禁足地に吹く風

武州青嵐(さくら青嵐)

第1話 母からの電話

 布士翠ふしみどりがその着信に気づいたのは、偶然といえば偶然だった。


 イヤホンを耳から引き抜いてふぅと一息ついたとき、テーブルの上に投げ出したスマホが震え始めたのだ。


 反射的に手を伸ばし、パネルに表示された文字を見る。


 母。


 たった一文字のそれを見て、翠は露骨に顔をしかめた。一番いやな相手からの連絡だ。


 無視しようかと考えた。

 気づかなかった。わからなかった。数日後にそう言って、しれーっと返信すればいい。


 そう思って翠はスマホをいったんテーブルの上に置き、ノートパソコンのYouTube画面を閉じる。そのあと、さっきまで書き続けた文章を念のために上書き保存した。実際は、こまめに行っているからその必要はないのだが。


 その間もスマホはぶうん、ぶうん、と不愉快な音を立てて振動し、テーブルの上をゆっくりと移動する。


 留守番設定にしておかなかったらしい。 

 スマホは小刻みに揺れながらテーブルの端に這っていった。


 電話は一向に切れる気配はなく、もはや翠が通話に出るかそれともテーブルの端から携帯が落ちるかのチキンレースになっていた。


「……もしもし」

 翠は小さく舌打ちして、スマホを取り上げてパネルをタップする。


「翠? お母さんだけど」


 分かってる、という言葉はかろうじて飲み込んだ。耳に押し当てたスマホからは懐かしいというか、うざったいというか。今一番聞きたくない声音が流れてくる。


 昔はそんなことなかったのになぁ、と翠はゆっくりと深い息を吐いた。


 例えば大学を卒業し、就職すると同時に実家を離れた時など毎週土曜日には母に電話をしたものだ。

 業務上の愚痴や、人間関係の泣き言。小さいながらも手にした成功や、たわいない近況報告。

 そんなことを気づけば一時間近く話していたような気がする。


(いつから、いやになったんだっけ……)

 そんなことを思い、気づく。


 そうだ。

 結局、結婚がご破算になった話をしたときだ。


『あんたが病気の話なんかするから。どうするのよ。親戚になんて報告するの』


 翠をなじる母の表情を見て、ひどく落胆した。

 あぁこの人はなにより世間体が大事なのだ、と。


 その反応を見て母も我に返ったのだろう。取り繕うように慰めの言葉をかけられたが、翠はあの時の母の顔が忘れられない。


 以降、なんだか心の距離がそのまま母との直接的な距離になっている。


「なに? どうしたの。何の用」 


 翠は努めて冷静に話しかける。肩と耳の間にスマホを挟み、ノートパソコンの電源を切る作業に入った。


「あんた、本当に仕事を辞めたの?」


 案の定そのことかと眉間にしわを寄せつつも、口調は一定を保つ努力をする。


「うん。まだ一か月たってないけど」

「次の仕事は決められそうなの?」


 急かすようなどこか苛立ったような母の口調に、こちらの心が波立つ。


「急いで探すつもりはないし……。今のところ、退職金と副業の方でなんとかなりそうだしね」


 意識してゆっくりと言葉を吐きだした。そうでもしないと、早口にまくしたてて通話を切りそうだ。


「副業って。あんた、それ、いつまで仕事がもらえるの。そんなに儲からないんでしょう? やめちゃいなさいよ」


 それなのに母は矢継ぎ早に言葉を投げつけてくる。


「今だけなんでしょうし……。若いうちにいい仕事をみつけなきゃ」


 決めつけられ、湧き上がる怒りをぐっとこらえる。


「この前、別の仕事も声かけてもらったし……。まあ、それをこなしながら正職を探すつもり」

 わざと笑いを含ませると、母の言葉は和らいだ。


「そりゃそうよね。それがいいわ」


 なにがいいのか。

 言い返したい言葉を、奥歯を噛み締めて堪える。


 昔から母は、翠が文章を書くことを嫌った。


『そんな趣味はやめてしまいなさい』『お金を稼げるのはほんの一握りなのよ。それより、地に足つけて働きなさい』『伯母さんをみてみなさいよ。今じゃ何もしていないじゃない』


 もちろん、翠だって成功するとは思っていない。

 だからこそ、大学を卒業して本業を得た。


 工業用塗料の販売会社だ。そこの営業として正式雇用され、休日や昼休みを使って学生時代から続けていた小説の新人賞に投稿した。当時つきあっていた恋人も、『夢があるのは素敵なことだ』と理解してくれていた。それが後押しになった。


