第59話
姫華さんメインの章の始まりです。
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「お母様、それではさようなら」
姫乃はいつかの姫華さんのように、凍りつきそうな雰囲気で踵を返し、立ち去っていく。
残された姫華さんの顔には、ただただ絶望の色が浮かんでいた。
———時は数時間前に遡る。
ぐるっと二、三周すればマラソンコースになりそうなほど長い塀に囲われた、和風建築の豪邸。門をくぐって敷地内に入れば庭園に迎えられる。池、盆栽、趣向を凝らされた各種美術品、全てにため息が出るくらいの美しさを感じたが、何より心を打たれたのは見事に咲き誇った鮮やかな青の紫陽花だった。どれくらい美しいかというと、我を忘れて見惚れてしまうくらいで『ふふん、どうよ、我が家は。あなたみたいな木っ端者が一生住めるような家ではないのだから、足を運べたことを光栄に思いなさい』とかイキりながら先導していた姫華さんが『どうしてついてこないのよ!!』とキレて戻ってくるくらいである。
「ねえ、あなた、本気で貸しを返すつもりがあるのかしら?」
「ありますよ。姫華さんには本気で感謝してるんですから」
「そうよね。この私に海外に飛ばせて、政治介入までさせたのだもの。感謝されないと困るわ」
姫華さんは美しい黒髪を靡かせてサラッと言ったが、言葉の重みというやつがある。結衣が無事大臣の悪を暴き、姫となって日本に帰ってこれたのは、この人の助力あってこそなのだ。姫華さんは何をしたか言うつもりがないらしく詳しくは話してこないけれど、事が事なので、かなりの負担を強いたことには違いない。
つまりは相当の恩があるということで、今日雪城邸を訪ねたのも『恩を少しでも返しなさい』と姫華さんに呼ばれたからだった。
「お邪魔します」
玄関から入って長い板張りの廊下を歩く。音は俺たちの足音しかなく、広さに対して静かであると感じる。家柄、経済力を鑑みれば、使用人がいてもおかしくなさそうだけれど……と周りを見ると、障子の隙間から男性物のスーツが掛けられているのが見えた。
「ここには何人くらいが住まわれているんですか?」
「え、そ、そうね。住んでいるというのであれば6人かしら」
「へえ、案外少ないんですね」
「本当よ。この広さの建物を6人で維持してくれているなんてね」
「? 6人で維持してくれる? まるで姫華さんがその6人に含まれていないような口ぶりですね」
「あ、あーえっと……その、べ、別にいいでしょ何でも!」
口をまごまごさせた姫華さんに何か訳ありのようだと察する。広い屋敷、全員出払っている、自分が住んでいる家ではない。意図を探る材料は多分にあるけれど、追求はやめておく。恩返しさせようとする場所に誰一人としていないなんて、どうせろくでもない理由にちがいない。人目を憚るような酷いことをされるのはわかりきっていて、わざわざ暗いお先を想像したくはない。
なんて思ってすぐに、嫌なものを見つける。
「あれ、なんですか?」
俺は廊下に置いてあるバケツと山積みされた雑巾を指差す。
「一応、用意したわ」
「用意したって、どうしてです?」
「言ったじゃない。雑巾を巻き付けて転がしてやろうかしらって」
電話でそんなことを言っていたのは覚えている。だからそうするつもりなのはわかっていたので、敢えて聞いてみただけだ。
ため息をつきたいが、失礼に当たるのでそうはせずに観念する。
「わかりました。やりますよ」
「いや、やらなくていいわ」
「やらなくていい?」
「ええ。考えても見なさいよ。一国の大事を起こした私に対する見返りが、ただ雑巾を巻き付けて転がすだけ。あまりにもしょっぱいと思わないかしら?」
「まあそれはそうですけど……でも、用意はしてるじゃないですか?」
「そうね。貴方が嫌がって嫌がって仕方なそうならば、私もやる価値はあったわ。でも貴方の『まあ恩があるし、このくらいはやってあげてもいいか』みたいな態度を見てるとやりたくないのよ」
「いい性格してますね」
「貴方にだけは言われたくないわ」
こっちこそ。なんだけれども、一生平行線になりそうなので飲み込んでおく。
「じゃあ何をすればいいんですか?」
「そうね。他にも用意しているから、貴方の反応を見て決めたいと思うわ」
どうやら色々と準備万端みたい。でも。
「一応、言っておきますけど、結衣に手を貸してくださったことは俺にとって大きなことなので、大抵のことは拒みませんよ」
そう言うと、姫華さんはため息をついた。
「そうなのよねえ。ま、とりあえず、準備したものだけは見てもらいましょうか」
「わかりました。姫華さんが気合い入れて準備したお家デート、楽しみです」
「ち、ちゅき!!??(お家デートじゃないわよ!?)」
こうして姫華さんへの恩返しデートは始まったのだった。
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