47 展
透さんの言葉は謎めいていたが、透さん自身も詳しいことは知らないらしい。
「昔からよく言われる話だけど、人間の脳はその能力を一〇〇パーセント発揮していない。だからそれが解明できれば……」
「人間に新しい能力が備わるとか」
「さあ。でも環境に適応して生まれる生物が、その環境変化に伴う柔軟性ならばともかく、必要以上に無駄な部分を持っているとも思えないわ」
「確かに……。だけど世間を見ていると無駄が多いですねよ。人自体に無駄な部分が多いから、その人に作られた世間も無駄が多いとか」
「普通に考えれば馬鹿げた射影でしかないけど、案外そういうことなのかもね。……それで話を戻すと、もしかしたら本質的に人はいろいろなことを忘れていないのかもしれないということ。理由は不明だけど、いろいろなことを自ら忘れるように誰かが、あるいは種そのものが設定し直したのかもしれないと」
「それが記憶の歪み……そういうことですか」
「さあ。わたしは断片的に会話を漏れ聞いただけだし、それに話していたのはドイツ人だったし」
「透さん、ドイツ語もできるんだ。いいなあ」
「残難ながらほんの少し。だから詳しいところまでわからないのよ」
悲しんでいようが、明るく振舞っていようが、時は流れる。
哲学者の中には時間がないという人がいて、わたしもその論には賛成だが、少なくとも世間的に時は未来に向けて流れている。
だから大学の授業も始まる。
「蓮見さん、休み中に何かあったの」
一般教養の授業で講義室の隣の席に座った特に親しくもないクラスの男がわたしに聞く。
「さあ、特に……」
「そうかな。だってキレイになったから」
「そうらしいわね。従姉も言ってたから。年齢的なものじゃないの」
「でも性格は変わらない」
「三つ子の魂は百までなのよ」
「今日は実験がないから、授業が全部終わったらご飯を食べに行かない」
「学内ではともかく、漆原くんが女性に不自由しているようには見えないけど」
「うん、だから蓮見さんに興味がある」
「変わった趣味ね。……珍味とか。寒海(かんかい。氷下魚を干したもの。そのままか、焼いてからマヨネーズ醤油や一味唐辛子をつけて食べる)……」
「それならば、ルッツ(ユムシと呼ばれる海産無脊椎動物で刺身や炒め物などにして食べる)だな」
「ああ、勘弁。でもホヤは好きよ」
「ザザムシ(カワゲラ/カゲロウの幼虫)は……」
「いやだな。ぞっとするものばかり。このわた(ナマコの内臓を塩漬けしたもの)がいいわ」
「酒飲みだね。じゃ、河豚の卵巣の糠漬け(ゴマフグ/サバフグ由来の猛毒を持つフグの卵巣を三年前後、塩漬け/糠漬け/粕漬けすることにより無毒化したもの)とか」
「物知りね」
「蓮見さんには負けるよ。でもウチの学生は、そんなのばかりだから」
「そうなんだ」
「一説によれば潜在意識に働きかけて学生候補を選ぶという」
「出来の悪い小説の設定ね。だから真実味があるとか」
「この大学の宣伝を見たことないかな」
「……と言うより、テレビを見ないからね」
「なるほど」
その辺りで政治学の教授がいきなり小テストを始めたので会話が終わる。
授業の終わりに、
「ご飯の方はどう……」
と問うから、
「そのとき気分が良ければ……」
と答え、講義室を去る。
次の授業が語学で、わたしがドイツ語、漆原均がフランス語選択なので別の教室に向かう。
その後の授業ではまた同じ講義を受けるが、漆原均はわたしに近寄ってこない。
いつも一緒にいる仲間たちと集団になっている。
一方のわたしは全学的に二割程度の女子学生たちと一緒にいる。
そうしたくているというより、楽だからいるというのが正直なところ。
もっとも皆私語が少ないので、必要以上に個人情報を交換することはない。
例外的に喧しい人物は男にも女にもいるが、あくまで例外。
その点が漆原均の『潜在意識に働きかけて学生候補を選ぶ』という妄想に信憑性が増す要素か。
少なくとも、わたしが通った高校の授業は約半数の生徒が常に無駄話をしていたからだ。
午後六時を過ぎ、授業を終えた教室を出、購買に寄ってからバス停に向かうと、予想はあったが声をかけられる。
「蓮見さん、どう。その気になった」
そういって会釈する漆原均の表情に屈託はない。
「そうね」
だから、わたしも誘いに応じる。
「二人だけなの」
「他の連中はもう帰ったよ」
「そう」
「じゃあ、こっちで……」
「ああ、車か。お金持ちね」
「いや、バイク。しかもローンだよ」
「あら大変」
「特別奨学金があるから、バイト代は全部ローンに注ぎ込んでるんだ」
「ふうん」
……と言うことは、かなり高額のバイクなのだろう。
けれども、わたしに知識がないので判断できない。
「メカ系は苦手なんだね」
「エンジンそのものだったら詳しいわよ。ただ車種に興味がないだけ」
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