 写真は〝土地〟というより〝川〟の様子を映していた。


 画の上方に山があり、中央には一本の川が流れている。

 随分と川幅が広い。中洲には竹藪が生い茂っていた。

 住宅地に隣接する川らしい。

 川側には荒いアスファルトの道が南北に伸び、住宅もちらほら写り込んでいる。


「この中洲なかすを見てください」

 長良が画面をスライドさせる。


 中洲は縦に長い楕円形をしていた。川に接するぎりぎりまで竹が生えており、住宅街の様子も相まって、なんだかそこだけ異様な風景に見えた。


(川の中に竹藪……。これって……)

 翠は目をまたたかせる。


 この光景に見覚えがあるのだ。

 川幅が広いせいか、流れはゆるやかな川。

 唐突に目の前に広がる竹藪。

 さやさやと聞こえるのは、竹の葉が風に揺れる音。


『手伝ってほしいんだ』


 唐突に鼓膜を撫でる男性の声に翠は身体を震わせた。


「こちらは、△県浮橋郡八川町です」

「……あ」


 石堂の言葉に、翠は声を上げて顔を起こした。

 目の前には自分を真っ直ぐ見据える漆黒の瞳がある。石堂だ。


「ご存じでしょう?」


 ご存じですか、と彼は言わない。


 

 彼はそう言った。


「昔……、小学校……、低学年までは住んでいたかな……」 

 口ごもりながら答える。


 何年生までいただろうか。高学年まではいかなったのではないか。

 脳裏に浮かぶ当時の光景は、年長の小学生に手を引かれ、この川沿いのアスファルトを歩いているものだ。

 まだランドセルの中身がそんなにないのか、歩くたびにかたかたと背中が鳴り、翠はこの川を眺めながら小学校に向かった。


『そっちにあんまり近づいちゃだめだよ』

 お姉さんっぽい口調で高学年の女の子が翠に注意する声まで蘇った。


『ほら、列から離れないで』


 あぁそうだ、と翠は思った。

 同級生たちの声がうるさすぎて、上級生の手を振り払い、列から少し離れて歩いていたんだったっけ。


 小さなころはとにかく騒がしい場所が苦手だった。


 今では突然鳴り響くホイッスルのようなものと赤ん坊の泣き声が苦手くらいにはなっている。


「布士一族は、この土地にずっと住んでいたと伺います」

 目が合うと石堂はそう言った。


「そう……、ですね」

 返事とも言えないものを口にすると、石堂はソファの背に上半身を預けた。

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