 結果的に二十八才の時に翠はとある新人賞の佳作に選ばれ、書籍化した。ちなみに翠の夢を応援し、結婚を考えていた恋人と別れてから二年後のことだった。


 数少ない友人に報告をすると、「まだそんなことしていたの」と一様に呆れられ、結構落ち込んだ。「おめでとう」と言って、早速書籍を購入してくれたのは、今でも年賀状のやり取りをしている美佳みかだけだ。あとは「そういうのって、出版社から何冊か貰えるんでしょう? ちょうだい」と連絡をしてきた。


 母は喜んでくれるものだと思ったが返ってきた言葉は友人と大差ない。

 そして、美佳以外にもうひとり。

 受賞の連絡をしていないのに、花を贈ってくれた人物がいた。


 別れた、元恋人の亮太りょうただ。


 すでに別の女性と家庭を築いていた彼は、まだ翠のペンネームを覚えていたらしい。

 嬉しくなり、御礼を兼ねて連絡をすると電話の向こうで赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、電話なんかするんじゃなかった、礼状を送ればよかったのだ、と鬱屈した思いを抱える結果となった。


「じゃあ、ちょうどよかったわ。数日中にね、いしどうたけるさん、って男性からあんたの携帯に連絡が入ると思うから」


 母が何度も繰り返す〝あんた〟という言葉にいらいらしていると、そんなことを言われて驚いた。


「え。なんて?」

「だから。いしどうたけるさん。石のお堂って書いて、いしどう。で、尊敬の、尊で、たける、って読ませるんだって。これ、きらきらネームとかいうやつ?」


「違うんじゃないの? ってか、なんで勝手に私の携帯番号教えるの!」

 さすがに語気が強くなる。


「親愛コーポレーションの副社長さんらしいの。ぜんぜん変な人じゃないのよ」


 珍しく母親が言い訳めいたことを口にした。言い返してきたことと、指摘した内容に今更ながらにまずいとは思ったのかもしれない。


「親愛コーポレーション?」


 訝し気な声で問う。

 確か不動産会社だ。翠もテレビのコマーシャルで見たことはあるし、業界大手だという認識はあった。


「そうなの。お名刺も頂戴してね、誰か紹介してほしい、っておっしゃるから」

「紹介? なんの」


 母は専業主婦だ。

 人間関係などたかが知れている。PTAか自治組織ぐらいのものなのに、なんの紹介を求められたのか。


「布士の親族で、親愛コーポレーションが預かっている物件に同行してくれる人はいないか、って聞かれて……」


 母の返答に、ますます翠は眉根が寄る。


「物件に同行するのに、なんで布士の人間が関わるの? 布士が持っている土地なの?」

「そうじゃないんだけど。なんかね、同行してくれるだけで、一日二万円ぐらいの日当をくれるんですって」


 次第に母の声が弾んでくるが対照的に翠の警戒心はアラームを鳴らし始める。そんなうまい話があるものか。


「それ、本当に親愛コーポレーションなの?」


「大丈夫よ。お父さんがお名刺の連絡先に電話してみたの。そしたら、受付の人が、ちゃんと本人につないでくれてね。お父さん、『疑って悪かった』って言ったんだけど、『いえいえ。不安になるお気持ちは分かりますよ』って。ほんと、良い人よね」


 翠が相手を騙そうと思っていたらいくらでもそんなことを言うし、誰かに頼んで受付役だってやってもらう。


 怪しすぎる。

 翠の眉間のしわがさらに深くなる。


「あんた、失業してるんだったら、一度お会いしてみたら? 正職を見つけるまでのいい小遣い稼ぎじゃない」


 その小遣い稼ぎすらしたことがないくせに、気軽なことを言ってくれる。


「伯母さんは? あや伯母さん」

 引っ越してから疎遠になったが、彼女だって翠と大差ない境遇ではなかろうか。


「姉さんはだめよ」


 きっぱりと言い切られ、思い出す。

 そうだ。母と伯母は仲が良くないのだ。


「とにかく、あんたしかいないの。暇な人は」

 強制的に言われ、突発的に怒りが沸いた。


(落ち着け、落ち着け)


 翠は奥歯を噛み締め、ゆっくりと息を吐いた。

 怒りというのは、だいたい五秒ぐらいでおさまるのだという。


 だから心の中で十秒数えればこの怒りもおさまるはずだ、と翠は「いち、にぃ」と数え始めたのだが。


「ということで、石堂尊さんから連絡があったらよろしくね」

 十秒数える前に、電話は一方的に切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る